ブログ - 201807のエントリ

意志は誰の指示か?

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2018-7-10 6:10

  人は皆、何をするか?しなければならないか?など考え、日々、行動している。その指示は自分独自の意志から来てると、思っているが、実はそうではない。私たちの人生も行動、思考も生まれる前から枠の中に入れられ、自分ではないものの指示で動かされているのである。

 人間に産まれたいか?鳥になってうまれたいか?どんな両親のもとに産まれたいか?

 受精される時に訊かれたとしても親を選べはしない。政治家や大企業の管理職の子として産まれただけで、学歴、就職、結婚の心配はいらず、順調な人生が約束されている。女であれば美人に産まれただけで良い男に巡り合い、幸福な結婚生活はほぼ、約束されている。

 不遇な状況のもとに産まれた者がチャンスに乗り、英雄や一流人になることはありえる。それは頑張ったからだと言われるが、その人の個性と時代のタイミング、道を開いてくれた人に出会えたからである。努力が無意味だとは言わないが、流れに乗ってしまえば自然に頑張るのである。

 いま、書いている(歩き神)と言う小説は単行本ほどの量があり、ほぼ自伝的な内容である。以前、書き上げた作品に聖書の考えを入れることで膨らみと安定感が出ているように思える。応募しても、自分では満足していても、落選するであろう。自費出版するかしないか?とも考えたりしているし、HPに載せることだって出来る。

 作品のテーマは、その出来事は主人公の罪なのか、そうでなく主人公には自由意志を持たないのか?というものである。ドストエフスキーの(罪と罰)に似ている。

 個人的には、自由意志はない、と考える。人間でなく、鳥になって産まれたい、と考えたとしても選べはしないのである。ただ、余生の中で思うことは人として産まれ、自分として出来上がったことは良かったと思う。他には誰一人いない(自分)として産まれたことに・・。

 作品の主人公はわたしと同じく、(人生への最後の審判)を待っている。

人は(場)で動かされる。

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2018-7-8 8:46

  五十年前、東京の二流私大に入学した頃のことである。沖縄空手道剛柔会という同好会に入り、シゴキを受け、そこが暴力団顔負けの世界であるということを知り始めていた。二人の悪友と白いセッタをはいて、新宿・歌舞伎町をブラブラ歩いていた。渡哲也の(東京流れ者)の唄さながらの気分で、不良を跳び越えて、ヤクザの気分であった。

 三越の地下・食品売り場で皿に盛られたチクワ、ハム、漬物などの試食品を食べて回り、そんなに食べたらなくなるじゃないですか、と女子店員に言われ、睨みつけてやった。喫茶店に入り、コーヒーを飲むと、相棒のAは、ボーイの態度が悪いと、言って、砂糖壺に痰をはいていた。

 何でもあり、の気分であった。

 「酒でも飲みたいけど、金がねえなあ」

 Aがニヒルな声で言い、

 「カツアゲでもするか」

 Bがつぶやいた。

 カツアゲが恐喝であることはわたしは知っていた。

 無言で同意したまま、三人は対象者を見つけようと、ブラブラ歩きをしている男で気の弱そうな者を探していた。

 三十分ほど、探したが、見つからず、諦めた。

 この時、一人が、あいつをやってやろう、と言えば自分も含めて三人はその男に近寄り、(おい、ちょっと金を貸してくれねえか!)と、実行したことは間違いない。わたしは表面上は真面目な男で、恐喝なんて遠い世界の行為であったが、その場の雰囲気は磁場と言うほどの強力なものであった。逆らえなかった。

 オウム真理教の七人の死刑囚が死刑の執行を受けたと、昨日の新聞に載った。あの事件も強烈なものであった。自分であればサリンをまいたかもしれない。政治活動にも興味を持っていたから、巻き込まれたかもしれないが、人民に被害を与えてはならないくらいの自制心はあった。

 社会に出てから、何度も、危うく事件になる状況に出あった。危機一髪で巻き込まれなかった。今、振り返れば、(その場)にいなければ巻き込まれなかったことである。その場にいるか、いないかは、事件が起こるか起こらないかは分からないのであるから、自分で判断は出来ない。

