ブログ - 201806のエントリ
雅樹は三十五歳で,東京での生活を切り上げ、帰郷した。実家に住むようになったが、父母は新築した家に越していて、彼は広い家で独りで生活していた。弟の和信はその後を追うようにして、大阪から帰郷した。兄に財産を独り占めさせまいとしてであった。
和信は金はあればあるだけ使う男で、無一文であった。大阪の外語学院で英会話講師をしていた時の生徒(芳子)と親密な関係にあったが、彼の気分屋と利己的な性格が絶えず、彼女に不安と怒りを与えていた。彼女がプレゼントに,ジャンパーを買ってあげると電話で告げると、そんなものはいらない。今の俺にそんな余裕はない、俺の人生の邪魔をするな、と言って邪険にし、結婚を約束していながら,絶えず突き放そうとした。
十九歳の芳子は家出をし、和信の故郷の海で飛び込み自殺をしようとして、二度決行する。決行できず、和信の家に住む雅樹に助けられる。和信は遠い都会の飯場に住み込んで土方生活をしていて、芳子は訪ねて行けなかったのである。
芳子は雅樹の家で待つことにして、二人だけの生活が一週間続いた。雅樹は彼女の食事を作り、風呂を沸かした。彼は職を探していたが、見つからなかった。
その日、芳子と和信は決着をつけることになって、電話で二十時に帰宅すると約束していた。雅樹と芳子は小さな電気炬燵で向き合って、待っていた。和信は約束の時間を三十分過ぎても帰って来なかった。
「そこに座ってたら寒いだろう。こっちに来ない」
その言葉が誘発し、事が起こった。
帰って来た和信と喧嘩になった。
後に、事件に発展していく。
これが現在、書いている(歩き神)という小説で、自分の経験を基にして、創作が入っている。それから、雅樹と芳子は抱き合ってしまうわけだが、それは雅樹に責任があるか?彼は罪を犯したのか?ということがテーマになっている。毎日、犯罪事件を新聞で読むたびに思うのは、犯人はほとんど因果関係の(場の流れ)の中に入っていて、それに流され、彼の意志と関係がなかったのではないか?ということである。状況の構造の中に入ってしまったのではないか?と考える。凶悪犯罪を犯した者は、(興奮しすぎていて)よく憶えていない、と答える場合が多いが、それは事実だと思う。
(罪)とは人の意識がつくるものであり、野生動物を含め、自然界にはない。
キリスト教は人の原罪を核にしているが、私は逆に、(罪人はいないし、皆、善人である)と考える。子供は皆、可愛い顔をしているではないか。大人になるにつれ、善悪や罪を教えられ、笑顔を失っていくのである。
(禁断の木の実)を食べたから,罪人になったのである。
退職後の田舎暮らしの生活に入って、出会う人の数もすごく減り、一日中、誰とも会わない日だってある。だが、深い付き合いをするようになる。人は見かけによらない、という言葉が本当だと思える。
自宅の隣の土地の持ち主が変わるので測量をさせてください、と言って、男が訪問して来た。どうぞ、と応えて敷地内に入れた。境のあたりを二人で調べてみると、モチノキが二十本ほども空高く伸び上がり、隣接した大型衣料品店の屋根にかぶさっている。以前から気になっていたが、放置してしまっていた。少し、かかってますね、と測量士は言い、これは大変なことになる、と自分は考えた。土地の売買の話になるから、持ち主は枝を切ってくれ、と必ず言ってくる。誰に頼めば良いのか、どれくらいの金がかかるかわからない、それが不安であった。
三メートルも長い棒の先にチェーンソーの付いたものを買って来て、切り始めた。枝の十本は切れたが、屋根まで高い枝は切れない。業者に頼めば、すごく高くつくし、専門職の人しか切れないであろう。
迷っていた。
身障者の会の知り合いが、団体旅行に行かないか?、と電話を掛けきた。
