ブログ - 202212のエントリ

清貧

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日記
執筆 : 
nakamura 2022-12-29 9:13

 夜中に目覚めた。目のあたりを指で触ると、おかしかった。出血していた。どうやら、熟睡中に起き上がり、顔を何かにぶつけたみたいであった。記憶はまったくなかった。血液サラサラの薬を毎日飲んでいるので出血は怖かった。鏡で顔を見ると、左の眉あたりから少し出血していた。タオルを押し付けていれば血がとまることは知っていたのでそうした。

 今日は大手スーパーに松竹梅のかざりを35束持って行く予定であったので、準備をはっじめた。開店前に置いておかねばならない。一個が130円であるので売れ行きはよく、この金で歳は越せそうである。

インターネットの記事を見ると日本が貧乏になるものが多くなった。それは当然であろう。ウクライナ戦争、中国のコロナ拡大、日本のコロナの拡大とまさにこの世の崩壊の気配である。わたしは今年の株式投資も損をして、20万円くらいは持って行かれた。

 だが、経済ばかりに目を奪われ過ぎてはいないだろうか?60年前には、名もなく貧しく美しく、という映画が上映され、身体障碍者が主人公になって観客の涙をさそったものであったが、それを思い出す高齢者は少ない。

 日本人が失ったのは金ではなく、実は日本精神であったのだ。わたしは若い頃は左翼かぶれであったが、一党独裁主義は単なる独裁主義にしか過ぎないことがロシアのウクライナ侵略でじゅうぶんにわかった。民主主義も侵略をやってきたが、言論の自由があるので反省の機会をもっているが社会主義・共産主義にはそれがないので始末が悪い。

 毎日、プーチンの顔を見るだけで憂鬱になる。

 今の私はすっかり老いてしまい、貧乏なので、(清貧)の生活を送っている。けっして心が清く美しいわけではなく、さんざん悪のおいしさを味わってきたが、悪をやるエネルギーがなくなっただけのことである。

 だが、清貧のもつ安らぎがわかってきた。もう、突っ張る必要もなく、死を待つだけの生活なのである。そこにはそこの気楽さがある。

一心同体

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日記
執筆 : 
nakamura 2022-12-18 9:05

  今年の二月から始まったウクライナ戦争は国際社会を脅かし、わたしたちの生活まで苦しくしている。戦争は大きくなり、ロシアが核を使うのではないか?とか、これは第三次世界戦争ではないか?とか取りざたされている。平和と民主主義に安住していた私たちは、今の世に、武力で侵略する大国があるなんていまだに信じられないのである。

 だが、プーチンはそれをやってみせた。

 数百万人の犠牲者が出るかもしれず、それは第二次大戦につぐ数である。

 戦争の悲惨さよりもどこか裏で何かがううごめいているのではないか?と気味悪い予感がする。もしかするとロシアとウクライナ、あるいはアメリカとロシアは裏で手をつないでいるのではないか?という疑心さえ湧いてkるる。得をするのは誰なのか?と問えば軍需産業であり、それは武器をつくっている会社だけではなく金属、電気、半導体などすそ野が広いのであるから特定できず、GNPに貢献していることはまちがいない。

 だが、わたしはこれをちがう観点からとらえてみたい。対立者どうしは対立することでつながっているのである。エボナイト棒をこすれば、両端にプラスとマイナスの電気がおなじ量だけ発生し、棒をいくら小さく切っていっても消えはしない。一心同体である。物学の法則であり、真理である。

 宗教の世界でも神とサタンの関係にみられるように、神がいるからサタンが存在し、一方が消えればは他方も消えるのである。男と女であっても、いつも喧嘩ばかりしていても別れない夫婦がいるのと同じである。だから、今回のウクライナ戦争でもどちらかが負けて消えれば戦争は終わるし、それがなければいつまでも続くことになる。

 

政治の優先順位

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日記
執筆 : 
nakamura 2022-12-15 9:11

