ブログ - 201410のエントリ
ふとしたきっかけでカラオケ教室に通い始め、3ヶ月ほどになりますが新しい発見が出来て嬉しい毎日です。自分への発見であり、人間および日本文化への発見でもあり、それらへの好奇心にも燃えてきました。教室の先生は60過ぎの男性で、生徒はわたしをのぞいてすべて女性です。12人いますが、ほぼ全員が65歳以上の方で、声も若々しく張り切っています。
女歌一本にしぼったため、わたしは女歌ばかり歌っています。最初は高い声が出るかと心配でしたが、もともと声が高いので大丈夫でした。(郡上八幡おんな街)が課題曲ですが、その歌にすっかり嵌っています。皆からも上手だとほめられ、自分が女役をやっているようなすごく良い気分で歌っています。もともと女っ気がありました。小学校に入る前、母の箪笥の引き出しをかき回して口紅を見つけ、自分の唇に塗って鏡を見、うっとりしていたこともありました。高校時代は(女)と冗談まじりに言われたこともありました。なんとか男役をこの歳までやってきましたが、わたしは(両性愛者)ではないかと思います。
歌う、ということは歌を声で造ることだ、ということがわかってきました。日本舞踊のように指をしなやかに空に伸ばしたり引っ込めたり捻ったりして、心を現し訴える、それを声で伝える、そんなことがわかり、マイクに向かって声で芸をつくることが楽しくなってきました。プロが歌ってるような高みまでいくかもしれませんが、自分独自の歌い方を発見したくなりました。
わたしは郡上踊りで知り合った男と恋愛をし、三日三晩よりそっているわけですが、母を捨ててまで彼といっしょにはなれない、そんな刹那さと迷いを歌っています。その女になりきり、切ない声で嘆き悲しむのです。なんと古臭い歌だと感じましたが、その主人公の世界にどっぷり浸ることがすごく官能的であり陶酔するのです。恋愛状態です。
女歌を歌っているとすっかり自分を忘れることが出来ます。男から女への変身ですから180度の転換です。(好きな気持ちは もう戻せない 迷う思いを 叱るよに)などと男への愛を歌うわけですが、その至福の気分は男とか女とか関係なく、(愛)そのものなのです。それは(愛することは愛されること)であり、心をこめて愛を歌うことが反作用を起こして愛されるベクトルを持つのです。そんなことに気づきました。
一週間前、部屋に戻ると不思議な光景に気づいた。女郎雲が肘掛座椅子のそばに巣を張り、わたしを迎えてくれたのである。わたしの屋敷は広いので蚊が多く、部屋には網戸を張っているのだが、出入りするたびにたくさんの蚊がわたしを追いかけてきて部屋の中に入り、結局は住み込んでしまうのもいる。布団の中で寝入る時間になると忍び寄り、食事(血を吸う)をする。
それを知って蜘蛛は巣を張ったのだ。その研究心に脱帽したい。
部屋の隅っこに蜘蛛が巣を張るのは珍しくないが、部屋の真ん中ほどしかもわたしがいつも体を横たえる位置に住みかを構え生活をするとは?と、おどろいた。肘掛座椅子は20年近くも愛用しているもので、体を休めたり、本を読んだり、テレビをみたり、考え事をしたりして、わたしの生活の中心的存在である。それを知っての上の作戦だ。
女郎蜘蛛は小さかったので子供かと考えていたら、オスであった。メスの三分の一くらいの大きさしかなく、体も模様もすごく貧弱であった。糸の張り方に興味があって、最初の縦糸、横糸はどうやって張るのか疑問であった。ネットで調べてみると横糸は風に流されと時に引っ張っていき張る、と書いてあったが、それだと風の無いところでは張れないということになる。暑い時などは網戸を閉めているだけなので風は入りやすい。
2,3日、巣の様子を見たが、獲物は一匹もかかっていなかった。女郎蜘蛛は網の端っこでじっとしてるだけでわたしを見ることもないし、置物の一つみたいなものであった。
わたしは蜘蛛のことも忘れかけていた。ある日、蜘蛛の姿が忽然と消えていた。網の跡も一本も残っていなかった。蜘蛛がいなかった状態に戻った。網はどうしたのだろう?と考えていると思いついた。糸を自分で食べて腹の中に戻し、たぶん一時間はかかったであろうが、新しい生活拠点に行った。そこでまた口から吐き出して網を張っていくのである。
