ブログ - 20210115のエントリ
一般的に共同体と言えば、人間世界のことである。ほとんどの人はそのように考えるであろうが、自然界そのものが共同体である、とみなせばすごくわかりやすくなる。食物連鎖を例にとってみよう。鹿が草を食べ、その鹿を狼やライオンが食べ、そのライオンをハイエナが食べる、その構造は捕食して生きることであるが、それによって増えすぎないように調整されているわけで、死滅さえも構造の中に含まれていて、悪いことではないのである。増えすぎればまちがいなく食べ物がなくなって絶滅するしかない。悪い、と考えるのは人間だけである。目の前で仲間が食い殺されると、悲し気な気配を見せる動物もいるが、終わったこととして次の行動に動物たちは移る。
動植物たちも助け合いの精神を持っている。イソギンチャクはヤドカリの上に乗り、運んでもらい、代わりに食べかすをヤドカリに与えている。これは中学校の理科でも習う科目であり、そんな事例はたくさんある。人間だけが特別な精神を持っているわけではなく、自然界はたがいに助け合ったり、時には相手を食べさせてもらったりして成立している。まさに共同体なのである。これを壊す者は必然的に排除されることになる。
食物連鎖の頂点に人間は座り続けていたが、数が増えすぎ、自然をも平気で破壊するとなると、共同体の支配者は黙っていなかった。コロナと言う密使を送り込み、人間退治を始めたわけである。ある程度、痛めつけて目覚めさせればコロナは去って行くに違いない。
それと相前後するように温暖化防止、脱炭酸ガス社会などの実践にかかり、人間たちは重い腰をやっと上げはじめた。この流れを大事にして、変化の動きをゆるくして、スロウ・ライフ、スロウ・フードに変えながら、もっとゆっくり自分の人生や社会を眺めれば新しい色んな発見に出会うに違いない。
話は変わるが、実践倫理研究会のおばさんが、冊子をポストに入れてくれている。時々、読むことがある。(倫理)とは自然の摂理によって出来上がったもの、という巻頭言が印象に残り、共感している。ただ、怒ったりせずに心を平安にしていれば良いことがある、と言う部分には少し、頭を傾げることがある。怒りや反抗は大事なことだと思うからである。
コロナの感染の勢いが凄まじく、南極に住む人にも感染したと言うのだから、驚きだ。各国の政府が緊急事態宣言を出したり、ワクチンの接種を始めたというのに世界の感染者が一億人に達するのは食い止められない勢いである。
弱い者から殺されていっている。老人、糖尿病患者、心肺の病気持ち者、心を弱めた女、子供たちの自殺など自然淘汰の原理を働かせているが、それは人類が自然を征服し、次々に絶滅種を増やしていった足跡をたどっているわけである。まわりを見回しても、田んぼからゲンゴロウ、ドジョウ、ザリガニ、アメンボが一匹残らず、消された現実に目を向ける日本人は少なく、自分がその加担者の一人であるという自覚を持つものはいない。俳句や和歌をひもとけばいかに日本人が自然を愛する民族であったかがわかるのに、この豹変ぶりは資本主義の快楽、利便性に負けたとしか言えない。
そんな観点からコロナを見れば、コロナは洪水で世界を覆ったといえる。だが、自分達のエサである人類を絶滅させるわけにはいかない。
わたしはいつでも淘汰されていい者であるが、コロナ禍で生き残る者は次代を切り開く先達者であるにちがいない。自然との共存、共生を知り、それにそって新しい時代を創る者である。それには新しい哲学が用意されなければならない。