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四十年前は、相模原市に住んでいたので相模原という言葉はなつかしいが、この事件は恐るべきものである。身動きも出来ず、言葉も出せない要介護者を45人もナイフで切りつけたというのだから、どのように考えたら良いのかわからないが、もしかすると、私やあなたたちが心の中で起こしているかもしれない。
前のブログにも書いているが、ある老女を介護した時の経験が自分にはある。二本の杖でよちよち歩きをし、車の乗り降りには腰を支えてやらねばならない、突然、倒れると起き上がれず、頭を打ったりするのであった。用事もないのにメールや電話が自分にひんぱんにかかってき、朝の四時や夜の十時にかかってきたこともあった。おはよう、おやすみなさい、今、何してる?などたわいのない内容であったが、しきりに気持ち悪いという言葉を出すので、誰のことか?と考えていると私のことであった。普通の女からは、嫌らしい顔をしてると時々、言われるが、気持ち悪い、という言葉は初めてであった。
そのあたりが理解出来ないのである。
気持ち悪い、と思うのであれば、何故、恋人でもあるようなメールやで電話をおくるのであろうか?
わたしが好意を持たれていると判断するのは自然な成り行きである。
気持ち悪い、というのは、体を支えてやる時に胸や腰に触れることをさしているのだとしても、それは自然なことではないか?
そこで考えるのは、介護される側は介護する側に対して想いや考えを持っているということである。それは勝手な場合もあり、介護する側の視点でみると納得できない場合があり、今回の場合がそうである。
だから、殺傷事件の若い容疑者はそのあたりのストレスが溜まって、要介護者たちを社会の邪魔者、だと考えるようになったのであろう。たぶん、彼は介護される側から感謝の言葉をあまりもらわなかったのではないか?コミュニケーションがうまくいかなかったというより、要介護者がそれをとれる精神状態ではなかった、と言えるのではないか?
健常者と障がい者という視点で考えれば、障がい者がいるから、健常者の立場でいることができるのであり、支える者は支えられてもいるのである。
会の集まりの中で、その老女が倒れても、わたしは手を貸さないようになった。他の者たちが支えてやっているがわたしは知らぬ顔をしている。でも、自分が支えてやっていた時は、支える満足感があったが
それがなくなったことを少し寂しく感じた。
セクハラとは、単純に定義付ければ、性的加害行為であろう。およそ三十年くらい前からひんぱんに使われ、メディアに登場しない日はない。それほど重要な反社会的行為なのであるが、被害者が加害者に好意を持っているか持っていないか、あるいは訴えられるか訴えられないかで決まる親告罪でもあるので判断がむずかしくなる。ただ、アナログからデジタルに変わった時代の落とし子みたいなもので社会の仕組みを大きく変えつつあることは間違いない。同性婚、性的少数者、障がい者を含め、人権意識と関わり、時代の転換を象徴している。これに反抗する者は排除されるしかない。
だが、デジタルの落とし穴も考えなければならない。曖昧さ、矛盾、対立を考慮に入れられない考え方は本質を見失い、本来のベクトルから外れてしまう。つまり、性欲とは本来、何なのか?という根源であり、否定できないものなのである。それは、正しい性行為、が基本ということなのであり、愛し、愛される関係から言動を起こすべきというべきなのであろうが、人間と言うデリケートで複雑な種族から読み取るのは難しいのでつい、うかつな言動を起こしてしまう場合が生じやすい。
性欲はエネルギーの一つであり、否定することはできないし、否定すれば生物は絶滅するしかないのである。これを考えて、セクハラ問題はもう一度、検証されなければならない。つまり、余裕と幅を持たせ、男女関係、人間関係を潤滑のあるものにしないとぎくしゃく・びくびくし、表現や報道の自由が大きく制約され、社会の活性を失ってしまう。
四十年前までは、痴漢、いたずらで片づけられていたものが、立派な犯罪にされ、社会的地位まで失ってしまうようになった。言論の自由や文化も制約され、たえず監視され、自らも自分を監視しなければならなくなった。
わたしはキリスト教会に通わなくなった。
信者から電話がかかってきたが、献金が出来なくて後ろめたくて、行けません、とメールを送ったが、それを読んでないようで返信は来なかった。それまで、教会や信者に対して、どこか不信感があった。わたしは、信者や牧師に生活が苦しいと訴えていた。それなのに、洗礼を受けると、待ってたように献金袋が四つも来た。月に千円ほどの献金はしているのに、それ以上、貧乏人から金をとるのか?
