ブログ - 20210116のエントリ
人間社会の出来事は、ニュースでじゅうぶん知られるとおりだが、自然界、動植物のことが人間社会並みに報道されることはない。平等に報道されるようになれば、人間も自然界の一員という見方になり、わたしたちの立ち位置もわかるはずであるが、人間中心主義は当然だという考えが染みついてしまっている。
既成の事実をひもとけば、野生の倫理は掟であり、人間社会のそれ以上にきびしく護られていることがわかる。まず、仲間、同種のものを殺したり、食べたりはしない。だが、人間社会での殺人行為は日常的なことであり、戦時中であれば人肉を食べることさえある。
野性の世界では子供や妻の虐待はしない。
自殺もしない。
自然破壊もしない。
自然に沿って、生きていく。
植物の世界をみれば、野菜たちの生き方がわかってくる。人間によって育てられ、繁殖をしてもらう彼らは、変種をして人間に毒を与え、攻撃することはない。美味しい味を出して、食べてもらい、末永く、共存しようとしている。コロナは逆に変種をして、感染力を強め、ワクチンに対抗しようとしているが、結末は絶滅が控えているようである。
共存、の方が賢い生き方ということになる。
決定的なダメージを与えるのではなく、そこそこに互いを修正しながら生きていくのが賢明なようである。人間関係においてもそれを用いれば豊かな関係が保たれる。
植物の世界でも競争はすさまじい。まず、畑に種をまいてみよう。土と水気と太陽があれば生命が生まれ、成長するようにできている。その仕組みは誰がつくったのか?となると、まだ、わからない、というしかないが、それがわかった時、はじめて真理が見えてくる。種を播いて二週間ほど待ってみると、いろんな芽が出てくるが、残念ながら、それはその地面に前から落ちていた雑草なのである。彼らは高く伸びることによって、他の芽の成長の邪魔をし、養分を独り占めするのである。一か月も経てば畑は草だらけになり、野菜の芽は消え去っている。
人間に過保護に育てられた野菜は雑草たちに対抗できず、その肥料になってしまうのである。だが、人間が生存している限り、命を与えられていくことになる。これは依存ではなく、共生、共存であり、人間もそうしなければ生きていけないのである。
人間界の倫理より、自然界の倫理のほうに学ぶものが多い。
自然界の倫理と言うのは豊かな生を営むための約束事みたいなものであり、コロナ禍を教訓にして、人間界より自然界の倫理を学ぶべきである。