ブログ - 202301のエントリ
今日のヤフーのニュースで、見た目の判断は差別か?と言う記事が載っていたのでこのブログを書く気になった。近頃は、差別やセクハラに対して過剰に反応する傾向があり、わたしは疑問に思っていた。このまま進んでしまうと何も言えなくなり、書けなくなるかもしれないのである。ドラマや小説が面白くなくなったのは出版社や読者が過剰に反応しているからでもある。
背の高い低い、色が黒い白い、などの表現よりも、その下のひそむ意識、感情の問題なのである。ということは意識や感情を持ってはいけないのか?ということになる。そんなことはない。もしそうであれば人間であることも否定しなければならなくなる。
それより、背が低いことはい悪いことであろうか?人間の体や自然一般そのものに違いが出来ることは当然であり、それを否定するならば単細胞の時代に帰るしかない。そこで皆身長の同じ人間が出来たとする。すると背が低いという判断基準さえなくなるのである。価値基準さえなくなり、衰弱してしまう。単細胞生物の世界がそうである。
差異はエネルギーを生む生命の根源なのである。否定はできないし、優劣の基準で判断してはいけない。優劣で判断するから差別に通じるのである。
その女の人とはカラオケ教室で知り合っただけで、深い関係はない。が、あなたは私の弟みたいで可愛い、心がきれい、といって援助してくれる。貧乏暮らしを見て気の毒になったのであろうが、嬉しい。以前の自分であればバカにされたと腹を立てたであろうが今は有難く思うだけである。野菜を売りに行けば千円ほどにしかならないものを三千円で買ってくれたり、スイカ畑にアナグマが出るので警報機を付けると言えば五千円の金を出してくれたり、それに彼女がもらったいろいろなものをくれたりする。彼女の庭に畑づくりに来ている老婆が泥棒に入られてい衣類まで盗まれたといえば買い置きのパンツをあげたりしている。その他に生活の苦しい女に金を貸したり、相談ごのったりもしているもしているので、彼女の家は人が寄り集まり、親分の家になっている。
今の世の中を見回してみれば、こんな親分たちはどこへ行ったか?さっぱり姿を消している。暴力団の親分たちだって、子分が刑務所に入れば残された妻子の面倒を看たり、刑務所に差し入れに行ったりして、きちんと面倒は見ていた。暴力団が良いのか?悪いのか?は別にして、ここに古来からの共同体の精神があった。今では為政者が福祉という名目で面倒を看ているが、悪く言えば民主主義を個人主義が共同体を壊したのである。
キリスト教会に日曜礼拝に通っているが、そこも女信者達が花や果物や菓子を持って来て、フードロスの活動をしている。やはり女の人が社会活動を始めると男にはできないこと手をかけているのがわかる。子育てもそうであるし、食材に関してもそうである。
今、国会が開かれて審議が始まっている。岸田総理は物価の高騰や軍備の問題でくるしい立場に立たされるであろうが、基本は国民の生活である。このブログに書いた女親分や組長のような気持を持っていれば乗り切れるはずであるが・・・。
わたしは外国に行ったことはなく、外国人との付き合いもない。外国に行ってみたかったが、もう75歳ではおそいすぎる。興味はじゅうぶんにある。五年前、宗像市の福岡教育大学で異文化交流という公開講座があったので参加した。東南アジアやヨーロッパなどの留学生が講義を受け、大宰府の史跡を見に行ったり、相撲の観戦をしたりした。かれらとしゃべり、楽しかった。
スペインの学生がこう言った。日本の相撲部屋は外国人は一つの部屋に一人しか入れないのですね。これは差別ではないですか?わたしは初めて耳にする言葉に驚き、返事が出来なかった。そんなことはニュースになったことはないし、ほとんどの日本人は知らないことである。
考えて、後に返事をした。無制限に入れたら、国技である相撲は強い外国人たちに占領されてしまいます。それはいけないことなので国技を守っているのでしょう。そう言うと彼は納得したようであった。だが、外国人としゃべったからそのような異見がでたのであってそれがなければ自分は知らないし、外国人の日本への見方が理解できなかったであろう。相手の立場に立つとよくわかるのであるから、彼の言うことだってもっともなことであった。
これが誤解のまますすむと戦争にだってなりえるのである。その公開講座にもしロシア人がいて今のようなウクライナ戦争が行われていれば、双方の立場と考えが食い違ったまま戦争に進むかもしれない。ウクライナ戦争は双方が自分の国を守るためだと言っているのである。相手を侵略するためだなんて考えてもいない。
