ブログ - 最新エントリー
頼んでもいないのに、陽は出て、顔を、窓辺からこっそり覗き込み、
意思はないのに目が覚め、わたしは生きていることを知る。
そろそろ、そんなかくれんぼみたいなことは止めてくれないか?
ぼくの意志でいつも訴えているのだが、何故、意志は通じないのであろうか?日常生活では意志通りに動いているのにこんなことになると、意志はどこかに逃げてしまう。
腹がへったり、美味しかったり、するのは何故なのか?生きることを命じている超自然的なものがいるからだ。信者はそれは神というが、祈りで、命令を取り消すことは出来るのだろうか?
そんな宗教があれば入ってみたい。
こんな書き出しで、小説を書いてみたい。
これはある小さな任意団体での出来事であるが、日産自動車のゴーン旧会長にもみられるような大問題になる(芽)でもある。
会計を担当していた老人が88歳になって、続けることは負担が多すぎる、ということで私が変わらせられることになった。わたしはエクセルが少しは出来るので、会計簿の仕様を計算しやすいように変えた。年間の合計だって、オートサムで一秒もかからないのに、前任者は数百枚の領収書の合計を電卓ではじいていた。2019年度の四月分から交代するということで、私は今年度分からの会費を合計して出し、繰越金の現金と照合して、変わるつもりであった。
ところが、会費は前納で払ってる人がいて、前年度の収入に入っていたのであった。自分のはじいた金額とダブってしまっていた。私も前任者もおどろき、途方にくれた。結局、私は前任者にダブった人を出納帳から探し出してくれ、自分は、支払い済み、と入力するから、と言ったが、彼は大変なことだ、と言って応じなかった。出納帳の通りに入力していけば良いじゃないか?といったが、そこは、収入、支出の区分けがしてあり、上納金や行事費などの区分けがないが、オートサムで計算が出来ないと考えた。
彼に、ある催事の助成金を支部長は出す、と言っていたので、その話をすると、そんなことはこれまでしたことがない、と言った。わたしが主宰したものであったが、数千円の赤字であったのだ。ちがう話になって、総会の食事代の領収書はどこにある?と訊くと、いつまでもごそごそ探し始めた。私は、嫌になって、帰宅した。
その話を支部長に電話すると、今度の執行委員会で、議論をしようと言う。
6人の執行委員はたぶん、賛成・反対のはっきりした返事をしないであろう。それに、前任者は私生活の金と団体の金を一緒にしていたのであった。
ここで、組織の浄化作用が問われることになる。
会計を明朗化するには発足当時にまで遡らなければならない。国をはじめ、いろんな組織・団体が不祥事や不正を繰り返すのはそこにある。結局は革命を起こし、ご破算にしないと、解決しないという、それが真理である。
ほとんどの事件は加害者側が、悪い、という視点に基づいている。確かに、その場合が多いように見受けられるが、果たしてそうであろうか?幼児虐待、セクハラ、パワハラ、暴力、殺人などは深く探っていくと加害者側の、意志を超えた衝動が浮かび上がってくる場合がある。加害者であっても社会や時代の傷を持った被害者であり、その被害の深さが加害の激しさに比例してる場合がある。そこをマスコミや裁判官は見ようとはしない。
意思を超えた衝動、魔の瞬間、というしかないものが人生には訪れ、誰もそれから逃れることは出来ない。私の人生を振り返っても思い出されることだけでも十件以上はある。かすり傷ですんだが致命傷になったかもしれず、刑務所に入るか死んでいたであろう。
加害者側も癒され、救われなければならない、これは宗教の役割になるかもしれないが、国や社会にはこの視点が必要である。人間はいつ加害者になるかわからない、不安定な不完全な存在なのである。
心臓のバイパス手術をして、6年目、健康生活を送っている。昨日は、ナスの味噌煮、を作って食べた。最高に美味しかった。どんな高級レストランにも負けない味であった。
庭の畑で作った玉ねぎ、ナス、唐辛子を材料にして、豚肉で炒めた。味噌だけを混ぜ、砂糖、醤油はいっさい、使わない。いや、要らないのである。甘味は玉ねぎが十分に出してくれるから、砂糖を入れた以上に甘かった。チップ農法で作っているから、それだけの甘みが出ており、ナスもすごく柔らかく、甘みが出ていた。
ご飯の量を半分にして、砂糖、塩はいっさい使わないので、血糖値を計ると、70の時もあり、下がり過ぎていたりする。糖尿病はすっかり治った。
多くの糖尿病患者がこんな食生活をすれば、糖尿病はこの世から消えるであろうが、外食に頼っている限り治らない。弁当屋さんもこんな料理法を考えて、弁当を作ってみてはどうだろうか?
