ブログ - 20221212のエントリ
若いころの夢にはよく女が登場していたが、不能になった今、女は登場しなくなった。それは当然のことであろうが、ここ二、三年の夢はタイトルのとおりで、NHKの受信料の集金をしていた頃が、舞い戻っている。決まって、見知らぬ土地への不安となにがしかの期待感がこもっていて、追体験していることがわかる。あの頃は住宅地図とけ契約リルトを持って、バイクで大牟田や久留米、大川、柳川のビジネスホテルに泊まって、見知らぬ未契約先を訪れたものであった。振り返ると貴重な体験であった。
数えきれないほどの体験をした。生活者たちと金のことで交わり、教えらたり、発見したりまさに冒険であった。それは夢となって昇華し、ふとした何気ない景色が現れたりするのである。無意味としか言えない景色が自分の心を打つことがある。なぜ心に残っているかわからないが残っているのである。ふとした家の物陰、通り道、野草など・・・。
なぜこんなことを書いているのか?といえば、サムエルベケットの短編、(鎮痛剤)を読んだからである。彼の小説は変わっているというより、こんなことをよく小説にするな?と不思議な気持ちになるからである。
わたしがいくつの時に死んだか忘れた。どう考えても年とって死んだことはまちがいなさそうだ。九十歳ぐらいかな、それにしても長生きしたもんだ。(白水社刊・鎮痛剤)
死んでいればいくつの時に死んだかなんてわかるはずはないのに、作者はそんなリアリティは無視しているのである。こんな文章で書けるのだな、と感じ入ってしまう。
次は(追い出された男)である。書き出しを要約すると、階段を上ろうとして、最初に置いた段を一段目と呼ぶべきか?二段目と呼ぶべきか?迷う場面から作品は入るのであるが、それは当然一段目であるはずであるが読んでいる方はその迷いが正しいような錯覚に落ちてしまうのである。頭がおかしくなる感じがする。
ベケットはノーベル文学賞をもらっているが、天才であることはまちがいない。もしかすると、自分もまちがっていえば、天才なのかもしれない。先ほどの自分の夢を作品にしてみたい。