ブログ - 20141013のエントリ
なぜ俺を産んだか?
この言葉を長男にわたしが突きつけられたのは彼が高校生の時だった。わたしは絶句したが、なぜお前みたいなのが産まれてきたんだ!と腹立たしく怒鳴り返した。週に2、3度は遅刻し、農作業も手伝わず、ゲームばかりし、自分の名前が悪いから失敗ばかるすると親のせいにしたりして(不肖の息子)であった。わたしも父に(不肖の息子)と言われ、(なぜ俺を産んだか?)と心の中で言っていた。これはある意味で親と子の永遠のテーマである。フランケンションタインの映画の中でさえ、(愛なくしてなぜ俺を造ったのか?)と問い詰める場面が出てくる。幸福いっぱいの人であれば、わたしを産んでくれてありがとう!と言うのだが逆に反乱を起こす親子だったある。
今の歳になってこの疑問への視界が開けてきた。
数億個の精子が一つの卵細胞に向かってぶつかり、その中の一個の精子だけが卵子の中にはいり、受精してDNAの組み合わせが始まるわけだが、その前にこの男女のカップルの結びつきの因果関係を考えねばならない。それはちがうテーマの時に書いてみよう。数億個の精子、ということは数億種類のDNAを持っているということである。それは誰が造りその配分は誰がどのようにするのであろうか?わたしの弱い頭脳では力になりえないものだが、(その配分)の部分にスポットをあててみよう。人間の体、顔つき、性格、感性などすべては何かの力によって配分されるのだから、子が親を選ぶことも親が子を選ぶことも自分の人生を選ぶこともできない。ただ一番強い精子が受精されることはまちがいない。一番強いのであれば、同時になぜ一番優秀な、という条件がつかないのであろうか?その条件がつけば息子もわたしも、なぜ俺を産んだか?などと非難し悩むこともなかったのだ。
重度の障害者は流産になって世の中には出てこないようになっている。頭が良い悪い、健常者、障害者、イケメン、ブス、温和な性格、粗暴な性格など多様な人間を創造主はDNAで配分し世の中に送り出している。それはなぜなのだろうか?多種類、多様性の必要性があるからである。人間のフィルターにかかったそれらの種類は相手に存在感、自分に存在感をつくるために必要なのである。この世の人間がすべて美男美女であればイケメンやブスという言葉さえ消えてしまう。手ごわいウイルスが発生して一種類が消滅してももう一種類は生き残るし、社会制度や政治、思想、集団においても一つがつぶれても他方は残るのである。
その意味でこの世に不要な人間も動植物も存在はしない。あなたもわたしも息子も必要性があってこの世に生まれてきたのであり、これは真実である。