ブログ - 201508のエントリ
安保法案の反対デモが各地で起こり、世界のニュースが報じている。日本の若者が自己主張をはじめたということでわたしは歓迎するが、では日本の軍備はどうするのか?と言う議論は少ない。従来のように米軍に守ってもらえば良いのか?ということになれば、戦争そのものが反対だと応えるであろう。
人殺しは楽しくなり、戦争も始まると意気高揚して、どこで何百人殺しただのとニュースに出てくると、まさにオリンピックのような興奮が生じてくる。太平洋戦争時の新聞を読んでみればよくわかるし、ほとんどの人間が巻き込まれてしまう。スポーツとは戦争や闘いをルール化したものだ。人間は自己保存のためにも戦うように作られており、闘争本能だって持っている。だから戦争はなくならないし、スポーツもビジネスになって繁盛している。
(正しい戦争)というものがあるとすればスポーツのようにルール化すれば良いだろうがそうはいかない。闘争行為は複雑であり、生命体の宿命として捉えるしかない。構えと備えを持っておくしかない。侵略なのか自衛なのか、もっと厳密に峻別しなければならない。相手国の日本人や会社、旅行者などの救出という行為は侵略であり、自国に他国軍が入ってきたり砲弾を撃つたりした場合に攻撃するのは自衛であるが、どちらとも判断できにくい場合がある。イジメと同じように、冗談だったのよふざけていたのよ、よいう言い訳や状況があるから、過去の戦争体験を厳密に検証しなければならない。太平洋戦争で中国や東南アジア国に入り戦争をしたのは侵略であったと認めなければならない。
光と影はもともと同一であった物を違う物のように現してしまう。光は明るく影は暗い。
ところが光がなければ影はないし、影がなければ光もない。表と裏、男と女、善と悪、健康と病気、戦争と平和、金持ちと貧乏人などすべてものは二項対立として人間はとらえる。がん細胞だって以前は正常細胞だったものが変異したにすぎない。可逆性があり、どちらへも変異することが出来る。いつまでも光でありつづけることは出来ないし、影でありつあり続けることも出来ない。女は男の子を産み、男に変異する。男の染色体は女になることもできる。
一方であることは他方を内在させ、他方に存在感を持たせ、両者を重なり合わせている。分離は出来ない。楽は苦の種、苦は楽の種、と言う。どちらが良いということでもないのである。だが人間は、病気は悪く、健康は良い、貧乏は悪くて金持ちは良いなどと植えつけられてしまった。植えつけられてしまったのだ。実は単なる現象に過ぎないのである。
昨日は、楽しい思いをした。関東と大阪から四人の親戚がお盆参りに来てくれたのだ。母の妹、母の弟の妻、その二人の息子で、わたしの車に乗せて叔母の実家や夫の墓参り、相続した土地の現状確認などしながら、神湊のレストランで刺身料理を食べた。
わたしーあなたが自分の結婚式の時にバンド演奏したけど、ベンチャーズだったかな?
従兄弟・兄ーローリング・ストーンズだった。
わたしーああ、そうだったか。 わたしはすっかり忘れていた。
従兄弟・弟ー今日見た時、あなたがまったく別人に見えた。
わたしーそうだろうなあ。体重は10キロ落したし、白髪だらけの頭になってしまった。
叔母ーあなたを遠くから見たら、お父さんにそっくりだから驚いたわ。
わたしー親父の顔は卵型で俺の顔は大きいからぜんぜん違うと思っていたけど。
叔母ー歳とったら父親に似るっていうけどその通りだわね。
叔母ー幼い時に日露戦争の歌を歌ったわ。負けて逃げるはロシア兵、死ぬまで戦うは日本兵なんて。
叔父の妻ーそんな歌を歌いながらお手玉をしたわ。五つのお手玉をそれぞれ片手で持ち上げて回すのよ。
わたしーお手玉は知ってるけど5個も!
私たちは東郷神社にいた。日露戦争でロシアのバルチック艦隊をやぶった東郷元帥が祭ってある。高台にあり、海に面しているせいか、涼しくて盛夏とは思えなかった。
自宅に招いて、母の仏壇を拝んでもらい、お茶やコーヒーを飲みながら、母の思い出などを話し、梅干や梅の酢づけを土産に差し上げた。
こんな小さな出来事が、昔の自分に出会ったような気分になるなんて初めてわかった。