ブログ - 20221211のエントリ
神とは,あらゆる時代、そしてあらゆる国に存在する普遍的な存在である。人が超人的な力に頼り救いを求めるのは本能的ともいえるが、近代の個人主義の教育をうけて以来、自己に頼ることが当たり前になってしまった。
信仰に入っておよそ十年にしかならないわたしは最近、神はもしかするとドッペルゲンガー的な存在ではないか?と思うようになった。ウイキペディアによればドッペルゲンガーとは自分自身の姿を自分で見る幻覚の一種で(自己像幻視)とも呼ばれる現象である。自分とそっくりの姿をした分身。第二の自我、生霊の類。と、ある。それは仏教でいう大宇宙、小宇宙という言葉とも重なり、自在に変幻するものでもある。神とは生命体の中に住んでいて、生命力の本尊となって成長を助け、危険が生ずれば注意信号を出し、本尊として死ぬまで見守ってくれるものである。仏教でいう成仏とは信仰に励み、そのはてにたどりつく境地であり、そこで本当に仏・神になれるのである。
断っておきますが、ここでは仏教とキリスト教の垣根を越えて書いていくことをお許しください。
キリスト教では人は神の子であるが、決して人は神になることは出来ず、そこで住むことさえできはしない区別がもうけられている。だが、仏教のように信仰に励めば仏になることができると言われる方が救いがあるように思える。神も仏も実はどちらもドッペルゲンガーで、同じものだと考える。ともかく、手を合わせて謙虚になって誰をも、愛と涅槃で包めるようになれば人生はすごく変わっていくことは間違いない。わたしもなんとかそのように考えることができるようになりました。
人は神を求め、救いを求めて生きており、それが引き絞られた姿がドッペルゲンガーとして、神の姿になって現れているのである。だから、それは自分自身の姿でもある。けっきょく自分に祈っていることでもあり、他力は自力なのである。