ブログ - 20180708のエントリ

人は(場)で動かされる。

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2018-7-8 8:46

  五十年前、東京の二流私大に入学した頃のことである。沖縄空手道剛柔会という同好会に入り、シゴキを受け、そこが暴力団顔負けの世界であるということを知り始めていた。二人の悪友と白いセッタをはいて、新宿・歌舞伎町をブラブラ歩いていた。渡哲也の(東京流れ者)の唄さながらの気分で、不良を跳び越えて、ヤクザの気分であった。

 三越の地下・食品売り場で皿に盛られたチクワ、ハム、漬物などの試食品を食べて回り、そんなに食べたらなくなるじゃないですか、と女子店員に言われ、睨みつけてやった。喫茶店に入り、コーヒーを飲むと、相棒のAは、ボーイの態度が悪いと、言って、砂糖壺に痰をはいていた。

 何でもあり、の気分であった。

 「酒でも飲みたいけど、金がねえなあ」

 Aがニヒルな声で言い、

 「カツアゲでもするか」

 Bがつぶやいた。

 カツアゲが恐喝であることはわたしは知っていた。

 無言で同意したまま、三人は対象者を見つけようと、ブラブラ歩きをしている男で気の弱そうな者を探していた。

 三十分ほど、探したが、見つからず、諦めた。

 この時、一人が、あいつをやってやろう、と言えば自分も含めて三人はその男に近寄り、(おい、ちょっと金を貸してくれねえか!)と、実行したことは間違いない。わたしは表面上は真面目な男で、恐喝なんて遠い世界の行為であったが、その場の雰囲気は磁場と言うほどの強力なものであった。逆らえなかった。

 オウム真理教の七人の死刑囚が死刑の執行を受けたと、昨日の新聞に載った。あの事件も強烈なものであった。自分であればサリンをまいたかもしれない。政治活動にも興味を持っていたから、巻き込まれたかもしれないが、人民に被害を与えてはならないくらいの自制心はあった。

 社会に出てから、何度も、危うく事件になる状況に出あった。危機一髪で巻き込まれなかった。今、振り返れば、(その場)にいなければ巻き込まれなかったことである。その場にいるか、いないかは、事件が起こるか起こらないかは分からないのであるから、自分で判断は出来ない。

 (場)によって人は幸福にも不幸にも、英雄にも犯罪者にでもなる。時空の途方もない力には勝てはしない。

 

 

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