彼らはキリストの言葉を心の中に入れてはいない。日常生活に戻ると俗物になるのであろう?キリストは貧しい者からでも献金させろ、と言っているか?
教会に通っても、わたし自身は変わらなかった。ホームレスみたいな老女から、駅への道を聞かれたが、嫌な気分になって教えた自分であった。不倫をしている信者もわかった。四年間ほども聖書を学び、キリストについて考えたはずなのにこのありさまである。
最初から、食い違いがあった。仏教では、仏は自分の中にいると考え、自己を検証するがキリスト教は神を自分から離れて置き、神が自然も人間もつくった、といって、信仰することは、神と契約をむすぶことなのである。そのあたりが日本人にはすっきりわからないであろう。信者たちは熱心に教会に通っているが信者の数は増えない。かれらは悩みを訴えて皆と共有したり布教活動をすることはないので、自分だけの世界に籠ってしまっている。自己満足である。牧師さえも、布教活動はしません、困窮者たちには寄付をしています、といって金で片づけている。いわば、金持ちのための宗教なのであり、わたしのような貧乏人の行く場所ではなかった。
話し相手がいないので、昨日は知り合いの老女の家に行った。前日に、町の通りで出会い、立ち話をし、夜に電話を入れたが出なかった。海老津駅南開発反対運動の時の仲間で、結婚相談所を開いていた人で、おだやかで頭の良い人である。
ピンポンを押すと、カーテンを開けてわたしを見、家にあげてくれた。長話をしてると、彼女の女友達から三度も電話がかかって来て、最後の電話は一緒に昼ご飯を食べようという話になったので、わたしは辞して帰った。ただ、彼女の口から、主人は亡くなった、息子が早稲田を出て、孫は慶応を出た、田中君は母を連れて私の通う介護施設に来るが母親はいつもパジャマ姿なんよ、とと言う話が、前日もそうであったが、三度も出て、この人は頭の老化が始まり、わたしは自分も物忘れが時々、起きることを思い返した。
もう一軒、障害者の会の仲間の家に寄った。たった今、あんたの家に行ったけど、おらんかった、と言い、玄関口で長い世間話になった。彼は庭仕事を長年やってきたが、脊髄狭窄症にかかり、脚が痛んで仕事が出来なくなり、生活が苦しい、と言いながら、金を稼ぐためにボートレースやパチンコにいくが損をするという。
彼と別れ、町の閑散としたシャッター通りをバイクでゆっくり走っていると、向かいから少し変な老女が歩いて来た。骨ばった男みたいな顔つきであり、手ぶらで、古びた赤いセーターが変に不似合いであった。首筋からは冷たい風が入りようであったが、寒そうではなかった。何も持っておらず、ホームレスの印象があった。
「すみません。のせてくれませんか?」
といきなり言うので、おどろき、
「このバイクに乗るんですか?後ろにボックスを付けてるから乗れませんよ」
と言うと、
「一つお尋ねしますが、海老津駅はどう行ったらいいんですか?」とたずね、
「あそこの交差点を右に曲がって上って行けばすぐですよ」とこたえると、そちらの方に行ったが、金は持っているのだろうか?どこからやってきたのか?と、心配になった。
いったん家に帰り、昼食をとり、さてなにをしようか?と考えて、いつもの山道を歩くことにした。
一時間はかかるコースで誰とも出会わない山中である。膝が痛み始め、だいじょうぶか?と思いながら、ここで倒れたら野垂れ死にだ、と考えた。池に着いて休み、帰りは三度休んで、やっと団地の家の家並が見えて来た。
「こんにちわ!おいちゃん!」
向かいから全く知らない老女が声を掛けて来た。
「こんにちわ!」
と挨拶を返すと、前から知り合いみたいな口調でしゃべり始めた。
