ブログ - 20161209のエントリ
数日前、公民館に行った。手話教室の見学が目的だった。障害者の旅行で知り合ったAさんの誘いの言葉が心に残っていたからである。
10人ほどの高齢の女性が集まっていて、Aさんは皆の前に立って、授業を始めた。ボードには日常使う単語が並び、会話の例文も書かれていた。Aさんは穏やかな顔で、手話で現し、時々、たどたどしい言葉を発した。人は言語を考え出す前は手振り身振り、唸りで意思伝達をしていたのであるから、手話というのは親しみを抱かせた。素朴な原始時代に戻ったような懐かしさをわたしのDNAは感じ取った。ただ、完全に手話をマスターするには10年はかかるという話を聞いていたのでわたしの余命は足りないかもしれないとも考えた。
帰宅して、手話ダンス、手話劇、手話で歌う、など調べてみると、すでにそれらは実践されていてたくさん取り込まれているのがわかった。だが、いずれにも発声言語が入っていたのでわたしの本来の意図とは異なることを知った。本来の意図は手振り身振り、手話で現すことであり、サイレント映画に観る様にそれらと顔の表情、字幕で現す世界であった。
次に(足らざる)という言葉を考えた。(足るを知りて足らざるを知る)という諺があるが、今のわたしは、歳が足りない、頭が足りない、女が足りない、金が足りない、活発さが足りない、と足りないものばかりである。時間だけは十分にあり、それだけが足りているが、いずれ死んでそれも消えてしまう。
Aさんはしゃべれない、聞こえない、と二重苦の生活であるが、それ以外は満ち足りているし、二十苦のハンディを乗り越えて健常者に手話の指導までしている。これは驚きであるし、健常者?たちへの教訓にもなる。同時に(足らざる)ことの価値を見出すことも出来る。すべてに満ち足りた人が必ずしも幸福なのではない、足らざるばかりの人が必ずしも不幸なのでもない。金が足りなければ、金を盗まれる心配はないし、女が足りなければ浮気される心配はないし、金を使うこともないのである。