  豊福さんという女性が来年の県会議員選挙にこの町から立候補することを知り、選挙事務所に通い始めた。もとよりわたしは政治学科を卒業していて、政治にはすごく関心があるので彼女としゃべっていても楽しい。誠実で美人であるこtが私の関心をそそっていることもあるが、あまりにも話題が多くて散漫になりがちである。ウクライナ戦争、コロナ、統一教会問題など議論はつきない。

 彼女は立憲民主党の党員であるが、わたしは今度は次のことをしゃべってみようと思う。

 立憲民主党は以前の民主党であった頃、政権をとったことがあるがあまりぱっとしなかった。

 その原因を考えると、いろいろあるであろうが、まずこんな事を考える。組織はその構造そのものが権力を持ってしまう。例えばプーチンが追放されたとしても後継者が現れ、組織は同じように活動し、ウクライナ侵略という構図は変わらない。

 だが、民主党が政権をとった場合自民党と同じ組織では同じことの繰り返しにしかならない。いや、不慣れな部分があって悪い方に進むことだったありえる。だから組織の改革も視野に入れなければならない。いろんな省はそのままであったとしてもどの省に最大の権力をあたえるか?である。これまではその優先順位がなかったので経済が繁栄すれば環境が破壊されるという矛盾がはびこり、モグラたたきの繰り返しで会った。環境省に最大の権力を与えて、まず、命の大切さから実行すべきである。そうすれば国民の眼から見てもわかりやすくなるはずである。

 これは政治だけではなく、メディアも同様であるし国民もそうである。どれが一番大事なのか?たえず、考えておかねばならない。

 

見知らぬ地旅立つ夢の師走かな

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日記
執筆 : 
nakamura 2022-12-12 12:29

  若いころの夢にはよく女が登場していたが、不能になった今、女は登場しなくなった。それは当然のことであろうが、ここ二、三年の夢はタイトルのとおりで、NHKの受信料の集金をしていた頃が、舞い戻っている。決まって、見知らぬ土地への不安となにがしかの期待感がこもっていて、追体験していることがわかる。あの頃は住宅地図とけ契約リルトを持って、バイクで大牟田や久留米、大川、柳川のビジネスホテルに泊まって、見知らぬ未契約先を訪れたものであった。振り返ると貴重な体験であった。

 数えきれないほどの体験をした。生活者たちと金のことで交わり、教えらたり、発見したりまさに冒険であった。それは夢となって昇華し、ふとした何気ない景色が現れたりするのである。無意味としか言えない景色が自分の心を打つことがある。なぜ心に残っているかわからないが残っているのである。ふとした家の物陰、通り道、野草など・・・。 

 なぜこんなことを書いているのか?といえば、サムエルベケットの短編、(鎮痛剤)を読んだからである。彼の小説は変わっているというより、こんなことをよく小説にするな?と不思議な気持ちになるからである。

 わたしがいくつの時に死んだか忘れた。どう考えても年とって死んだことはまちがいなさそうだ。九十歳ぐらいかな、それにしても長生きしたもんだ。(白水社刊・鎮痛剤)

 死んでいればいくつの時に死んだかなんてわかるはずはないのに、作者はそんなリアリティは無視しているのである。こんな文章で書けるのだな、と感じ入ってしまう。

 次は(追い出された男)である。書き出しを要約すると、階段を上ろうとして、最初に置いた段を一段目と呼ぶべきか?二段目と呼ぶべきか?迷う場面から作品は入るのであるが、それは当然一段目であるはずであるが読んでいる方はその迷いが正しいような錯覚に落ちてしまうのである。頭がおかしくなる感じがする。

 ベケットはノーベル文学賞をもらっているが、天才であることはまちがいない。もしかすると、自分もまちがっていえば、天才なのかもしれない。先ほどの自分の夢を作品にしてみたい。

ドッペルゲンガーとしての神

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日記
執筆 : 
nakamura 2022-12-11 18:34

  神とは,あらゆる時代、そしてあらゆる国に存在する普遍的な存在である。人が超人的な力に頼り救いを求めるのは本能的ともいえるが、近代の個人主義の教育をうけて以来、自己に頼ることが当たり前になってしまった。

