ブログ - 20210110のエントリ
自分の価値基準で話しをすると、まわりの者達から浮き上がってまい、仲間外れになり、いじめられるようになることが多い。私の場合もそんなことがあったが、逆に持ち上げれれたこともあった。NHK営業部で集金の仕事をしていた時がそうであった。職員や管理職たちはサラリーマンだから、トラブルを起こすことを怖がり、少しでも怖い者がいると、揉み手をしてきた。(そこまで言えるあなたがうらやましい。そんなあなたは哲学者だ)と何人かの管理職委は言った。
一撃必殺の世界にいたせいで、群れの哲学は自然に知っていた。群の雑魚どもを相手にするのではなく、その中のボスと闘い、やっつければ群れは全部自分になびいてくる。そうなると自分がボスになってしまうから楽なものである。
ラジオの人生相談など聴いていると、いじめられて苦しんでいるという相談事がすごく多い。いじめられる者は人陰にいて浮き上がってしまう者である。わたしは小学校の頃から自分の価値基準が世間とは異なっていたし、世間や大人たちはオカシイといつも思っていた。学歴信仰、出自の信仰、美形の信仰、金銭の信仰など、それらを基準にしたおしゃべりをきいていると、胸糞が悪くなるほどの俗物性を感じた。
多数派は異物に排他的である。排他される側になれば自殺をしたくなるほど、辛くなるが、自分の価値基準を貫けば俗物たちの上に立つほどの力を持つことのなるのである。多数派が正しいわけではない。単に多数派であるから力が強いというだけで、真理の世界とは関係がなく、したがって彼らになびいたり従う理由はまったくないのである。
LBGTを例にとればわかるように、今の時代はそれを障害者としてみなくなったではないか?多様性の中の一つの個性としてみるようになった。先日、障害者の諮問委員会があり、わたしは発言した。(障害者が手厚い施策でまもられている現在、障害者の定義は変えられるべきではないか?体や精神に障害があっても自立して働いている人は障害者の認定をすべきではないのではないか?障害は一つの個性としてとらえられるべきではないか?不自由な動きで歩いている者がいたら、アートみたいに個性的です、と言えるようになれば障害者という言葉はなくなるにちがいない。