ブログ - 20151001のエントリ
青春を受験戦争に奪われた、そのもったいなさと悔しさは今でも消えない。若いエネルギーを真実への思索や恋愛、美の追求などに向ければ、自殺しかけたり永い無力感・絶望感に陥ることもなかったはずなのに。導いてくれる者は誰一人いなかった。
高校時代に数学1,数学2B,現代文、古文、漢文、物理、化学、生物、世界史、日本史、社会、美術、英語などあれだけの科目を詰め込まれて、68年間の人生においてどれだけの効能があったのか?十分の一にも満たないであろう。それらはツールであり、道具でしかなかった。何のための道具であったのか?文部科学省の役人や教員に尋ねてみたい。おまえらの飯の種にされにすぎないのじゃないか!今でも飯の種にされている生徒が多い。
すべての世界には中心点がある。暴力団であっても市民を守ってると主張し、会社であっても、良いものを作って社会に貢献し従業員の生活を支えていると言うのに、学問の世界は各分野に分散し活動するだけでそれらを統制する中心点がないのだ。利便性と悪弊を生産するだけでいつまでたっても堂々巡りを繰り返している。
(教育)とは何か?生きることを教え育む学問ではないか?生きるには何が一番必要なのか?食物である。酸素である。自然環境である。健康である。それらを阻害し壊しているものは何か?目先の生活、金権政治、それらによる自然破壊である。
教育の自由化を訴えながら、なぜ、文部科学省認定の教科書でなければならないのか?社会人がなぜもう一度高校に戻って微分・積分を学べないのか?学力テストではなく、個性発見のテストがなぜないのか?
学問の中心になる学科、個性を発揮出来る学科をもうけるべきである。
三年前の夏、わたしはバイパス手術を終え、病室のベットの中にいた。主治医が回診に来た。胸の縫合跡の痛みはなく、順調に回復していたが不整脈は消えなかった。
わたしは尋ねた。先生、退院したら、散歩は出来ますか?サイクルングは出来ますか?と。主治医は笑顔で、出来ますよ、と答えわたしはすごく嬉しかった。素潜りが好きなんですが出来ますか?と否定を恐れながら聞いた。彼は少し考え、今年は無理でしょうけど来年は出来ますよ、と言い、わたしは天にも昇る嬉しさを覚えた。涙さえ出そうであった。
今年はお盆前、その大潮の日が曇り空だったので、素潜りには行かなかった。昨年もその前には行った。サザエを6個、タコを二匹、魚を三匹捕った。お盆過ぎにはクラゲが出るし、太陽の強い日でないと海底は見えないし、大潮の日でないと岸から離れた海にはいけない。
東京での20年間の生活を終えて帰省した日だった。ワゴン車に生活用品を満載していたが、両親のいる家には行かず、まず海に行った。
大学受験に失敗した頃であった。自律神経失調症、ドモリ、両親の不和、断食に失敗、恋人もおらず、人生の方向感の喪失など最悪の時期であった。海は3キロメートルも先にあったので自転車をこいで行った。海の上に浮かんで漂い、波のリズムに心も体も休めた。人間世界を忘れた、忘れさせてくれたのは海であった。水中眼鏡を買い、シュノーケル、ヤスを買って、サザエを採り魚を突くことを覚えた。海水が強い陽光を吸い込んでいた。海底には砂地、岩が明るく照らし出されていた。波の形が縁取られ、映し出されてきらめき、波紋を揺らめかせ、はるか遠くまで見渡せた。物音一つしない天国であった。少し先に鯛の群れが見えたが彼らはすぐに消えるから眺めるだけであった。人の体ほどの岩の陰に何かを発見した。親指ほどで紫色の貝が集められていた。すべて空の貝であった。タコの巣?だった。
息を止め、両手で海水をかいで潜った。入り口を平らで丸い石が閉ざしていた。不自然さが作為を感じさせた。タコは賢い動物であったが、警戒してドアを立てることが見破られることだとは考えが回らなかったのだ。穴の中に指を入れると、やはり柔らかいものに触れた。思い切り指を突っ込み、タコを掴んで引っ張り出そうとしたが、岩に張り付いて離れない。息が苦しくなり、海面に戻って息を吸い、次の攻撃に備えた。首にかけていたヤスを外し、手に握って構え、潜った。穴を数度、突いた。黒い墨があがった。タコを突いたのだ。手を穴に入れ、張り付いていたタコを引き離した。片腕の半分もあるタコが姿を現し、八本の脚を腕に絡みつかせたが、力を弱めていった。帰宅すると、軽く湯通しして、刺身にして食べた。
あの夏の日が来年も来るであろう。
心の隅で祈っている。
自宅前の川辺に立っていた。幅十メートルほどの川は岸辺が干上がり、明るい陽が射していた。黄色っぽい縞模様の野良猫が十匹ほども寝そべり、あるいは死んだように横たわっているのが見えた。捨てられたのであろう。いずれも毛が濡れていて、体に波を立たせていた。珍しい光景だった。写真に撮ろうと考え、そばの自宅にカメラを取りに戻ることを考えた。
大きな工場の中であった。床は厚い鉄板がひかれていて、滑り止めの凹凸が入っていた。わたしは足に安全靴を履いている感触を覚えた。機械が無機的な表情でわたしと向き合っていて、これから彼らといっしょに仕事をしなければならないのだった。無機物の構成された世界は経験のない緊張をすでに準備していた。工場の建物は無限と言えるほど並び、鉄の壁材が波模様を打ち、抽象画のような珍しさを覚えさせた。
海岸の道を歩いていた。ここがどこなのか?地名さえわからない。経験したことのない不安であった。暖かい良い日和の日であった。自分がなぜそこにいるのかわからない。テトラポットの山に登って遊んでいる子供たちが見えた。小学校の低学年ほどの歳の男だった。
(ぼくたちに聞きたいけど、ここなんと言う所?)
声を投げてみたけど誰も応えないし、顔も向けない。一人だけ怪訝な顔で笑いを向けた。
変なおじさんだな、という顔であった。
わたしは歩き始めた。道路に顔を向け、標識の地名を探したがそんなものはなく、車は普通どおりに走っている。ここがどこだかわからないのだから、自分がどこに向かって歩いているかもわからない。
駅のホームに立っていた。わずかな人の姿があったが、ホームには立て札や掲示板がなく、その駅名も前後の駅名もわからなかった。ここがどこなのか?そんなことを訊くのは自分が不審者にみられることがわかっていたので口を閉ざしていた。
電車が入って来た。わたしは習慣的に乗り込んだ。
これは一時間前にみた夢の再現です。