なんとも言えない生物の本能である。人間以上に研究熱心でつつましく、生活を大事にしている。一寸の虫にも五分の魂、とはよく言ったものだ。
そうだ!とわたしは思い返した。あの日、蚊が執拗にわたしを襲ってくるので蚊取り線香をたいたことがあった。それを嫌がって蜘蛛は出て行ったのだ。蜘蛛に悪いことをしたと思った。
中学・高校生の頃から人生について、はっきりした答えを求めていた。自分の将来に不安が多く、自信がなく、社会が恐かった。こんな自分が生きていく場所ははあるのかと悩んでいた。小説を読み漁り主人公の生き方を考え、高校の(倫理・社会)の教科書で哲学者の思想を読んだりした。薄ぼんやりとだがどんな人生になっても同じである、優秀であろうが劣等であろうがそんなことには関係なくけっきょくは同じではないかと考えていた。悲観的な意味ではなくニヒリズムでもなかった。方程式のように楽しいこと、苦しいこと、良いこと、悪いことなどが複雑にたくさんあっても加算していけば結果はOではないかと考えていたのだ。ゼロサムの考えのあることを知り、自分の考えていたのはそれだなと理解した。
美味しさの世界のことを解き明かしてみよう。前のブログで(空腹は最大の味覚をつくる)と書いているがそれと同じことです。空腹の度数を10とし、現在?5でる場合食べて満腹感が広まっていけば美味しさ度数は+5になるのです。ところが+?すると0です。?3である場合+3であり、+?は0です。寒さ、暑さ、心地よい適温など人生における満足度・幸福感は行き着くところは0でそれを複雑に煩雑に繰り返してるだけです。地球上に北極や南極があるように一生、寒さに震える人、暑さに苦しむ人がいるでしょうが少しずつ慣れ、0に近づいていきます。その意味で人人の人生は平等なのです。
人生は自由でどんな生き方をしてもどんな環境にある人でもトータルすれば同じだからどんな生き方もゆるされるし可能なのです。このように考えればどんな場合にも苦しむことはありませんし、苦しみは楽しみの肥料なのです。楽は苦の種、苦は楽の種、ともいうように(良いも悪いも)実は無くそれの場の感情に振り回されているだけなのです。
67歳の今、わたしはこの考えを真実だと受け止めます。
ゼロ(0)の発見とはそのことではないでしょうか?
今月にまた三人の大臣が(不適切な支出)により、進退問題に発展しそうである。小渕桂経済産業大臣、松島法務大臣、江渡防衛大臣である。テレビの前で号泣した議員やその他にもたくさんのキャンダルがあり、マスコミは事件に真剣に向き合う(手間)が省けて助かっている。不正行為を助長するマスコミにも原因がある。他の国では働きながら交通費程度の支給で政治活動をしているところもあり、それを紙面に出したりはしない。政権は身内に甘いから(不適切な支出)が出来ないようにはしない。
(金で議員になり金で議員をやめる)わけだからある意味でなるべくしてなったのである。わたしは岡垣町議会とは住民投票や傍聴をとおして、大いに勉強させららた。国は地方を元気にしよう、地方分権などと口先では言いながら、その気は無い。補助金を与えて支配する構造をつづけるつもりである。地方の政治は政権の縮図でもある。岡垣町町会議員の選挙は来年にあるが、一人欠員、新人一人立候補だから無投票になるであろう。議案は町長と各課の課長がつくり、7対4で可決される構造は変わらず何でも通る独裁体制がつづくであろう。議員は議会において議案の(説明)をきいていて議論はしないので、町会議員は要らないのである。町民が要望提出する方法は請願、陳情などあるがこれも事前に町で審査をうけ、跳ねられる可能性がある。
国も地方も徳川幕藩体制から少しも進化せず、生活困窮者には生活保護を与えて一揆、反乱を事前に抑えている。この国は変わらないし、国民も(観客席で騒ぐ)だけで変える気はない。この流れはつづき、変わる時は金融パニックか国家消滅のような地震の時であろう。
