ブログ - 20210125のエントリ
数日前のニュースで、PCR検査を受けた二人の者が翌日に陽性と判定されたが、二人ともすでに亡くなっていた、と報道された。二人とも若者であった。
コロナ感染や死が日常的になりつつある現在だが、ショックをうけ、次は我が身か?と怖くなったが、全く反対の考えがわいた。寒い朝、布団から起き出すのにいつまでも掛布団にしがみつき、右に寝たり左に寝たり上を向いて寝たりしながら、睡眠という仮死状態にしがみついているのは誰だ?・・おれではないか!と思いつき、そんなにかんたんに死ねる(ひどく苦しむのがほとんどであるが)のなら、いっそのことコロナに介錯してもらったほうが良いではないか?そうだ、それが良い!と結論づけた。
同時に現在の報道、有識者たちのコメント、世間の考えなどを振り返ってみると、どこかがおかしい、何かが間違っていると思った。それは生の肯定、死の否定、の過激さである。太平洋戦争で数百万人の戦死者をだして以来、日本の倫理の中にあった(死)は百パーセント否定され、肯定でもしようものならすごいパッシングをうけるにちがいないから、メディアで取り上げる事さえ、タブーになっている。いびつな社会である。
つい三十年前ほど前まではそうではなかった。死ね死ね団、というアーティストがいたり、人間滅亡賛歌という本が出されたり、五十年前であれば、おら死んじまっただ、という歌がラジオから流れてきたりして、死を受け入れる部分があったのであるが、これほど死が完璧に抹殺された時代はめずらしい。無言のうちに言論統制がされている。
そこにコロナの出番が待っていたのであろう、殺戮の限りを尽くしている、と言わざるを得ない。自殺者も増えている。わたしみたいな老いぼれ役立たず老人などはコロナの介錯によって早くこの世から消え、生まれるべきであった世で生き直すべきだと思う。