ブログ - 20180710のエントリ
人は皆、何をするか?しなければならないか?など考え、日々、行動している。その指示は自分独自の意志から来てると、思っているが、実はそうではない。私たちの人生も行動、思考も生まれる前から枠の中に入れられ、自分ではないものの指示で動かされているのである。
人間に産まれたいか?鳥になってうまれたいか?どんな両親のもとに産まれたいか?
受精される時に訊かれたとしても親を選べはしない。政治家や大企業の管理職の子として産まれただけで、学歴、就職、結婚の心配はいらず、順調な人生が約束されている。女であれば美人に産まれただけで良い男に巡り合い、幸福な結婚生活はほぼ、約束されている。
不遇な状況のもとに産まれた者がチャンスに乗り、英雄や一流人になることはありえる。それは頑張ったからだと言われるが、その人の個性と時代のタイミング、道を開いてくれた人に出会えたからである。努力が無意味だとは言わないが、流れに乗ってしまえば自然に頑張るのである。
いま、書いている(歩き神)と言う小説は単行本ほどの量があり、ほぼ自伝的な内容である。以前、書き上げた作品に聖書の考えを入れることで膨らみと安定感が出ているように思える。応募しても、自分では満足していても、落選するであろう。自費出版するかしないか?とも考えたりしているし、HPに載せることだって出来る。
作品のテーマは、その出来事は主人公の罪なのか、そうでなく主人公には自由意志を持たないのか?というものである。ドストエフスキーの(罪と罰)に似ている。
個人的には、自由意志はない、と考える。人間でなく、鳥になって産まれたい、と考えたとしても選べはしないのである。ただ、余生の中で思うことは人として産まれ、自分として出来上がったことは良かったと思う。他には誰一人いない(自分)として産まれたことに・・。
作品の主人公はわたしと同じく、(人生への最後の審判)を待っている。