ブログ - 201612のエントリ
前掲のブログの続きになるが、太古の日本では男女が結びつくと同居するのではなく、男が女の住まいに通っていたのである。(夜這いーよばあい)の風習はその時、男が女の名前を呼んで訪れたことを告げた(呼び合う)ことから言葉になったのだ。一夫一婦制で同居するようになったのはそれ以降のことである。
草食系、男女共同参画社会、性同一障害、グループ・ホームなど性の多様化複雑化する現代において一夫一婦制で同居すると言うルールは時代にあわないし、それを習慣として受け入れることが難しくなっている。結婚制度自体が見直されなければならない。
ある夫婦は家庭内離婚・家庭内別居の生活をしている。夫は妻との離婚を望んでいるがツマは出ていかず、夫の行動を絶えず監視している。不倫でもすれば離婚時の有利な資料になるからである。伝達必要事項は紙に書いて食卓テーブルの上に置いている。ツマ彼女の部屋に外鍵・内鍵を付け、外出の際は必ず、施錠し、生活費は夫の金を使っている。もちろん、セックスはない。
こんな状態なのに別れるには離婚を裁判所に提訴しなければならないし、離婚して姓が変わるだけでも丸一日の書類手続きが必要なのである。
知人から聞いたこんな話。
A子は50歳で美人であり、気性が激しい。保険の外交員をしており、自分の生活費は自分で稼いでいる。派手好きでカラオケやスナックで飲んで騒ぐのが好き。息子は19歳の大学生。夫は金貸しをしていてバブルの頃に大儲けして、豪邸に住んでいるが、今は貸金業への規制が入り、収入は少なくなった。彼はA子に自分の使う光熱費や石鹸、シャンプーの金を出すように請求した。大喧嘩になり、(貴様!撃ち殺して、スコップで土に埋めてやるぞ!)と息子のいる前で叫んだ。最初わたしは夫が叫んだのだと思っていたら、A子が叫んだのであった。
それで離婚した。
A子には再婚相手がすでにいたが、結婚はしない。アパート住まいをして、男が通ってくるようにしている。男は二回離婚していて、二回目の妻はうつ病になり、入院して、彼の両親の願いで離婚した。男はかなりの完全主義者で金持ちである。趣味は神社仏閣を見て回ることで、カラオケを歌うとド音痴。食材でも必ず激安店に行くが、A子は激安店は中国、韓国製が多いからと言って信用しておらず行かない。男はA子が外交員をして仕事柄他の男と飲食をすることを嫌い、主婦業に専念することを望んでいる。A子は仕事を続け、男からの経済的援助は受けず、自立していたい。
A子はアパート住まいを始めたが、A子と男が今後どうなるかわからない。破綻の可能性しかないと、わたしは思う。三者に共通しているのは異種を受け入れず、排除する性格だと言うことだ。誰しもそれは持っているが、先日の人権の話の中にあったように、異種は観察し、納得できる部分は納得し、自分に取り込むしかない。人権の講演時に話したアメリカ人が日本の言葉や生活習慣が異なると考えて拒否すれば彼は生きていけなかっただろうし、母国に引き上げるしかなかったはずだ。
彼は3年間で当用漢字をマスターし、すっかり日本通になり、今では大学教授にまでなり、テレビにも出演して、タレント並みである。」
数日前、公民館に行った。手話教室の見学が目的だった。障害者の旅行で知り合ったAさんの誘いの言葉が心に残っていたからである。
10人ほどの高齢の女性が集まっていて、Aさんは皆の前に立って、授業を始めた。ボードには日常使う単語が並び、会話の例文も書かれていた。Aさんは穏やかな顔で、手話で現し、時々、たどたどしい言葉を発した。人は言語を考え出す前は手振り身振り、唸りで意思伝達をしていたのであるから、手話というのは親しみを抱かせた。素朴な原始時代に戻ったような懐かしさをわたしのDNAは感じ取った。ただ、完全に手話をマスターするには10年はかかるという話を聞いていたのでわたしの余命は足りないかもしれないとも考えた。