 信仰に入っておよそ十年にしかならないわたしは最近、神はもしかするとドッペルゲンガー的な存在ではないか?と思うようになった。ウイキペディアによればドッペルゲンガーとは自分自身の姿を自分で見る幻覚の一種で(自己像幻視)とも呼ばれる現象である。自分とそっくりの姿をした分身。第二の自我、生霊の類。と、ある。それは仏教でいう大宇宙、小宇宙という言葉とも重なり、自在に変幻するものでもある。神とは生命体の中に住んでいて、生命力の本尊となって成長を助け、危険が生ずれば注意信号を出し、本尊として死ぬまで見守ってくれるものである。仏教でいう成仏とは信仰に励み、そのはてにたどりつく境地であり、そこで本当に仏・神になれるのである。

断っておきますが、ここでは仏教とキリスト教の垣根を越えて書いていくことをお許しください。

 キリスト教では人は神の子であるが、決して人は神になることは出来ず、そこで住むことさえできはしない区別がもうけられている。だが、仏教のように信仰に励めば仏になることができると言われる方が救いがあるように思える。神も仏も実はどちらもドッペルゲンガーで、同じものだと考える。ともかく、手を合わせて謙虚になって誰をも、愛と涅槃で包めるようになれば人生はすごく変わっていくことは間違いない。わたしもなんとかそのように考えることができるようになりました。

 人は神を求め、救いを求めて生きており、それが引き絞られた姿がドッペルゲンガーとして、神の姿になって現れているのである。だから、それは自分自身の姿でもある。けっきょく自分に祈っていることでもあり、他力は自力なのである。

高齢者の冒険

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日記
執筆 : 
nakamura 2022-12-10 9:21

  週に二日ほど、大手スーパーのカート整理をやっているが、不思議なことにそれが冒険じみたものになっていることがわかってきた。16時から19時まですることが多いので、その時間までは屋敷の草刈りも散歩もせずに休んでいる。リクライニング式の座椅子に寝ころんで、スマフォで株式取引をやったり、ニュースをみたり、エロビデオを観たりしている。

 バイクで出勤するのでタイヤの具合をまず見、自分の体が三時間の間、まっすぐ歩けるかどうかも点検する。バイクは方向指示器が出ず、ガソリンのメーターも出ないので気を付けなければならない。走行距離が十万キロを超えているがエンジンの調子はまったく衰えない。カブは本当にすごいバイクである。

 狭くて大型トラックがよく走る道を、時々脇道にバイクを停めてやり過ごしてやりながら走る。10分ほどでえ店の搬入口について、アスクをし、名札を付けて中に入る。時間まで駐車場のベンチで休み、交代者と変わって、仕事にかかる。まっすぐ歩けてはいるが時体が左右にか傾き、股関節に筋肉痛が出る。連続して出るようになったら歩けなくなり、事情を話して病院に行かなければならなくなる。今のところ、連続した痛みは出ていない。

 昨日は開始の40分前に店に入ったが、カートの空きが15台くらいしかなく、なくなればお客さんがカートを使えなくなる。いつもは前任者がきちんとやってくれているのであるがいなかった。フリーで回っている店長、店次長、お偉いさんの姿もなかった。自分は16時からなのでその前の時間は仕事をしてはいけないと考え、事情をレジの女に、伝えると調理の男が二人出て来て、カートを駐車場から運び始めた。それで間に合った。自分は16時になって仕事をはじめ、19時までぶじにやり終えた。

 帰宅の時間になると元気が出て、違う店に寄って、半額の寿司を買い込み自宅で食べた。美味しかった。冒険を終えた安心があった。

心で仕事をする

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日記
執筆 : 
nakamura 2022-12-8 8:27

  大手スーパーでカート整理のバイトをやっているが、一昨日、こんなことがあった。これまで週に二日のしごとであったが、今月から週に一日くらいに減らされる、とリーダーから電話があったのである。給料が半減するので驚き、店次長に理由を聞いたところ、お客さんの来店数も昨年の三分の一くらいに減り、従業員だけでカート整理は出来るからだという。確かに来店数が減り、仕事が楽になったと思っていたらこんなしわ寄せがやって来た。

