ブログ - 20200826のエントリ
おまえをタライの水で洗おうとした時、立ち止まって、両手に持ちかえたことを憶えている。あまりにも重いので、落とす心配があったのだった。つるつるした体は人の女のように滑らかだったが、背中に落ちない黄色い汚れが少しあった。バイクの箱の中に入れる時、割れたらどうしようか?と心配になり、厚い毛におおわれた手提げ袋に入れて包んだ。一か月前におまえの姉を運んだ時のように。
スーパーの裏口の暗い廊下を歩いていると、係の女が前に姿を見せた。お早うございます、と声を掛け、、今日も持って来た、何だと思う?と言うと、大事そうに持ってるからスイカでしょう、と笑顔で応えた。(いくらにしようか?)と言うと、(大きくして、良いわ)と言ったので、大きく?って何?と考えた。高い値段だとおもった。
産直コーナーの台におまえを座らせると、がらんとした中にお前がまさに生きた姿で現れていた。最初は横向けにしてみたが、立ててみると、すんなり立って、生きた姿を見せた、畑では寝転がっていたのにな、晴れの舞台をおまえは知ったのだろう。クリを三パック、トマトのアイコちゃんを三パック、シソの葉を八袋別の場所に並べると、仕事は終わった。おまえの体には、1100円、の値札を貼った。
正午に、メールがスマフォに来た。おまえもクリもトマトも売れ、シソは三袋が売れていた。
昼食を終え、いつもの山道を散歩した。放棄された野菜畑があった。戸建て団地の角にあって、高い畑地からカボチャがツルをあちこちから伸ばし垂れさせ、顔を見せている。持ち主は二、三年、野菜作りをしたが放棄してしまった。
ところが、カボチャは毎年、体を割り、種を落とし、実をならしているのである。三年目になっても、家族たちは枯れると、翌年には芽を出しているのである。
枯れ蔓の伸びし団欒夢の跡。
植物たちに不思議な生き方に、胸を打たれる。
嫁ぎ先の食卓で、おまえは供えもののように座り、飾られているだろう。家族に見惚られ、舌を鳴らされているだろう。
おれはその団欒を想像しながら、別れを惜しんだのであった。