ブログ - 202312のエントリ
夜明けを待ちきれなくて、午前6時半頃、家を出た。吹雪まじりの小雨が降り、ゴムの切れかけたワイパーはキーキーう唸りながらガラスを擦ってくれた。私の備品は可哀そうである。バイクはついにキーが回らなくなり、テレビも故障したまま、ビデオカメラも故障、風呂の電気も、外灯もつかず、車はいつエンジンがとまるかわからないポンコツ。
こんな中で大晦日の今日、仕事納めをして来た。片手サイズのお飾りを二つのスーパーに25本と10本出して来たのである。松の小枝、斑入りの笹、芽のついた梅の枝、を結わえて、ビニール袋に少し水をいれて、包んだ商品である。ほぼ完売してくれるのでお年玉くらいにはなる。それに来年の3月には生活困窮者への給付金が7万円も出るのである。
なんやかんやで今年も正月を越せそうである。
さて、自分の部屋に、売れ残りのお飾りでも飾ってみようか・・・。
このタイトルは鎌田氏によるルポ(自動車絶望工場)から借用させてもらったものです。
ダイハツ自動車が車の品質の不正行為により、販売を全面停止にしたというニュースを知って、この記事を書くことにしました。販売の全面停止とは生産の全面停止であり、従業員の人たちは一時的に仕事を失い、ショックは大きいでしょう。自分も五十年前、自動車およびその部品のライン作業に従事したことがあってあの時代を思い出しました。当時、日産自動車で働いていましたが、安全・品質・生産性のスローガンはすべての自動車会社、またメーカーの標語であったのです。ところが実態は逆で、生産性・品質・安全性であり、流れ作業の中で腕時計を見る時間がないほど作業に追われ、朝出、中勤、夜勤と体調を狂わす勤務体制に組み込まれ、体を壊す者も多かったのです。
自分の受け持ち作業が時間通りに終わらなければ下の工程の者の仕事が出来ず、烈しい時には部品や工具を投げつけることがあり、私も何度かボルトを投げつけられたことがありました。昼食の時間になると安全靴をカタカタ鳴らしながら、囚人のように食堂に駆け込みました。
刑務所の囚人でさえ、健康で文化的な生活が保障されているのに生産現場はそれを犠牲にして生産に励み、現在も励んでいるのです。金を十分にもらい、良い家に住み、良い車に乗っているのは事実ですが、それにしても仕事を転々と変えた自分にしてもあの世界には二度と戻りたくありません。
日産追浜工場で乗用車のプロペラシャフトの組付けを一か月間やりました。組み立て中の車は頭上を流れ、その下にもぐって二十キロちかいシャフトを担ぎ、ボルトで組みつけていきました。暗くて見えず、ただ夢中になって作業をしましたがボルトが正確に締まったかどうかも危うかったのです。最終工程でチェックされるにですが、町を走るその車種を見ると、だいじょうぶかな?と怖くなったものでした。
今回のダイハツの事件はなるべくしてなった構造的なものです。
間接部門の社員は入社の時は実習で組み立て作業をしますが、それ以降はほとんど関係のない部門になってしまうのです。どの会社もそうですが仕事がタコツボ方になって全体が見えない構図になってしまっているのです。循環と交流がなく、残念ながら起こるべくして起こった事件でしょう。
これは日本、世界全体の問題であり、ピラミッド型の構造を変えるしかありません。
ウクライナ戦争、イスラエル戦争もそうです。全体が見えず、自分達だけの憎しみだけで動いてしまっているのです。
今朝は年末の墓掃除に行った。バイクに剪定ばさみ、ノコ、ほうき、かまを積んで近くの墓場に行った。墓にはみ出た枝を切り、積もった枯葉をこそぎ落とし、次は松葉ほうきで枯葉を落とし、花と線香、ロウソクを持って行こうと考えた。
ところが帰ろうとしたら、バイクのエンジンがかからないのであった。昨日は雨でエンジンが濡れてかからなかったが、数時間後にはかかって順調に走ったのであった。下り坂道で押してもかからないのである。自宅まで押して帰り、そこの坂道で試してみたが、キックをしても弱い唸りしか出なかった。走行は10万キロ以上いっており、ガソリンメーターもテールランプも故障して使えないままなのである。
ポンコツ車があるのでそれで当分間に合わせようと考えた。
振り返って見ると、自分の電気製品が次々に壊れていっていることに気づいた。まず、パソコンのプリンターが壊れ、テレビも壊れ、ビデオカメラが壊れ、ラジカセが壊れ、パソコンも壊れたが何とか復帰した、のであった。
断捨難、という言葉を知ると、その言葉の意味と自分のまわりにお起こっている状況が重なっていることに気づいた。
次は自分が壊れる番である。あすは大手スーパーでカートの整理をする日であるが、膝が壊れて動かなくなるかもしれない。
それは、黙って受け入れるしかない。
断捨難で、命が絶たれる。
もうそろそろだな、と思いながら汲み取り口のふたをあけると、上の方まで溜まっていた。二ヶ月分ほどの生活の付けであった。
ひしゃくで汲み取りながらバケツに入れ、三十メートル先の畑まで持って行き、タマネギやアマクリナムの根元にかけてやる。ほぼ二時間はかかるので、休みながらやっていくが、近頃はいつまでつづくか、やがて付けは放置されたままになる、と心配にもなる。まわりに家がないので苦情は出ないし、自分は心不全防止の薬を飲んでいるので臭いはしない。
つい最近までみなこのようにして、人生と生活の付けをみずから自然に返していたが、いまではこんなことをする者はよほど離れた僻地でしかないだろう。落とした便は下水道をとおして処理され、海に流され、人々は自分のうんちさえ、眼で見ることは少なくなった。じぶんの汚れを見ることが少なくなり、トイレに巻く芳香剤の害を考えることはない。
便を野菜にかけてやると驚くほど元気になり、栗の根元にも最近かけるようになったので、四本のクリの木に1000個のクリがなるようになった。肥料代も助かるし、自然界に還元するわけだから、いいことばかりではないか?
人糞肥料を売り出すべきではないだろうか?鶏糞や牛糞はあるのになぜ人糞肥料がないのか不思議である。