 店次長はまだ三十代に見える男で、以前の店次長より良心的であったので良い印象を持っていた。(それはわかりますが、働く者の立場は考えてくれないのですか?)と問うてみた。すると、そこまでは考えません。仕事が暇になれば出勤数が減るのは当然です、と言う返事であった。驚いて、仕事は心でするものなのですよ。と言うと、わたしにも心はあります。本当は従業員だけですることもできるのですがそれは思い止まりました。と言う。

 シルバーの紹介なのでそこに相談しても、金を出しrている発注者の言うままなのです。と応える。労働者として認めないので、仕事中に車にカートをぶつけても個人負担なのである。シルバーの会員たちは高齢者が多いのでがまんしてやっているのが実情である。

 なぜ、こんなブログを書いているかと言えば、今日のヤフーのニュースに管理職の仕事はaiが出来ると書いてあったからである。店次長には、わたしはこうも言った。わたしたちもこの店で食材を買っています。消費者なのですよ、と。店次長はうなづいていたが、その大手スーパーは数万坪のたんぼに大きな建物を建てているせいで経営の大変さはわかるが・・・・・。こんな場合、aiはどのように判断するであろうか?まちがいなく、心のない判断をし、暇になれば切るのは当然だということになる。人間であればそれがどんな波及効果を与えるのか?考えることができるが・・・。

(自然の命)結成構想

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日記
執筆 : 
nakamura 2022-12-1 6:32

  昨日、現県会議員の男がやってきた。彼は以前、町会議員をやっていてよく知ったいたので、来年の四月には県会議員、町会議員の選挙があることを思い出した。10年前、わたしが海老津駅南開発反対運動をやっていた時、彼は開発賛成派であったのであまり信頼を持ってはいなかった。彼は例のごとく名刺を出し、後援会の男と現町会議員の男をそばにたずさえていた。

 政治論議に入った。今の政治・社会は中心点を失っている。コロナ騒ぎ、ウクライナ戦争、統一教会問題、ワールドカップと次々に話題を振りまき、視聴率を稼ぎ、対策を練り、そんなことをしていたら、今度は環境破壊をテーマにするだろう。要するに永遠のモグラたたきを繰り返すだけで政治家とマスコミが潤うだけになっている。もし世の中から問題が消えたとするならば政治家もマスコミも警察官も必要が無くなってしまう。中心点と優先順位をはっきりさせることが政治に求められているのである。

 中心点とは、自然の命、である。誰も否定出来はしない。自然の命は人の命でもあるのだ。

 そんなことを喋っていると三人はうなずいていたが、わたしは彼らの腹の中を考えていた。彼らはどんな政治をやるかではなく何を喋れば当選するかしか考えていないのである。それは政治家になるにはまず大事なことである。でもすべての政治家はその罠にはまり、誰もが同じことを繰り返して、けっきょくは何も変わらなかったということが多い。

 わたしは(自然の命)という政党を結成し、最後の闘いをしてみたいと思っていた。すべてを自然の命を中心に考え、経済成長率があがっても戦争が起こってもそのでどれだけ自然が破壊されたかを持ち出して、良いことだったのか?悪いことであったのか?の判断をするのである。

  次に町政についてしゃべった。

 非課税者への給付金の案内が来ていた。給付金は生活困窮者の自分にとってありがたいことであるが、受けた分は税金で取り返されるであろう。いつもの朝三暮四である。そこで疑問があったので、申込用紙の二枚目にマイナンバーカードと通帳のコピーを張り付けるようになっているが?と、町に問い合わせると二回目の給付のかたはそれは必要ありませんと電話でこたえた。それなら、なぜそれを書かないのか?というとすみませんと応えた。ところが次の日には、この前の仕込み用紙は令和四年の一月一日までと書いていましたが、五年の一月一日まででしたと書き送って来たのであった。その費用もだいぶかかったはずである。そこで県会議員の男に言ったのである。町政を民間会社に入札で与えろ!公務員でなければ仕事をしてはいけないわけではないだろう?民間会社であっても福祉の仕事もしているから菅と民の壁を取り除け、と。

 三人は後ろ姿を見せて帰って行ったのであった。

 

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