ブログ - 20220613のエントリ
キリスト教でも、死は罰である、と言い、永遠の命が神から与えられていたはずだった、と記しており、現代社会も長生きをほめ、人々もそれを望んでいる。すでに尊厳死はどこかに追いやられ、メディアはウクライナ戦争による破壊のすさまじさと死の悲劇を報道し続け、生きていることと命のありがたさを訴え続けている。それは大事なことであるとわたしは考える。だが、一方、どこかがおかしいと考える。今、わたしは生きているが十年先には死んでいるとが確実であるし、十年前は心筋梗塞を起こして、あと三時間で死ぬはずだったのである。
今、わたしは生きている、のではない。生きてもいるし死んでもいるのであり、その両方が重なり合っているに過ぎない。二者択一ではなく、すべては重なり合っているに過ぎないのである。サイコロを振ったときのようにどちらかが出ているにすぎない。
常に、背中合わせの状態なのである。金持ち、貧乏、美顔、醜い顔、健康、病気、晴れ、雨などすべて二律背反なのであるが、それに気づくものはおらず、今がよければすべてが良いみたいな錯覚の中で生きている。事態が悪くなって初めて、一過性の中で生きていたことがわかる。わたしも人生を振り返ればそれに気づくことばかりである。
逆のことを考えることも大事である。死ぬことはいけなくて、死なない人生が良いのか?と考えればそう簡単な結論は出せない。死なない人生を想像してみよう。いつまでも変わりばえのない生活が」永遠に続き、終わりはない・・・・。としたらそれは地獄である。ある男は精神病院の閉鎖病棟に40年も入院し、外出もできない。体は健康なのに、暴力をふるう恐れがあるので退院を許されない。だが、生活にも病気にも困ることはなく、ほとんどすべてが保証されているようなものである。だが、わたしは国民年金の生活で、働けなくなれば生活が破綻する恐怖に怯えている。
どちらの生活が、まし、なのか?
ではない。
どちらも同じなのである。
その男も自分も数十年先にはこの世から消える運命がある以上、等価であるに過ぎない。ご破算であり、次の人生に生き返るだけである。ウクライナ戦争をロシアがあれだけ破壊した以上、戦争が終われば新しい国に生まれ変わるだけである。