ラーメンの美味しい季節になりましたが、美味しいラーメンを作ってくれる店は少なくなりました。学生時代にラーメン屋でバイトをしたことがあるのでその経験をもとに自分でつくっています。知人に食べてもらってもすごく評判が良いのでここで紹介します。
・麺は太いのにします。札幌ラーメン風のものです。
・スープは鶏がらにして、国産のものを選びます。水は水道水(カルキ水)ではなく、天然水のし ます。タマネギを半分に切り、鍋の水が沸騰したら鶏がら、タマネギをいれ、約三十分くらい弱火にして出汁をとります。タマネギをハシでさして軽く通るくらいが良いのです。
・別の鍋にお湯を沸騰させておきます。
ドンブリに醤油をオオサジに二杯くらい、ニンニクのすったもの、味の素を入れておきます。鍋のお湯を沸騰させて麺をいれ、湯がきます。ハシで摘んですぐに切れるくらいの柔らかさにします。ドンブリに出汁を入れ、柔らかくなった麺の水切りをしてドンブリの中に入れます。軽く湯がき硬さの残るモヤシ、海苔、ゆで卵、焼き豚を上にのせ、洋コショウをかけて出来上がりです。熱い出汁の中に麺を入れるタイミングが難しいですが、慣れれば出来るようになります。味噌ラーメンを食べたければ味噌を入れてとけば良いし、残った出汁はおでんにも使えます。
なぜ俺を産んだか?
この言葉を長男にわたしが突きつけられたのは彼が高校生の時だった。わたしは絶句したが、なぜお前みたいなのが産まれてきたんだ!と腹立たしく怒鳴り返した。週に2、3度は遅刻し、農作業も手伝わず、ゲームばかりし、自分の名前が悪いから失敗ばかるすると親のせいにしたりして(不肖の息子)であった。わたしも父に(不肖の息子)と言われ、(なぜ俺を産んだか?)と心の中で言っていた。これはある意味で親と子の永遠のテーマである。フランケンションタインの映画の中でさえ、(愛なくしてなぜ俺を造ったのか?)と問い詰める場面が出てくる。幸福いっぱいの人であれば、わたしを産んでくれてありがとう!と言うのだが逆に反乱を起こす親子だったある。
今の歳になってこの疑問への視界が開けてきた。
数億個の精子が一つの卵細胞に向かってぶつかり、その中の一個の精子だけが卵子の中にはいり、受精してDNAの組み合わせが始まるわけだが、その前にこの男女のカップルの結びつきの因果関係を考えねばならない。それはちがうテーマの時に書いてみよう。数億個の精子、ということは数億種類のDNAを持っているということである。それは誰が造りその配分は誰がどのようにするのであろうか?わたしの弱い頭脳では力になりえないものだが、(その配分)の部分にスポットをあててみよう。人間の体、顔つき、性格、感性などすべては何かの力によって配分されるのだから、子が親を選ぶことも親が子を選ぶことも自分の人生を選ぶこともできない。ただ一番強い精子が受精されることはまちがいない。一番強いのであれば、同時になぜ一番優秀な、という条件がつかないのであろうか?その条件がつけば息子もわたしも、なぜ俺を産んだか?などと非難し悩むこともなかったのだ。
重度の障害者は流産になって世の中には出てこないようになっている。頭が良い悪い、健常者、障害者、イケメン、ブス、温和な性格、粗暴な性格など多様な人間を創造主はDNAで配分し世の中に送り出している。それはなぜなのだろうか?多種類、多様性の必要性があるからである。人間のフィルターにかかったそれらの種類は相手に存在感、自分に存在感をつくるために必要なのである。この世の人間がすべて美男美女であればイケメンやブスという言葉さえ消えてしまう。手ごわいウイルスが発生して一種類が消滅してももう一種類は生き残るし、社会制度や政治、思想、集団においても一つがつぶれても他方は残るのである。
その意味でこの世に不要な人間も動植物も存在はしない。あなたもわたしも息子も必要性があってこの世に生まれてきたのであり、これは真実である。
俺の中のお前に
1 お前が愛したのは俺じゃなかった
俺の中のお前だったのさ
鍵と鍵穴の世界に酔い
マジックミラーを鏡と信じ
見つめあい抱き合い
