ブログ - 20151005のエントリ
まず、虫のつかない野菜を紹介します。大根(少し葉が虫に食われる)、ジャガイモ、たまねぎ、にら、ねぎ、ワケギ、絹さやインゲン、ソラマメです。苗や根から植えるのはコンニャク、サツマイモ(ツルをゆがくとサラダになる)、サトイモ、ズイキ、ヤマイモなどです。
次に虫の付く野菜です。これは種を箱の中でまいて、ビニールを隙間なく被せて虫を避ける。ある程度成長したら、畑に植えて、ビニール袋(肥料袋でOK)で周りを囲み、虫を避ける。白菜、キャベツ、ニンジン、ブロッコリー、レタス、カリフラワー、インゲン豆などはこのようにしました。
無農薬野菜が作れることがわかり、現在、わたしの畑ではそのようにしています。
昨日は気分が悪かった。腰痛、胃痛、ウツ、不整脈と体調を壊した時には一気呵成に現れ出る。外に出る気もなく、寝転がり、(ガラパゴスの女)のイメージ言語が浮かんで、パソコンを開き、打っていった。ラストの部分に差しかかり、その場面を慎重に展開する段階であった。
今日は体調も治り、山道の散歩、ギンナンの皮むき、食材の買出し、いつもの通院とスムーズに進めた。野生動物の意識・生活を想像してみた。山道の地面に荒々しく擦った個所があり、イノシシが大好きな山ミミズを探した跡だとわかった。小さな蛇のように大きいミミズがそこに住んでいるのだ。
野生動物たちは、今日は餌を探せるか?生きれるか?なんて考えはしない。老後がどうなるか?戦争がどうなるか?なんても考えはしない。未来はなく、現在しかない。否定することも肯定することもない。だから、眼が澄んでいる。
現在だけに眼を向け、(すべて、良し)なのである。
文学世界の両巨頭に交えて(私)を出すなんて、おこがましいにもほどがあるでしょう。名も知れぬ変わり者にしかすぎない私ですが、ロマンチスト、繊細さ、自己へのこだわり、劣等感、夢想癖などにおいては両巨頭に負けません。
中学時代から受験勉強を強いられ、社会での人間関係を持たなかったので、小説の中で学ぼうとしました。いろんなことを学びました。こんな場合、他者や女はどのように感じ取り、反応するかなどと社会に出れば十分すぎる経験の作品の世界で知りました。嘘も感じ取りました。女が登場するのに男の主人公が欲情しないからですが、執筆を経験した現在では十分にわかります。主題が官能世界ではなかったからです。
太宰治の小説は何と言っても(東北人)の匂いがあり、清らかな文体ですが、(生まれてきてすみません)などという言葉を書いた者は文学史上初めてでしょう。そこに彼の感性、作品が凝縮されています。そんな女々しい言葉を使って?などと世間から侮蔑される言葉で彼の人生、作品を切り開いていったのですから凄いものです。他方、三島由紀夫は兵役検査で不合格(後に誤診だとわかる)だったことと虚弱さが文学に向かうことになり、ボディビル、剣道、空手で体を鍛え、血を見ると欲情する、同性愛などの劣等感に復元力を与えることになりました。虚構の世界で復元力を広げ、現実世界で、切腹、という行為で見事に結実させたのです。
わたしはどうなのか?
わたしはこのブログに何度も書いていますが、人間中心主義(多数派の価値基準)の視点から自然中心へと視点を変えることで自分や世の中を克服しています。今後、この流れを引き継いでいきます。
今朝の朝刊の書評を読んでこのタイトルを考えついた。(寄生虫、常在細菌など悪玉を消すことが人の自己免疫系統を過敏にさせているのではないか)?山本ふみこ氏の文章、ですがわたしは読んで考えが進みました。がん細胞、赤痢、ペストなど人間にとっての病原菌、悪玉は無数にありますが、自然界にとっては悪玉も善玉もいないし、逆にそれらには必要性があるのではないか?ということです。人間社会にも悪人や悪はありますが、実はそれらも必然的に生じているのではないか、ということです。ブログ(静電誘導)の中でも書いていますが、エボナイトの棒を布でこすると一端にプラスの電気がうまれ、他方の一端に同量のマイナスが発生する原理と同じではないか、と考えるのです。
そのように考えると自分の人生や社会、世界の見え方が変わってきます。
三島由紀夫の(仮面の告白)を再度、読み始めた。以前、三度、読んでいるが、今回は(不幸が産む傑作)という主題を考えついたからである。(三島由紀夫を傍にした夜)のブログに書いているように彼を3,4分間、そばにしたことがあった。東京・後楽園・ヘルスジムでボディビルをやっていた頃である。(金閣寺)の作品の主人公がドモリであることから、わたしは見破られることを恐れて話しかけはしなかった。上半身が裸で筋肉の張り詰めた肉体は小柄ながら迫力を漂わせ、オーラさえ放射していた。
彼もわたしと同じく若い頃は虚弱体質であり、繊細さとロマンチズムに満ち、優等生として育てられ、性的異常さがあり、という具合だったから、わたしは近親感より、嫌悪のほうが近かった。後楽園・ヘスルジムで彼をそばにして7年後、彼は市谷・自衛隊に同士たちと乱入し、割腹自殺をした。わたしが通っていた法政大学の掘割をはさんだ位置に自衛隊はあったが、新聞の一面トップに報道され、わたしは冗談だと一瞬考えた。
東大出で大蔵省に職を得た彼が、結婚し、子供までもうけておきながら、なぜ(私)にこだわり、最後に夢を実現したのか?世間的にはうらやましいばかりの彼の人生は彼の内心では不幸の塊であった。虚構という小説世界で自分の人生を変換し、再構成する、生きなおすという衝動・熱情に病として取り付かれてしまった。割腹自殺が夢の実現であり、虚構世界の現実化であることは彼の小説を読めばわかる。
割腹はオナニーにも似た快感であった、とわたしは想像する。わたしが後楽園・ヘルスジムでのボディビルや大学での一撃必殺訓練(空手)をやって筋肉を鍛えた時、不思議な衝動が沸いたのを覚えている。自分の筋肉・体を叩き、傷つけ、壊したいという衝動であった。精神科医に言わせれば自傷行為だと言うであろうが、実行まではしなかったがわたしはそれを消すことは出来なかった。武士が切腹に臨む時も似た衝動があったと考える。切腹を否定し、悲しむことより、腹の中の虚心さを証明できるという快感の方が強かったのではないか?