こうして、戦争は始まるのである。今、もしロシア人がとなりに引っ越して来たら、ウクライナを侵略して泥棒やレイプをした国民として見るかもしれない。すると相手もそれを察して悪感情をもつだろう。近頃のマスコミはプロパガンダや広告じみたものが多くなって見分けることが難しく、引き込まれてしまいそうである。
このブログのように公平な立場で表現しなければ、そのうち太平洋戦争の時の大本営発表みたいになってしまう。外国人と付き合う時は、国家より個人として見る目が必要である。
昨日は弁当配りの日で、いつものように運転手の男としゃべりあった。同世代なので考え方もあう。ウクライナ戦争、日本の政治、韓国の徴用工問題、中国の動きなど話題は広く、一時間半の時間などあっという間にたってしまう。
ウクライナ戦争を契機にどの国も軍備拡張の方向に走っているが、相互不可侵条約を結ぶことなど考えないのかな?ロシアもウクライナも戦争で疲れているではないか?と問うと、そんなことが🅂出来るはずはないしそんなことをしても相手は攻めてくるんだ、という答えだった。いや、出来る出来ないじゃなくてそんな考えがなぜでないのか?ということなんだ。
すると、あなたの考えもわかるが・・・・。
と言う返事で仕事を終わり、帰途の時間になった。
そして、昨夜のことになる。十二時ころ、目が覚めて眠れない。うとうとしていると目の前に光る棒が現れた。部屋の境の戸の隙間から廊下の小さな灯かりが射し、刀身のように見え、いつもの幻覚だとわかった。ところがその刀身は反対側の机の椅子のそばに現れたのであった。手で払おうとしても消えないのである。幻覚が消えないと言うのはまさか本物ではないだろうか?と考えながら、布団の上にあったジャンパーで強く払うとやっと消えたのであった。
若い頃、流行った吉本隆明の(共同幻想論)を思い出した。刀身はもしかすると本物ではなかったか?われわれが幻覚だと片づけているものは本物であることだってありえる。信者達が祈る神であっても本当に実在しているかもしれない・・・。
それから考えは跳んで、もしロシア人がとなりに引っ越して来たら、どんな気持ちになるだろうか?と考えた。国家と国民はちがうからロシア人はプーチンに洗脳されているだけだ、と考えてはいるが、ウクライナで泥棒やレイプをしたロシア人だから同じことをするのではないか?と警戒するのではないか?と考えた。
これはすでに共同幻想にはまっているのであるが、すごく現実的な話である。こうして、戦争が始まってしまうと考えると怖くなった・・・。
私たちの心の中で戦争はすでに始まっている。
余命をひかえて二つの大事件が世界を揺るがし、新年になってもまだ続きそうな気配である。コロナとウクライナ戦争である。どのように捉えて良いのかわからず、ニュースを傍観することしか出来なかった自分にもどかしさをおぼながら、今、なんとかもつれた紐がほどけそうになった。
負けるが勝ち、という言葉が自分の若い頃にはあったが、時代はいつの間にかwin winになってしまっている。勝つことばかり知りて負けることを知らざれば害その身にいたる、という家康の言葉はすっかり忘れられてしまった。謙虚や譲るという言葉も消えている。
まずコロナについて言えば、世界的な感染は尾を引いてきたが中国では人口の半分以上が感染し、国が崩壊するのでは?という危機に陥っている。ゼロコロナを目指していたのにオール・コロナになってしまった、国民に何の説明もない独裁国家の豹変ぶりである。理由は、感染させるだけ感染させて免疫をつけ、あとはワクチン接種で対処する方向である。インドが一時爆発的に増えたが、免疫ができたのとワクチンで収まったからである。
この対処法は、負けるが勝ち、という論理である。
そして、ウクライナ戦争にもこの論理は通用する。ロシアかウクライナのどちらかが、負けました、盗った領土は返します、あるいは盗られた領土は差し上げます、と言えば終戦になるのであるが、そんな方向変換はできそうにない。発想も貧しくて、浮かばない。現代は科学の発達で応用力もすごく貧弱になってしまっている。
