ブログ - 20150718のエントリ
この内容は人権上の問題をはらんでいますが、人権の領域から離れた視点で書きます。(図解雑学 構造主義)という本にまったく同じことが書いてあるのでわたしのオリジナル視点ではありませんが、わたしがうすうす感じていたことだったのです。秩序が時代や国、生命体、無機物を問わず普遍のものであればイジメはどの世界にもあり、隠れている場合もありますが、生け贄が普遍的に存在します。週刊誌が好材料とする有名人のスキャンダルが良い例で、読者はコロシアム(ローマ時代の闘技場)で行われる殺し合いのような血祭りを快感を抱いて観るのです。そこで自分達の安全圏を確信し、安心して生活をし働くのです。血祭りは残酷なほど興奮を呼び起こし、観客にエネルギーを与えます。イジメられている者を助けよう、イジメはいけないなどという作用は起こらず、傍観しながら自分はイジメラれる側ではないことを知ってイジメル側について安心するのです。ですから定期的に血祭りはイベントのように発生し、止めることは出来ません。イジメラれる側の対抗策としては(イジメられることがどんなに苦しいことかはじゅうぶんにわかっていますが)被虐を受けた日にちや内容を記録して裁判で多額の金をとってやること、あるいは大声を出してイジメられてる実態を暴露するかでしようが、イジメる側は巧妙ですから、ふざけてた、冗談半分など言い訳を準備していますから、簡単に片付かない場合があります。同時にイジメテるという自覚がないのですから始末が悪いのです。