ブログ - 201507のエントリ
69歳(現時点)の女が6人の男を毒殺した事件は今でも時々、世間話に出る。一人暮らしの老人と結婚し、殺して遺産を相続した。先物取引で失敗して金が必要になったと容疑者は言っている。なぜそんなことをしたのか、そんなことが出来たのか?と人人は不思議に思い、わたしも一時的にそんな疑問を持ったが、今では容疑者の心理を分析出来る。
秩序の裏の世界に入り、あまりに強い充足感から抜け出せなくなったのだ。秩序の表の世界は真面目に働き、子供を育て、年金をもらって老後を過ごし、時には旅行もするという図式である。秩序の裏の世界はスリルと快感に満ち、引き返すことの出来ない世界なのだ。寂しいエロ爺(もしかすると私かもしれない)を探し、年金や貯金の額、子供がいるかどうかを聞き出す。十分に採算がとれ、事業化できると読めば着手する。セックスの餌を与えて結婚に踏み切り、入籍する。バイクに乗る男か車を運転するのか知り、バイクで長時間出かけるとわかった時、青酸カリの入ったご飯を食べさせる。容疑者の最初の事業が見事に成功し、爺さんはバイクを運転中に転倒し死んだ。多額の遺産を相続した。次は二番目の事業の開始である。色仕掛けで誘惑し、入籍するのは難しくないが、完全に死なせるはかなり難しい。単独で計画を立てる個人事業主だから難しいほどやりがいがある。爺さんといっしょにご飯を食べ、布団の中で抱き合ったりしながら頭の中は事業成功のことばかりである。爺さんの体がユキチに見えてくる。三千万円か?五千万円か?新たな財産が見つかった時の例えようもない楽しさ!ハイキングが好きな男だからいっしょに上って山から突き落とす。勝手に落ちて死んだ、ということでも世間は通る。
このようにして彼女は秩序の裏に入り込んでしまった。そこは競争相手も少ないからトンでもない利益を生み、誰も疑いはしない。秩序の裏と表はぴったり重なり一枚のコインになる。
(わたしは人殺しと金がたっぷり手に入ることが楽しくなってそこから抜け出せなくなったのです)
そんなことは裁判の場では絶対に言いません。青酸カリの入手経路も絶対に話しません。
わたしはこのブログに200件に近い項目を書いていますが、ほとんどが聞きかじりやマスコミ、情報界からヒントを得たものです。専門的に学び、知識を得たものではありません。専門家が書けばわたしの手の届かない世界のことまで披露してくれるでしょうし、わたしが及ぶはずはありません。ところが専門家は自分の分野のことしか知らないし、それを他分野まで広げようとはしません。物理学者が政治の流れや政治の世界、戦争が何故起こるかなどというテーマに物理学的に取り組んでも良いはずではないですか?なぜでしょうか?マスコミも一つの事件や現象に他分野の人に考察してもらっても良い筈です。
そこで、雑学サーファーという言葉を思いついたのです。分野ごとの垣根なんていっさい持っていませんし、無名ですから評判が落ちたなどという心配もありません。ある人が言いました。あんたみたいにあれだけ書きたい放題のことを書いていたら、中国だったら銃殺刑になっとるよ。わたしはその言葉に少し驚き、政治の分野でも過激過ぎるのではないか、このHPにもっと人気がでればやばいのではないか、と考えたりしたこともありましたが、死ぬのを待ってるような生活なので暗殺、銃殺など大歓迎と考え直しました。雑学者はたくさんいるし、雑学だから幅広い視点で物事が見えますから、そのうちトンでもないことを考え出す可能性があります。