帰宅して、手話ダンス、手話劇、手話で歌う、など調べてみると、すでにそれらは実践されていてたくさん取り込まれているのがわかった。だが、いずれにも発声言語が入っていたのでわたしの本来の意図とは異なることを知った。本来の意図は手振り身振り、手話で現すことであり、サイレント映画に観る様にそれらと顔の表情、字幕で現す世界であった。
次に(足らざる)という言葉を考えた。(足るを知りて足らざるを知る)という諺があるが、今のわたしは、歳が足りない、頭が足りない、女が足りない、金が足りない、活発さが足りない、と足りないものばかりである。時間だけは十分にあり、それだけが足りているが、いずれ死んでそれも消えてしまう。
Aさんはしゃべれない、聞こえない、と二重苦の生活であるが、それ以外は満ち足りているし、二十苦のハンディを乗り越えて健常者に手話の指導までしている。これは驚きであるし、健常者?たちへの教訓にもなる。同時に(足らざる)ことの価値を見出すことも出来る。すべてに満ち足りた人が必ずしも幸福なのではない、足らざるばかりの人が必ずしも不幸なのでもない。金が足りなければ、金を盗まれる心配はないし、女が足りなければ浮気される心配はないし、金を使うこともないのである。
田舎に引きこもった生活をしているが、昨日は友達の誘いで、町の公共施設にジェフ・バークランド氏の講演を聴きに行った。(障害は個性)という題であり、それは常日頃自分も考えていたので珍しくはなかったが、彼が20歳で来日し、46年間を過ごした体験を基にしての話だったので中途退席する観客はいなかった。彼は東京・駒沢で学生・下宿生活を始めた話をした。そこでは共同風呂に入る時に、下宿生たちに(お先に!)と大声を出して風呂に入ることになっていた。彼は最後に入浴するのでその言葉は要らないのであったが、必ず(お先に!)と叫んで風呂に入った。ある日、彼が外に出て、バスに乗ろうとした時、バスを待っていたおばあさんが彼に(お先に)と言って乗ったので、びっくりした。(お先に!)とは風呂に入ることだったのではないか、確かにどちらもBUS,BAThであるがとジョウクを入れて、その出来事を友人に聞いたが、友人はバークランド氏の誤解を丁寧に説明してくれたと言う。
バークランド氏ははっきり言わなかったが私が彼の真意を想像するには彼自身が日本語もわからず、生活も出来ない障害者であったということだ。それは一時的なものであり、彼は好奇心と猛勉強によって生活で出来るようになり、健常者に変わった。日本人を観察し、20歳までの彼の生活習慣と比較して違いを理解し、吸収した。人権と言うのは相手の置かれている生活、環境を理解し、自分との差異を発見して受け入れることだと言いたかったのだ。
日本人は謙虚なので日本の文化は受信型であり、外国は発信型文化だとも言った。聾唖者も観衆にしての話だったので手話通訳士が通訳をしていた。バークランド氏は通訳士の名前を手話で現した。塩田さんの場合は顔全体を引掻く身振りと両手の平開いてを交える手振りで現した。彼自身の彼の豊富な体験も交えてドラマの監督でもあった。
わたしがそれ以上印象に残ったのは、彼が人間にとって一番大事なものはなんですか?と観衆に尋ね、命、金、愛などと聴衆が答える中で、それは酸素です、三分間酸素を吸わなかったら死んでしまう、と答え、次に水です、重力です、と話した。彼の実家はアメリカの砂漠だったので日本に来て初めて傘を差したとも話した。砂漠では水は貴重であるが日本ではあるのが当たり前なのである。
彼は自然が一番大事である、と言いたかったのである。日本人には出ない言葉である。酸素、水があるのは当たり前だと考えているからである。