この文章は10年ほど前に書いていて、同じことは書きたくないが、やむにやまれぬ気持ちで書いている。この十年間、わたしは本を全く買っていない。貧乏であることもあるが、買いたい本がないので、図書館で借りている。趣味で小説を書いているので、作家たちがどんな文章を書き、どんな作品を書いているか?には、大いに興味があるが、・・賞受賞作品、ベストセラーの作品など、立ち読みしてもすべて失望させられ、本当にベストセラーなのか?・・賞受賞なのか?ノーベル賞候補の作家なのか?首を傾げてしまう。
出版業界には発行部数と実売り部数の二つがある。表に出るのは発行部数だけで、本は倉庫に眠ってる場合がある。それは確かに、・・書店で何冊売れたことは事実であろうが、一般の読者が読みたいから買ったのか?あるいは出版社の取引会社が割り当てられたのか?関係を有利にするために買ったのかはわからない。ある団体が内部告発をされてそれが広がるのを防ぐために買い占めたのか?それらは表面に出ない限りわからない。
それにもう一つ不思議なのは、本の値段の決め方である。文学書は芸術作品であるのに、活字で複製されているために、他の芸術品みたいに値段がとび離れてつけられることは無い。ほとんどはページ数や活字の数である。
ここに問題がある。編集者が作家に執筆を依頼する時には、およそ何ページくらいでこれくらいの大きさで出版したいと注文つける。作家はそれに従って、出来るだけ、多くの活字にしようとしし、値段を高くしようとするであろう。水で薄めたようなものが出来、作品という位置から離れていってしまう。買うに値しないものが出版されていき、多くの読者の失望を買うが、関連会社に割り当てられ発行部数は多いのである。
文学書以外でもそうである。テーマ以外の文章は出来るだけ、簡略した方がいいのに、すごく長ったらしくして、テーマに入る前に飽きてしまうものが多い。
本来の芸術作品の位置に戻って、良いものは値段高くし、それ以外は安くした方が書く側も良質の作品を書くはずである。1980年ころまでは良質の作品が多かったが、近頃は、悪貨が良貨を駆逐している、としか言えない。
幼児虐待、の言葉がマスコミに出るたびに、心が痛む。
昔は、折檻、という言葉があり、子供が言うことを聞かないと押し入れや便所に閉じ込め、子供は泣いて謝り、自分が悪いことをした、と反省した。それが一般的な行為であり、問題視されることは無かった。
今は冬の寒い時に、水風呂につけたり、エアガンで撃ったり、逆さに持ち上げて床に叩きつけたり、想像も出来ない残虐さである。これはどういう事であろうか?人間が残酷になったのか?時代のストレスが強すぎるのか?考え込んでしまう。加害者の父母は加虐の快楽を覚えてしまったのであろうか?
