ブログ - 20150717のエントリ
この一年ほどこの町から外に出ていない。電車に乗っていない。お金がないこともあるが、目を覚ませば前の畑に草が生え、キュウリやカボチャが顔を出してるのを見ればその日の仕事が自然に決まってくる。草を刈り、肥料をやり、食材の買出しに出かけ、カラオケ教室、英会話教室、パソコン教室、公開講座などに参加していれば一日が終わる。その生活スタイルにはある程度変化があり、異なる人と出会ったりするからエネルギーも沸くがそれがなくなればわたしのエネルギーは減っていき、死を待つだけである。
流産について考えてみた。先天性異常の原因が70%を占めるとネットに載っていたし、自然淘汰であるともあった。そのことは一応知っていたが、では誰が流産の指示を出しているのかは疑問である。神を仮定するしかないが、ではなぜ100%ではないのか?障害を持つものをなぜ、世に送り出すのか?
(差異)が必要なのだ。他者との違いは刺激とエネルギーを生み、両者に存在感を与えるのだ。多様性、多種、落差を神は活性化の源と神は考えているのだ。
男には女の下着に関心を持ち性的興奮をする者が多いが、女にはいない。この不思議な現象をわたしは長い間、考えてきた。女のパンティやブラジャーは色も形も多種多様でその女の個性を想像させるが、男のパンツはみな同じようなものばかりだから個性をとらえられないということを以前のブログに書いたが重要なことを忘れていた。想像力の男女のちがい、ということである。芸術家はほとんど男である。女は家庭を守り・子育てをするという役割分担が昔からあって、芸術分野には進みにくかったことはじゅうぶんにわかるがそれにしても世界を見渡しても歪な現象が出ている。女の画家はいますか?女の作曲家はいますか?女の作詞家はいますか?女の料理人はいますか?これらの分野で頭に思い浮かぶ女が一人もいない、あるいは一人か二人ということはどういうことなのだろうか?
それはフェティシズム、想像力のちがいなのだ。決して劣っていると言ってるのではありません。想像力は無限に広がり、現実・実物以上の魅力を持っているのです。恋する女の下着は実物以上に想像力を喚起し、興奮させるのです。芸術は想像力が源です。女の小説家、映画監督などはいますが、画家、作曲家,作詞家、シェフにおいて皆無だと言う事実は非常に不思議です。