 (場)によって人は幸福にも不幸にも、英雄にも犯罪者にでもなる。時空の途方もない力には勝てはしない。

 

 

低能先生とハゲックス氏。

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2018-7-6 7:20

  ブロッガーで一日に七回もハゲックス氏を中傷していた低能先生がハゲックス氏を刺殺して、話題になった。わたしは新聞報道でしか知らなかったので単なるネット上でのトラブルだと思っていたが、ネットで調べてみると、低能先生はネット上で周囲の者達を低能だと罵倒し続け、ハゲックス氏はネットセキュリティ会社の社員であり、髪のスタイルはモヒカン刈りで両脇を短く刈っていた。二人とも四十歳代でまだ若い。

 被害者には申し訳ないが、わたしはこの事件を思い出すたびに笑い続けた。

 コミックスの世界としか思えない。同時に現代を象徴していると考えた。

 発達障害者の時代なのである。私もその一人であろうが、国の総理大臣が利益供与の疑いを持たれながら、二年間も国会で無駄な経費を使って、イジイジと言い訳ばかりし、彼の先祖は長州藩の名誉ある家系なのだが、いまだに尾引かせており、役人の贈収賄罪は後を絶たず、政治家のセクハラ・トラブルの報道もほぼ毎日である。五十年ほど前に、(一億総薄痴)という言葉が流行ったが、今は(一億総発達障害)と言える。老人から、子育て世代まで、周りを見回すと、動物にも劣る者達が多すぎる。

 宗教を誉めるわけではないが、スマホや自動運転車など昔から考えれば超能力としか思えない物が次々に出来ていってるのに人間の精神は全く発達するどころか逆に低下している。聖書が紀元前に書かれたにかかわらず、三千年後の今に生きており、他の宗教も衰えることはない。

 そのうち、人工知能のように脳も自動発達させられるようになるであろう。

昔の日本女はパンティをはかなかった。

カテゴリ : 
日記
執筆 : 
nakamura 2018-7-1 6:48

  今だにこのことは不思議な事実であり、ネットで検索してみても、現在のところ答えはない。昭和の初めに東京のデパート・白木屋で火事が起こった。着物姿の女子店員が二階から飛び降りて逃げようとした時、路上に居た男たちに下から陰部が見え、それがきっかけでパンティを履くようになった、という噂が残っているだけである。それまでは着物の下に腰巻を付けていて、排泄や性交の時はそのまま巻くって行っていた。便利なことであるが、男にレイプされる危険を考えると、そんな心配や防備がなかったのか?と不思議であり、当然、日本以外の国では考えられないことである。

 今の時代、成人女性、幼女への性的暴行・殺人行為、家庭内での虐待などの事件はほぼ、毎日マスコミに出ている。パンティを履いているだけで、かなりの防衛効果はあるのに、古代から昭和の初期までなぜ、履かなかったのか?履かなくでも大丈夫だったのか?と考えるし、その頃までの社会の動きを調べても、レイプに関するものが見当たらない。

 それで女性たちが心配なく生活できていたのであろうか?戦乱・動乱の時代も長かったのに、それほど(安全・安心)の時代であったのだろうか?被害を受けようとした時、そのまま身を許したのであろうか?それであれば子持ちの未婚女性が増えて社会問題になったはずであるが、史実にはまったく見当たらない。

 推測であるが(弱い者いじめは恥)という考えが浸透していて、レイプや性的暴行は(してはいけない)強い掟になっていたのではないか?江戸時代にの本を訪れたほとんどの外国人たちが、平和ですごしやすい国と書き残していることも事実である。

 それにひきかえ、今の時代は表面的な美しさに惑わされ、中味は腐っているといっても過言ではない。封建時代が決して、悪かったわけではなく、今は民主主義といってきれい面しながら、十人に一人が利益を求めて投票すれば総理大臣が決まる(超独裁国家)なのである。

 

 

 

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