わたしが幼い頃は外に出て、自然の中で遊び、子供たちとかくれんぼや縄跳びをして遊んだ。蛇や蛙を見つけると、尻尾を掴んで持ち上げ、地面に叩きつけて殺したりした。残酷であったが、蛙が体を痙攣させて死ぬのを見ながら、死ぬ光景を体験した。今の父母たちが虐待死させる前に、i痛めつけることがどんな悲しい結果を生むかをに知った。だから、わたしはめったなことで、暴力は振るわないし、子供を虐待するなんて想像も出来ない。
わたしにも息子がいて、言うことをきかないときには叩いたことがある。それ以上のことは、とうてい、できないし、しなかった。やはり、人間が自然を失ったと言う事が、幼児虐待の大きな原因ではないか?動物が子を虐待するなんて、知らない。子も親に従順であるから叩く必要もない。人間界でも、昔は、知らない子供が悪さをしていると注意をし、社会が子供を育て見守っていた。そこに優しい共同体が成り立っていたが、現在は利便性・快適さに座を奪われて共同体の核が失われている。
同時に、幼児虐待は時代の(深い傷)なのである。加害者がどんな傷をもっているか?加害者も被害者同様、癒し、救うべきではないか?刑務所はその方針を持つべき施設である。
前の日記の続きになるが、その団体でわたしは執行委員の役を演じなければならないと言う事だ。シェークスピアが書いているように、この世は舞台である、王様を演じる者もいれば乞食を演じる者もいる、のである。職業は社会の必要性があって存在している。イケメン金持ちもいればうらぶれ老人もヤクザも死刑執行人も官僚もいる。俺は、東大出だから集金なんてやってられないと言った男がNHKにいたが、そんな男ばかりでは集団は成り立たない。今のNHKの番組みたいに面白くもないものばかりが出来てしまう。
今のわたしは一般的には(うらぶれ老人)ということになる。
二年前、身障者会の芝居があり、いきなり、舞台に出てくれ、と言われ、水戸黄門の劇の中で、金の取り立て役を演じたことがあった。集金の仕事をやっていたこともあって、台本なしで、婆さんを脅し口調で責めたのであった。
初めて、役を演じて、何とも言えない爽快感に満ちた。日々の生活の中で、うらぶれ老人を演じているわたしは、見事に変身し、(平行宇宙)を破ったのであった。金の取立人という昔の自分に戻ったのかもしれない。私たちは、自分の仕切りを破れない、自分の宇宙に住んでいるが、無礼講などにあるように、時にはそこから跳び出すことが出来るのである。
配役、という題でオムニバス小説を書くつもりである。
一番目にあたる(うらぶれ)を、書き始めている。
ある任意団体の総会が今日、開かれた。2018年度活動経過報告、決算報告、2019年度活動方針、事業計画と一般の団体の総会の項目が順次が読み上げれられ、進められていった。
一般質問の時間になった。
わたしは、会員を増やすためには、勧誘して増やした者に、一人当たり、500円から1000円の礼金を出したらどうか?高齢化による買い物難民が増えているので送迎の出来る者にして貰って、謝礼金を出したらどうか?毎月、食事会を開いて会員の懇親をはかったらどうか?と会員席から提案した。
そこで、支部長から(あなたは副支部長なので提案や質問をすることはおかしい)といわれた。(それはおかしいんじゃないあですか?わたしは一会員でもあるんです!発言の権利はある)と反論した。一般会員の反応を見ると、黙って聞いているだけであった。
それから、懇親会に入り、ビールを飲み、盛り合わせを食べた。隣の席の男と話を始めると、(やはり、執行委員が提案や意見を言うのはおかしい。そんなことをすれば何のための執行委員なのかわからなくなって、構造そのものが崩れてしまうではないか)と言われ、わたしは実情を理解しながら、構造主義の実体を感じ取ってしまった。
やはりそうであった。(構造そのものが権力である)と構造主義は述べているが、集団の中の配役を決め、秩序を作るのである。立ってる場所をはっきりさせ、それが階層になり、壁で仕切る。お城が出来上がり、反抗を封じ込める。一般企業においても労働組合の幹部を管理職に登用し、経営側に立たせるのと同じである。
配役を変えることで組織を自由自在に操ることが出来る。
社会においても貧乏人の子は一生、貧乏人であるし、金持ちは一生金持ちである。世襲制が階級制度を支配している。だれがその構造をつくるのであろうか?聖書の創世記の禁断の木の実においても神、アダムとイブ、蛇と配役は固定され、神が蛇になることも、アダムが神になることもない。そんなことになれば、先ほどの言葉にあるように構造が壊れ、劇はなりたたなくなってしまう。