昨日にうけた基礎物理学で、新しい発見をした。衆知のことであったかもしれないが私にとっては再確認人であり発見であった。物質は粒であるが波動性を持っているというのがその内容であった。光が粒であり波でもあるということは知っていたが物質もそうであり、そのことがテキストにまで掲載されていることは知らなかった。
その事実を現実の人間世界に適用してみると納得できることが多い。例えば人混みの中でぽつんと立っていて、何かを感じて目を向けるとそこに友達が偶然立っていたとか、ある人がわたしの隣に座っていた人にある人が笑顔を向けると自分のも向けられた気がしてうれしくなったとか、一人が騒ぎ出すと周りの者も騒ぎ出すとか、一般的に言う(共感)(シンクロナイズー同期)という現象である。人間も物質であるから粒であり波動をもっており、その波動が相手に向かいあるいはその周辺、全体に(波及効果)を与えるのである。この原理が適用されれば幽霊の正体、幻覚、妄想など謎めいた世界も波動理論で解析でき、方程式もできるであろうし、人間世界の虚偽、詭弁など混乱を招く言動も見破ることが出来るようになると思う。
日本人が全面的に死を否定するようになったのは太平洋戦争で全面敗北したからである。特攻隊だとか玉砕だとか今のイスラム国みたいに死を美化し礼賛した。その反動が今にまで尾をひいているが憲法9条の改正で戦争を認めるようになればいつか来た道に戻ることになる。 わたしは68歳になり、この日記に書いているような生活をしているが、安楽死を望んでいる。それは決して悲観的な理由からではなく、もうやりたいことはやり終えたから、一度後ご破算にしたいという理由である。ところが病気を治して生きさせる病院はあっても死なせてくれるところがないのである。年間3万人が自殺してるということは不審死を含めると数倍の数であろう。電車に飛び込んだり首吊りをしたりして無理な死に方はしたくない。薬でも良いからそれを飲めば安楽死出来るものがあって、仮に売り出されたとすれば売れ行きは良いはずである。死んでしまえば搾取の対象が減るかもしれないが新しい産業として伸び、世界を視野に入れることも出来るはずである。そんな日が来るかどうかはわからないが、黙って待ち望んでいる人は多いはずである。(楢山節考)の作品ではないが、特別養護老人ホームが安楽死施設に変わる日がくるであろう。生きる権利があるのなら死ぬ権利もあるはずである。
地球の中は溶けた鉄が満ちている。それが磁性を帯び、地球自体が磁石になっている。北極、南極の双方が磁力線を流し合っているから、地球上のすべてのモノが磁力を持ち、引力を持っている。見知らぬ人間どうしでも会えば目を向け、相手や車や建物などに目を向ける。男と女が引き付けあい、凸が凹の中に引力の作用で入り、摩擦しあって+?の電荷を生み、起電する。摩擦を続け、電圧が上がってロケットになって宇宙へ飛んでいく。
万有引力は、すべての時代、すべての人種、すべての動植物に適用でき、誰もどんなモノも否定できないし、その作用から逃れることは出来ない。これこそ真理であり、神の方程式である。人人よ!寄り集まれ、おしゃべりをし、歌を歌い、酒を酌み交わし、楽しくやって行こうではないか!と、この真理は言い、それが宗教やベートーベンの第九などの世界に敷衍されている。
二日間、寝込んだ。息が苦しくて、出来ない。必死で空気を吸い込みながら、誰かが、か細い声で泣いている。何度もしつこく呻いている、女みたいに。誰だ?