金がないので断りたかったが、前回も同行しているので、分かったと言い、木を切る話をすると、やってやると言う。
一週間後にやってきて、命綱を付け、梯子に上り始めた。自分は下で支えていたが、彼が上に上るほど梯子は揺れ、怖くなった。もういいよ、危ないから止めてくれ!と叫んだが、何!こんな事くらい、と言って、十メートルも上り、枝をチェンソーで切り始めた。枝が気味悪い音を立てて唸り、どすんと、落ちた。彼は、命がけの仕事やね、と言いながら十五本も切り、空がすっきり見えるようになった。
これくらいかな?と考えながら、五千円札を握らせようとした。
そんなの、要らん!、と言って彼は私の手を払った。
驚きながら、ああ、助かった、でも命がけの仕事をしてくれた人だからちがう形でお返しをしようと、考えた。日頃は口の荒い人であった。喧嘩を売るような口調だから、どことなく敬遠していたし、そんなに親しい間柄でもなかった。
感謝すると同時に、人はわからないものだ、見かけで判断してはいけない、と考えた。
毎週、火曜日にはカラオケ・ボックスに行く。15時から始まるカラオケ教室の予行練習であるが、一人で部屋に入ることには最初、気が引けた。自分の変わり者ぶりを見せているように思えたからだ。いつの間にか慣れてしまった。自分の歌い方をテープに録って聞き、自分で評価する。近頃は歌手の歌い方ではなく、自分の歌い方が出来るようになってきて、自分への期待感が増えた。
受け付け嬢ともすっかり親しくなった。自分の入る部屋のエアコンを事前に入れて、冷やしてくれていて、私は彼女に花や果実を持って行ってやる。跳び上がらんばかりに喜び、わたしも野菜作りの出来る家に住みたいわ、と言う。三十前の女であるが、彫りの深い顔立ちをしていて、眼が輝いている
「あなたは毎朝、自分の顔を鏡で見るのが楽しいやろう?」
「どうして?」
「今日はこの美しい顔をどうやってメイクしてやろうかな?なんて考えるのは楽しいじゃない?それに引きかえ、俺なんか、白髪ばかりの疲れた顔してて、見るのがうんざりするんだ」
「そんなことないわよ。ハンサムよ」
その言葉に嬉しくなり、梅の実やトマト、ヤマモモの実など次々に持って行ってやった。ヤマモモの実を見るのは初めてらしく不思議そうに見ていたので、女の人の乳首みたいだろう、と言うと、可愛いわ、とこたえた。
「どうしてこんなにたくさん持ってきてくれるの?」
そう聞いてきたので、あなたが好きだから、と言おうとして途惑ってしまい、今も言えないでいる。
時々、小学生の彼女の子供が来て、パソコンで遊んでいる。
もちろん、夫はいるのであろうが、どうも聞きづらい。
自分の気持ちが変に揺れている。
老境の恋だろうか?
キリスト教を知るために、聖書を学んでいる。週に一度、神父とともに聖書を読んで、討議をし、日曜日には教会(その宗派は王国と呼ぶ)に行って話を聞き、信者達と握手をし、神についての会話をする。現在、取り組んでいる小説は人間の原罪が中心になっており、自分の体験が含まれていて、そこに神やキリストの言葉を登場させることにはすごい意味が出てきている。だから、創作の部分においても心の部分においても救われることが多く、禁断の木の実、カインの末裔などの内容は身につまされる。
三か月前に神父が初めてわたしを訪れた時、研究の対象としての関心はありますが、信仰としては関心はありません、とわたしは言ったし、その方針は変えないつもりであった。
小説を書きながら、三十五年前に起こった出来事を思い出し、作品の中で登場人物たちと再会してみると、懐かしさ・喜びと同時に苦痛・罪がよみがえり、耐えられなくなってくることがある。(どうすればあの信者たちのように神を信じられるようになるか、今度、尋ねてみよう)などと、考えたりするが、神が地球を作り、宇宙を作り、夜と昼を作り、生物を作り、人を作り、などという行為がどうしても信じられない。