配役づくりは神の意向かもしれない。植物を作り、動物を造られた方であるのであるから。
私の意見はやはり、構造を壊してしまうが、壊さなければ改善も改革を起こらず、同じことを繰り返す、堂々巡りの集団におちいってしまうしかないと、思う。この配役の仕組みが様々な弊害を生むことになる。
昨日の日曜日、二週間ぶりに教会に行った。いろんな会の行事が続いて行けなかっのだが、みな、体でもこわしたんじゃないか?と思って心配してた、言ってくれた。(花の日訪問)で家に行って、手紙を投函したの、と女信者が言い、わたしはポストに無かったと、答えた。ある人物が持ち去った、とわたしは判断し、事情をうちあけた。たぶん、その人物はこのブログを読んでいるに違いない。
賛美歌を五度、歌い、聖書を読み、神父の話を聞き、信者達と談笑し、良い一日だった。(皆さん、何かありませんか?)と最後に神父が言った時、わたしは用意していた質問をしようかしまいか?と迷った。誰も質問せず、神父が切り上げようとした時、手を挙げた。
「唐突な質問だと思いますが」と言って、神父の顔色を見、「創世記には神が天地を作り、生命を作ったと書いてありますが、進化論はそうは書いていません。進化論にたいして、どう思われますか?」と言った。
中年の神父は平静な顔で、「宗教の見方の見方のちがいでしょう」とこたえ、わたしは自分の考えと同じであることを知った。その答えを予想していたのであった。
以前関わっていた宗派は、進化論はまちがっている、聖書の方が絶対、正しいと主張していた。考え方に柔軟性がなく、すごく硬直し、輸血問題、でマスコミを騒がせた。わたしは彼らの言ってることが正しい?と考えていたが、宗派によって聖書への見方が、こんなにも異なるのである。先ほどの神父は、聖書に書いてあることは事実ですか?と以前、訊くと、聖書は物語的に書いてあります、とこたえ、わたしは同感していた。
ようするに、宗教と科学は異なる宇宙の中にいるのである。視点が異なるのである。宗教は神や仏を持ち出し、科学はエネルギーや数式を持ち出すが、実は同じことを伝えようとているのではないか?
量子力学では多次元宇宙を述べている。人間は自分の感知できるものにしか存在を認めないが、感知できなくても存在しているものはたくさんある。電波や超音波など限りなくある。だから、神は、神の宇宙にいて、私たちは一般的な状態では感じられず、知れないのであろう。それは霊界とも言うが、人とは平行宇宙の状態なのであり、信仰によって近づき、交われるのではないか。
神はあなたたちを愛しておられる、とキリスト教は述べる。わたしは、始めの頃は理解出来なかった。自分なりに解釈し始めた。自然治癒力を持ち出してみよう。手が傷つき出血すれば、何もしないのに血小板が活動しはじめる。出血を止め、傷ついた部分は塞がれていく。創世記で、人に、生きよ増えよ、と書いてあるのは、神の力が働いて治癒をしている、あるいは体の物質の化学反応によって、治癒のベクトルがは働いているのであろうか?
興味の尽きない命題が私の前に現れている。
今日の朝刊に、ひきこもり支援(?)施設に強制的に連れて行かれ、高額の金を払わされた、という記事が出ていた。ジョーク?ではないか?と考えながら読んだが、現実であった。何とも知れない世の中になったなったものである。
わたしは五十年前、引きこもりであった。原因は単純であった。小学校の頃から、教育ママにしごかれて、受験勉強に青春を奉げたのに、地方の二流大学の試験に落ちた。燃え尽きて、自律神経失調症になった、ドモリが治らない、父母の仲が悪く、父はアルコール中毒で女狂いであったなど、思い返せば確実に分析できた。その頃、自立しようとして断食道場に行って、一週間、断食をしたが、食欲に負けてしまった。部屋に籠り、太宰治の小説を読んで、自分の仲間がいることを知った。小説家をはじめ芸術家なんてほとんどが、引きこもりなのである。その頃、わたしは、お菓子を買って食べ、断食した分を取り返そうとした。夜になると、外に出て、彷徨した。新婚夫婦の部屋の覗き見をした。半年間ほどそんな生活をし、人生の曲がり道を遠回りしながら生きて来た。今は、死、という解放を待っている。
私の身近に、引きこもりの女がいるが、放置している。引きこもり、が心地良いから、そうしているのである。
引きこもりは、良い経験になっていた。今は、野菜作りに精を出し、町のいろんな会に出て、言いたいことをしゃべり、時には酒を飲み、カラオケを歌っている。引きこもりなんて、体が許さなくなっている。
中には一生、引きこもりの人だっているだろうし、それを無理に連れ出して何の効果があるだろうか?時間が薬、なのである。引きこもりの人生、それもまた、人生である。