こんなことを書く自分が負け犬であり、だから書くのである。年賀状は元旦に来たぶんだけに返すことにしていた。文字を書くことさえおぼつかなく、文字の書き直しがおおくなっているからである。七枚の賀状が来てその中の一枚は大学時代の親友からであった。会社で会長になりました。もう少し頑張ります、という内容であった。五年前には社長になりました。もう少し頑張ります、と書いていたのにである。わたしは正月の二日からスーパーのカート整理をしながら、この店は赤字なので出勤日数を減らしますという店長の言葉が耳に残っていた。
だが、今の生活は快適でもある。週に三日ほど三時間のアルバイトをし、あとは農作業ともみ殻取りだからである。電車に乗ることもなく、仕事のノルマもないのである。負けるが勝ち、でもある・・・。
霊感商法による被害者のことがいつも取り上げられるが、ちがう観点からみてみたい。どちらが良いとか悪いとかは外しての話である。物事を信じやすいタイプの人がいて、振り込み詐欺でもなんにでも取りつかれてしまうタイプ、またその時の心理的背景である。
わたしがNHKの受信契約の仕事をしていた時のことである。訪問先のほとんどの人は気安く金を払い、契約書に印鑑を押してくれた。なぜ払わなければならないのか?と聞く人は少なかった。わたしはこんなに簡単に印鑑をつき、見知らぬ男に金を払っていいもんか?と驚いた。中には目が悪いのでと言って、通帳を持って来て押印署名をしてくれと言った老人もいたのである。こんな人にとってはオカルトの勧誘をする方は楽である。もちろん彼らはオカルトと考えて、勧誘はしないはずであるが、その世界に引き込まれた以上引き返しが出来なくなった人間である。
最初に引き込まれたのは創価学会である。当時は折伏の全盛期であった。アルバイトでしり合った男に誘われて民家の集会に行った。そこで聖教新聞を読まされ、ドモリながら読んでいると、なぜ言葉がもつれるのか?先祖の祟りではないか?と言われ、入会してしまった。が、一か月後に経文を川に投げ捨てた。
次は統一教会である。若者たちが、一人住まいであったアパートの部屋に来て、毎晩キリスト教の話をしたが、遠い世界のこことしか思えなかった。中に、きれいな女がいたので、教会に行って皆で手作りのカレーライスを食べたが水っぽかった。けっきょく、入会しなかったが、中村さんを落とすのは大変だ!という言葉を残して来なくなった。
次はエホバの証人である。
毎週、個人レッスンをしてくれたが、テキストには聖書に関する質問と回答がそなえてあり、その通りにこたえなければならなかったのに、わたしは個人的な見解ばかり言い、この会を利用していると言われて通わなくなった。また、聖書に書いてあることは100%が真実だという見解にも賛成できなかった。
次はプロテスタント系のキリスト教会である。神父が神学部を出た男で、聖書は物語的に書いてあるという言葉に賛同して一年以上通った。古くからの信者が私の献金額が少ない、と言っていることを耳にしてやめた。プロテスタントは従来の宗派が教会の独善に走っていることを知って改革のために立ち上がったのにこれでは同じことではないか?と考えた。
今、通っているのはプロテスタント系であるが、ここで私は新しい発見をしたような気持になり、満足している。つまり、人の体には神が生命力として宿り、護ってくれていていっしょに生きているという実感である。
自分が信仰に目覚めたのである。
夜が明けても、庭はいつまでも明るくならない。夜は明けないのか?と、布団の中で不安になる。
いつものように胃が少しムカついている。酒の飲み過ぎで胃をやられ、壁が薄くなってうづくのである。一年間も胃薬を飲み、酒はひかえているのに一向に良くならない。慢性胃炎であろう。ところが胃の中のもう一方の壁はグーと鳴って朝飯を要求しているのである。内臓は自分の意志では動かないのでもしかすると神の意思が入っているのでは?と考えたことがあったが、神であればどっちつかずの判断はしないはずである。
今日は13時からカート整理のバイトだから、もう少し寝ようと思っていると、左脚のふくらはぎがチクりと痛んでいる。ヒッツキ虫がズボンにくっついたまま、早く取り外せ!と叫んでいる。そうしないといつまでも刺し続けるぞ!と叫んでいる。手を伸ばしてもどこにいるのかわからない。ヒッツキ虫は遠くに行ってそこで芽を出さねばならないのである。
ヒッツキ虫にはさんざんやられた。庭の草刈りをしているといつのまにかズボンにつき、部屋の帰って横になっている時に体を刺し、取り外させようとするのである。賢いやつだ。
そんなことに気をとられていると布団の中にいるのがいやになり、起き上がり、トースターに食パンを入れることになるのである。