人生の苦痛は捨てて、自己を捨てて、神にすべてを預け、お任せしなさい。自分の人生も心も神に預け、判断をお任せしなさい。そうすればあなたは救われ、本当の自由が得られるのです。
いつの間にか、わたしはそんなことが、独り言として、出るようになった。
これが救いなのだとわかってきたが、そうなるには、右の頬を打たれれば左の頬を出す、淫行を禁じる、奉仕活動をする、先祖の墓を捨てる、など条件を実行しなければならない。自由な考えや行動も捨てざるを得なくなる。
これまで自由を満喫してきたが、疲れが出て来た。自由であることは楽しかったが、苦痛になり、それを捨てて、(神の王国)の住人になる日が訪れるかもしれない。
昨日、シンガポールでトランプ大統領と金正恩氏が史上初の首脳会談を行った。北朝鮮の非核化と言う約束で一致したが、具体的内容や日程は述べれれておらず、これからの折衝にかかっているようである。八百長試合の両者の(遠吠え合戦)が終止符をうち、真剣勝負に入るのだ。両者は黙って行動を移すにちがいない。
自分の若い頃はプロレスがブームであった。あれは真剣勝負であると信じて,面白くテレビを観ていたが、八百長だと知り、落胆したが、あの迫力は忘れられなかった。特にタイガー・ジェットシンと猪木の試合など時間を忘れて観ていた。リングに上り、サーベルを口にくわえ、狂った顔を向け、奇怪な身動きをするシン、そして正義の格闘家・猪木、その闘いが始まると自分は熱狂していた。善玉、悪玉それに日本人、外国人の組み合わせになるとこの上なく、面白かった。
政治の世界も同じようなものであるが、八百長だったはずのゲームが現実の行動、出来事、事件に変わるところが、見世物以上に興味深く、興奮させられる。北朝鮮は本当に非核化するつもりであろうか?せっかく苦労して手に入れた、最強の武器を本当に手放すであろうか?トランプは大量の武器を日本に買わせた上、さらに輸入品の関税を高くして儲けようとした。
八百長試合を終えたシンと日本人レスラーは銀座のクラブで酒盛りをしたにちがいない。裏で仕組んだ金とトランプみたいに興行は大成功であり、野次馬根性のマスコミも記事が売れてほくそ笑んでいる。
高い入場料を払わせられたのは国民である。八百長試合のために、年収が百万円に満たないものまで税金を払わせられ、介護を希望していないのに保険料を取られるのだ。
北朝鮮の非核化のために、米、日、韓が経済援助をし、経済復興に手を貸す、などと新聞は書いているが、そんなことを国民は許すであろうか?どの国においても、ほぼ、毎日のように突発的な殺人やテロが横行しているこの時代に金正恩を殺したいと考えている者が居ないはずはないし、アメリカも北朝鮮も暗殺が得意な国なのである。ケネディの暗殺も解明されておらず、北朝鮮においてもどれだけの人が暗殺されたかわかりはしない。金正恩のために何万人の北朝鮮の民が飢え死にし・国外逃亡しただろうか?拉致された日本人のことも放置されたままである。
金正恩の一連の政治行動に対し、毎日新聞は彼がスイスに留学し、優れていると讃え,マスコミ全体は偉業だとみなし始めているが、それは掌をかえしたような不審さを覚える。核開発のために国民を飢えさせるのではなく、もっと早く、独裁体制を解き、民主国家にしておくべきではなかったのか?マスコミは米朝の平和転換に有頂天になり過ぎているようだ。
ヤクザの世界では敵と仲直りする時、右手で握手をし、左手に持ったドスで刺し殺すという話を耳にしたことがある。政治の楽屋裏はやくざの世界と同じである。トランプも金正恩もそれぞれ左手にドスを持っている。
この一年間が見ものである。二人とも絶えず、暗殺の危機を覚えているし、暗殺されればそれだけの政治的効果の出る大御所である。わたしなど吹けば飛ぶよな男であるから、暗殺されても何の効果も出ない。