お前だ。俺じゃないか。俺の喉がヒーヒー泣いているのだ、俺は悲しくもないのに。布団が死を許された場所に変わっただけなのに、三年前のバイパス手術をした病院のベットのように。妻はいないし、二人の息子は家をでたまま音信不通。喘息だとわかったがそれにしては食欲も絶え、額に手を当てると微熱が感じられる。倦怠感が酷い。心臓に異常がくれば心不全を起こす。一週間ほど、草刈機で屋敷の中の草を刈った。ヤブガラシが歯に巻きついて何度も振り払った。土地は700坪もある。体調が良かったので、いつもの山道を二回(一回に付き1時間半)散歩した。汗まみれになり、帰宅したら扇風機の冷風を浴びた。
昼食、夕食が食べれられず、肺炎に進んでいるのでは?と思い、病院にいくことを考えた。いつもの通院先にするのか、入院を予定したほうがいいのか?喘息の吸引器を買ってみようかと迷った。
二日目の夕ご飯から食べれるようになった。
布団の中で寝てるのが心地良かった。笑いながら死ねればそれは最高の死に方だ。肺炎を起こして死ぬ。心不全を起こして死ぬ。死ぬことの楽しさを考えていた。最後に笑う者が勝ちなのだ。明け方、出入り口の窓辺に目を向けると女が立っていた。ドテラのような厚い着物を着て、黒い横向きの姿で後頭部をマゲで結わえ、その形がはっきり見える。体を曲げているが何をしてるのかわからない。あれはポール型の洋服掛けにかかけた自分の何枚もの作業服ではなかったか?姿は顔を見せず、少し、左右に体が揺れている。以前にもあった、半覚醒状態の時によく経験したことだが、出入り口の所で子供の声がしている。何人もの男の子だった。こんな時間にどうして知らない子供がいるのだろう?なにかおかしい。どこか変だ。おれの感覚・意識ははっきりしているのに。子供たちはいつの間にか部屋に上がりこみ、わたしの足元に居た。そして、わたしの右指が握られた。感触まではっきりした。
はっきりと目覚め、独りの俺が布団に寝ていた。
食パン一切れ、豚カツを食べ、コーヒーを飲んだ。9時半に情報プラザに行き、パソコン教室でスライド・ショーを学んだ。
昼食を取り、夕方まで肘掛座椅子で休み、(黄昏ララバイ)を聴き、小声で歌う。畑に出て、ヤブガラシの刈り跡を見る。少し刈り残しがあった。
三本のキュウリの蔓が延び、万歳をしている。二本は竹の杖に巻きついているが、一本は空に伸びている。
さっき俺の手を布団の中で握ったのはお前だったのだな?
そんなことを考えて、自分の顔に笑顔が出たのがわかった。
秩序とは国家・社会体制・家族制度・人間関係・動植物、岩石などすべてにあり、モノはそれらを組成している人間、動植物、岩石などすべてである。私の人生は人間社会の秩序に照らしてみれば社会的落伍者に近く、親戚の者たちからは、NHKの集金なんで人に嫌われる仕事をなぜするのか?家系の恥だ!と言われた。おまえに飯を食わせてもらってるわけやないからそんなことを言われる筋合いはない!と今でも怒鳴り返してやりたいが奴らは死んでもうこの世にはいない。
わたしが何故、秩序にこだわるかというとわたしが秩序によってつくられたからだ。こんな俺をつくった秩序のほうにこそ問題があると信じている。社会から外れた人たちは自分の不幸にとらわれるだけではなく秩序の効能をもう一度考え直してみるべきである。わたしは若い頃は無政府主義など、秩序のない制度を夢みたがそれは空想に過ぎなかったことが今はわかる。秩序を持たないものは存在しない。
一つ前のブログに書いているように多様性を持つ秩序に国家体制も含めてすべての分野を変えるべきである。
大学の公開講座に通っているが、考えさせられることがある。クラスでは19歳の学生と五人ほどの老人が混じり、講義を受けている。学生達は黙って聞いているだけであるが、老人たちはよく質問をするので授業に活気が出てくる。社会経験をとおしての質問だから的をえていて面白い。
わたしはもう一度中学、高校の数学や化学を勉強してみたいと思うのだが、それが出来ない。何故なのか?教育制度にそんなシステムがないからである。社会人がもう一度中学、高校に通ったとしてもなんら害はないはずである。逆に中学、高校生たちに社会経験を教えて、教える方も教えられる方も良いことだと考えるのだが。大学を出て公務員試験に合格し、社会経験のない役人たちにそんな発想は浮かばないのである。(異能ベーション)などという言葉を持ち出している文部科学省は口先だけの業務に励むより、現実・現場の中に活路を見出すべきである。これが多様性である。