夢中になったイリュージョン
2 俺が愛したのはお前ではなかった
お前の中の俺だった
それを知らずに愛を語った日々
鏡割れて虚像が落ち
本当の俺とお前が現われ
鍵は抜けてしまった
3 歳とって夢終わり
鏡のいたずらに気がついた
まだ遅くはないスロウ・ライフ
俺とお前の本当の顔を探そう
街中歩けば行きかう人波
顔と背中にちがう幻影が棲んでいる
わたしの心の中にはいつも舞台が用意されている。スポット・ライトを浴びて、青春時代の歌手がいつでも自分が欲する時に立ってくれる。アンディ・ウイリアムス、エンゲルベルト・フンパーディンク、フランク・シナトラ、マット・モンロー、村田英雄、森進一、美空ひばりなど聞き覚えのある歌手が視覚・聴覚器官を通さず直接に脳で見せ聞かせてくれる。ライブ以上の臨場感に満ちている。歩きながら畑を耕しながらショッピングをしながらわたしはその世界に酔い、近頃では自分が舞台に立って歌っている。(郡上八幡おんな町)を歌い、わたしはその女歌を女になった気分で歌う。わたしの中の女が現われ、わたし(男)に向かってしなをつくり身をひねって歌ってくれる。まさに日本舞踊の身動きである。
この人オカシイんじゃないかしら?などと言われることをわたしは気にしない。これがわたしの姿なのだ。自分が青春時代に捨てざるをえなかった(仕事をしてメシを食うために)感性を取り返し、再現してみたい。歌謡詩や小説、評論、写真の分野で自分の感性を思想にして完成させたい。それにしても青春時代に半ば軽蔑していた歌謡曲にこれほどほれ込むとは予想もしていなかったし、(郡上八幡おんな町)なんて、聴いたはじめは安っぽいと思っていたが、今では(温故知新)ではないが、古い男女関係ながら、ただ歌い酔わされるだけである。
光は無色透明であり、物の色や形を現してくれる。?神は「光あれ」と言われた。すると光があった。?と聖書の書き出しにも書いてあるように光は至高の価値を持っている。日本には春夏秋冬があり、曇り、雨、晴れ、嵐、雷と色合いがあるように人間の感情と同じ移り変わりがある。わたしは自分も含めて感情というものその移り変わりを不思議なものだと思う。喜んだり悲しんだりソウになったりウツになったり感情の変わらない時はなく、変わらなくなるのは死んだ時くらいであろう。
集金の仕事である家を訪れ、定年退職をして庭の選定をしていた主人にうらやましさを覚え,俺もあんな身分になりたいと考えていた。彼はわたしに向かって、あなたがうらやましいと言った。自分はゲートボールなどして一日をつぶすのが大変だ言い、わたしはおどろかされたことがある。
主人もわたしもその務めをしていただけでそれは光と同じで思考、感情とはちがう世界に属していたのである。それを(心)という摩訶不思議なものを生まれて与えられていて、それを通したために色が発されてしまった。心はプリズムなのである。本来は無償透明な光にすぎないものを分析し七色の色をつけてしまう。赤、青、緑、ピンク、黒、紫などと色彩をつけて、人間はそれによって笑ったり泣いたり喜んだり怒ったりしながら生き、一生を終える。これが人の(生)というものであろう。
昼は涼しくなりましたが、夜は寒いくらいです。毛布に掛け布団がいるようになりました。コオロギの鳴き音も減り、庭も静かになりました。春野菜の種をまく時期です。大根、ニンジン、ホウレンソウ、ネギ、ニラ、タカナ、チンゲンサイ、野沢菜、小松菜などたくさんありますが、ゴボウだけは11月まで待とうと思います。非常に芽が出にくいし、虫に食われやすいからです。
畑全体に石灰、鶏糞をまき、ミツグワで浅く耕し、先ほどの肥料を土に混ぜます。次にクワで土に筋をつけていきます。野菜の種をまき、土を被せます。水をかけます。芽が出て3センチくらいになったら間引きをします。雑草は抜き取らず、根から上の部分だけをクワで刈り取り、そのままにしておくと肥料になり水分の保持もしてくれます。雑草の種は土の中に無限に入っているので絶やそうとは考えないことです。生えてくればクワで刈り取り、根を残しておけば水分を保持し土を耕してくれます。