金が油断をして人民の前に顔を出した時、若い男が突然、飛び出すのではないか?と想像する。
果たしてどうなることか?これからが本番である。
この記事は暗殺をすすめているのではありません。現実の政治世界を推し量っているだけです。
これは、吉幾三さんの(酒よ)という歌の詩であるが、今、わたしはそれを持ち唄にして練習している。ユーチューブでの視聴者数が五百万を超えているから、かなりの人気である。九州に住んでいると東北訛を耳にすることはないが、東京に行くとよく耳にする。あの訛は何とも言えない日本人の原質を感じさせる。彼らと工場の現場労働を何度か共にしたことがあるが、その忍耐力には圧倒された。口数や不満声も少ない。東北は貧しく、明治の頃は飢饉が起こって、娘を身売りに出さざるをえなかった時代もあり、九州人であるわたしとは少し違う世界で、今世紀は東北大震災にも見舞われた。宮沢賢治、石川啄木、太宰治、深沢七郎などすごい作家を輩出しており、その系列の中に吉さんが位置づけられ、この歌も淋しくそして家族への愛に満ち溢れ、涙なしには歌えない。
今の時代には人の涙を目にすることが少なくなった。笑い顔を目にすることも少なくなった。能面顔が増え、感情が消え、それは感情を交えると言う人間の基本を失っていることなのだ。歌の世界でもオリジナルが消え、コピー・張り付けが横行し、こんな猿真似をして作曲家や作詞家は恥ずかしくないのかと思うことが多くなった。
カラオケ教室でこの歌をうたうと、(あの人はやはり淋しいのが好きなのね)と女性とのささやきが聞こえ、そのとおりだと思う。淋しさ、暗さがわたしの原質であるが、時代はそれを歓迎しはしない。
古里の駅からは 恩師と友が
青森の駅からは母一人
泣きながら追いかける 着物の母がいた
何時の日か また いっしょ 暮らせる夢乗った
居酒屋の片隅に 置いてたギター
つま弾けば 思い出す 演歌節
冷酒と酔いどれと 涙と古里と
年老いた父と母 子供となあお前
それぞれに人はみな 一人で旅に立つ
幸せになるために 別れてなあ酒よ
わかるよ なあ酒よ
これは同じく(酒よ)の三番目の歌詞であるが、吉さんはステージでしか歌っていない。生活のために故郷を捨てざるをえない東北人の、典型的な心である。
山道を歩いていると、おしゃべり鳥がよく鳴いている。鳴くと言うより、長い時間、おしゃべりをしている。ひどい時には一日中、鳴いているが、何をしゃべっているのかわからないし、何という鳥なのかも知らない。(ここは自分のテリトリーだ)と訴えているのか、異性を求めているかであろうが、甲高い声で元気が良い。
そのおしゃべり鳥が広い我が家にも訪れるようになった。朝早くから、陽が沈むまで鳴いていることがある。小さな鳥であるが、木の枝葉の中に隠れていて、見えない。孤独なわたしに自然の歓びを与え、生きていることを祝ってくれているのだろうか。都会では味わえない歓びである。
わたしはその鳴き音に起こされ、庭の畑のナス、トマト、ニガウリ、コショウ、ピーマン、サツマイモ、ウコン、ニラなどを巡り、お早う、と声をかけて回る。野菜家族たちは主人を出迎え、(ぼく、何かに掴まりたいよ)とキュウリが蔓を伸ばし、トマトが(もっと長い杖が欲しいよ)と頭を伸ばし、ニガウリがヤブガラシに絡みつかれて困り顔を見せている。
わたしは彼らをなだめながら、雑草をむしってやる。独居老人の一日の始まりである。アジサイが白、薄青、薄ピンクの花をあちこちでつけ、ビワが橙色の実を付け、梅の木が鈴らに実を付け、キノコが枯れ木に生え、ドクダミが白い花を咲かせ、賑やかな我が家である。
わたしが床から起き上がらなくなる日が来ても、彼らは私を待っているにちがいない。