ブログ - 202206のエントリ

罪でもあるし罪でもない

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2022-6-5 17:21

  今日の日曜礼拝はいつもどおり行われた。祈祷の時間になると、10人ほどの信者たちは頭を垂れ、ながながと祈り、罪の許しを乞い、声を震わせた。わたしもそれにつられながら、兄弟姉妹たちの表情を見ていたがかれらのような高ぶりはしなかった。聖書を開いてまだ五年にもならないぶんざいである。が、考えることは多い。あまりにもレベルの高い書物なので興味深い反面、太刀打ちできそうにない。

 (キリスト教にとって性とはなんなのか?)と、考えてみた。端的に言うと、それは永遠の罪なのである。神が禁じていたにもかかわらず、善悪の木の実を食べてしまい、それゆえ楽園から追放され、死ぬ運命を与えられ、蛇のようにのたうって生きることになったのである。やがて、キリストの母であるマリアが夫との性交ではなく、精霊の力で処女懐胎をした。キリストはこっそりと厩で産まれたが、すでに他宗派たちに狙われていた。キリストは成長すると、自分は神の子だと言って宣教を始めた。そのために捕らえられ、磔で処刑されたが、彼は自ら殺されること選び、人類の原罪を贖おうとした。

 この流れではマリアが人間の種ではなく神の種を宿したということで、原罪を逃れさせようとしている。

 だが、人間は性交をしてでなければ増えることができない。それは永遠に罪を増やすことでしかなく、

贖罪を成し遂げられない限り、とめることができないのである。現在、ウクライナ戦争で殺し合いを続ける人類の罰を見るのはわたしだけであろうか?

 他方、科学の分野に目を向けてみよう。2千年前に、光あれ、という神の言葉のもとに宇宙が誕生し、人類が産まれ、世界が発展していった。それから二千年後の今、科学はやっと神の予言にちかづき、宇宙の究明に迫っている。ホーキンス博士は宇宙は始まりも終わりもないと結論づけ、量子力学は、生きてもいるし死んでもいる、1でもないし0でもあるという領域を発見し、すそのを広げていっているのである。

 これはやがて、罪でもあるし罪でもない、という新しい境地を発見し、人類を救済し、発展させるの違いない。

生きてもいるし死んでもいるー2

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2022-6-2 20:59

  すべての事象の観念は重なり合っており、その時の観測者の意識によって捉え方が変わり、どのようにでも判断される、と書いてみよう。これは量子力学の二重スリット現象の実験に現されており、わたしはそれにヒントを得て問題提起している。小さな穴を開け、そこに光の粒を通すと波になって干渉波ができるというのがスリット現象であるが、その光の粒は観測者がいるときには一粒しか通らず、いないと二粒が同時にすり抜けるのである。なぜなのか?それは書かれていないので自分で判断することになるが、観測者の質量は光の粒の数億倍なのでその時の観念が二粒が同時に通り抜けることはありえないという考えなので、念力みたいに、それに圧倒されて意識が動きを反映させるのであろう。

 そして、光は波でもあり粒でもある、と量子力学は定義づけているし、それでなければ結論が出ないのである。科学においても真理は一つでしかありえないはずなのにこんな結論を出さざるを得なかったのであり、これは真理を否定する画期的な考え方である。

 ここで、(生きてもいるし死んでもいるー2)のタイトルに戻ると、あらゆる出来事や事象を二者択一式に捉え表現している現代世界はそれ故にいろんな問題にぶっつかっていつもモグラ叩きを繰り返すばかりである。同じ間違いを繰り返し続けており、それは基本概念絶えずがぐらついているからである。世界は前進しているようで実は(動的平衡)の状態で、ただ単なる上下運動を単に繰り返しているにすぎない。良いか?悪いか?の二者択一式の思考を外して、良くもあり悪くもあり、という俯瞰の観念に戻るべきである。

 人生が因果関係のくりかえしだとすれば、あの出来事は良かったか?悪かったのか?は死ぬ直前にしかわからない。それではもう遅い。せめて、良かったことでもあるし悪かったことでもあり、生きるという経験を与えてくれた神に感謝を捧げるようになれれば幸福ではないか・・・。わたしにもあなたにも数限りない経験があり、これからもしていくことになるだろうが神の試練だと考えたい・・。

生きてもいるし死んでもいる

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2022-6-1 7:17

  近頃、神に祈ることを忘れたように、手を組むことが少なくなった。信仰が少なくなったわけではなく、(科学者はなぜ神を信じるのか)という本を読み、神について考えてもいる。科学者たちは聖書を神話として読み、祈っているようで科学との矛盾を考えてはいないようである。

 話しは飛ぶが、毎朝、目がさめ、起き上がるのが苦痛で、いやになる。このまま目がさめず、仮死状態でいたいと願っている。その状態は死んでもいるし、生きてもいる、という(シュレディンガーの猫)の理論に似ている。毒ガスの発射する箱の中に猫を閉じ込めていて、猫は生きているか死んでいるか?と問われ、生きてもいるし死んでもいる、と応えたという有名な話であるが,自分はこれを哲学的に考える。けれども、私達の日頃の生活は良いのか?悪いのか?の二者択一的であり、そうでなければ日常生活は送れないが、突き詰めて考えればすべての事象は(塞翁が馬)であり、良いことと判断すれば良いことであり悪いことと判断すれば悪いことなのである。観測者の判断が入るまでは両者は重なっている状態なのである。

 昨日は一週間ぶりにスーパーのカート整理のバイトをした。四時間休憩なしなのとお客さんの人混みを縫うような動きをしなければならないので疲れ、めまいを起こしそうになる。足腰も弱っているので倒れればすぐに解雇である。

 だが、終業が近づくと元気が出てくるのである。これをやり終えれば開放されるし、二日間は自由になる。そして、今日は開放日で、なにをしてもいい日である。嫌なことが過ぎれば天気模様も変わるのである。

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