ブログ - 20150725のエントリ
幼児はうれし泣き、泣き笑いをよくする。今、泣いたカラスがもう笑うた、というように喜び、悲しみが混合した意識の発生段階がある。ここで社会の意識の構造を知った父親・母親はうれしい時には喜び、悲しい時には泣くという儀式を教え込んでいく。幼児はそのことを学び、模倣しながら発達していくのである。大人になると儀式をきちんと覚えていてそこから外れることはないが、時々、泣き笑いやうれし泣きをすることがある。悲しみやうれしさなどとは関係なく、感動すると涙が出るのである。決して恥ずかしいことでも場違いなことでもない。感動や感激が良い刺激を与え、生命を活性化するのだ。わたしは感情の起伏が激しく、情緒障害と言われたことがあったが、感情の起伏の激しさを大事にしたい。
意識は回路を持った構造、一つの機械である。うれしい時に泣く回路に入ろうとすると停止し、笑う回路に入るのである。その習慣を植え付けられたに過ぎない。金を無くしたり、失恋したりした時には悲しまなければならないし、死にそうになったら悲しまなければならない。決して、喜んではいけないのですが、このように考えるとこの世の仕組みや構造というのは逆に不思議なものだ、と言いたくなる。
大学時代に丸山真男氏の(現代政治の思想と行動)を読み、非常に感動した。政治や社会の構造そのものに問題提起をし、ホームレス、刑務所、家庭、政治、暴力団組織などすべてが同じ構造を持っていると彼は書いていて、あれは構造主義に基づいていたと判断する。昨日、福岡教育大学の公開講座で基礎物理学を受けた後、岡本良治氏の(核・放射線と環境)というテーマの講演を聞いた。彼は反骨精神が強く、原発には最初から危険であるということで反対をし、警告を出した翌日に東北大震災が起こってしまった、と言う。わたしは最後まで講演を聞いて、質問もしたかったがカラオケ教室の予定があり、途中で退席した。
質問をしたとすれば、一億総無責任という言葉を出したはずである。政府のどの部署の誰が原発稼動の許可をしたのか?原発専門家の誰が賛成をしたのか?なぜ、一人ずつ調べ上げて、業務上過失致死罪、未必の故意による殺人で訴えないのか?提訴が無理であればせめて模擬裁判でも開かないのか?学会を追放されない学者が何故、いるのか?東芝の損失隠し事件でも誰がやったか?どんな責任をとるのかはっきりさせていない。役員の入れ替えですむことではない。構造が残っている限り、また、同じことが起こる。太平洋戦争の極東軍事裁判でも戦争を起こした構造そのものははっきりせず、終わっている。政府は原発再稼動を始めたが、東北大震災の教訓は読み取れない。地震が起こったから、想定外とでも言いたいのであろうか?