身も心も軽々としたあっけらかんとした感じがした。洗いざらしの綿パンと着古しセーターを着ていた。
わたしがいくつに見えるか?と訊くと、以前もそんなことがあったが八十歳くらいと言い、ショックをうけていると、彼女が八十歳でわたしは年下なのであった。役場の傍の家に住んでるけど山が懐かしくなってここに来たと言った。英彦山のそばの添田町の生まれだと言い、近所の人としゃべると人の悪口ばかりだから嫌になると言った。
今年は、暖かい冬である。毎年気温は三度くらいに下がるのであるが、今年は毎日十度以上である。その暖冬のように、老女は身も心もさわやかで軽々した雰囲気であった。
彼女添田町にある雪舟庭園の話を始め、雪舟は生き倒れになってるところを救われ、お礼に庭園を造ったと言い、自分は柳川の生まれだと言った。先ほどは添田町と言ったはずだと私は考えた。わたしが柳川の古賀政男や北原白秋の話をすると、あの人も生き倒れになってたところを助けられた、と言い、この町の聞いたた事もない町会議員の名前を持ち出したり、彼女の家はわたしが戻って来た戸切にあると話が変わったりして、どうもこの人も頭が少しおかしい、と考えた。
彼女は山奥までは行かずに、迂回して町の通りに戻ると言って、別れた。
でももしかすると、わたしが生き倒れになることを恐れた山奥に向かったのではないか?と考えると、作品の展開が始まるようであった。小説の中の物語だと考えると、何かわからないけど、感じ取れるような気がする。正月明けの今年の予感が映ってるようにも思える。
今年のNHKの大河ドラマは、明智光秀を主人公として物語が進むと新聞にも書いてあった。信長への謀反人に沿った視点から脚本が書かれ、本能寺の変の真実および彼の生き方を辿っていくらしい。面白そうである。日頃、テレビを見ないわたしの関心をどこまで惹きつけれるか見ものである。歴史はすべて勝者の視点に沿ってつくられていることは確かである。光秀も信長に謀反を起こし、秀吉にやり返されて殺され、歴史上で,悪人の位置なのである。
そこで、わたしはキリスト教の歴史的位置を考えてみる。わたしは洗礼を受けたが、それはキリスト教への探求の目的があり、自分の分析の姿勢や観点は動じはしない。ユダヤ教、その後のキリスト教の動きを考えてみるとそこには触れてはいけないダブーを読み取ってしまう。はっきり言えばキリスト教はユダヤ教を乗っ取ったのである。キリスト教はユダヤ教を引き継いで制覇し勝利したのである。旧約聖書の内容を勝手に盗り込み、キリスト教にすり替えたのである。
イエスの弟子であったユダはローマ皇帝へ密告し、キリストを磔刑へと導き、欺いて殺した悪人と言う事になるが、ユダの立場に立てばイエスは自分を神の子だと言って、ユダヤ教を乗っ取り、後継者として名乗ったのである。ユダヤ教の側がそれを許すはずはなく、明智光秀のように謀反人として抹殺される対象でしかなかった。同時に、それはキリストが人間の原罪を贖うためだと解釈され、喧伝された。信者たちは感動し、キリストを不動の位置に押し上げた。キリスト教は大勝利を得、一時、ローマ帝国の国教にまでなり、世界の精神界を制覇した。現在でも圧倒的な勝利を得、聖書は世界のロングセラーなのである。
明智光秀はいつまも謀反人の位置に下げられているが、彼が秀吉に敗れなければイエスのように英雄に祭り上げられ、歴史は大きく変わったであろう。歴史は勝者の視点に基づいているから、絶えず逆の視点が必要である。
正月は産直店も休みだし、訪ねてくる来る人もいないので、朝が来ても、布団の中にもぐりこんだままであった。電気モーフの中は暖かく、抜け出る気にはならない。朝の太陽もいつも曇り、顔を出すのを嫌がっている。七時半ころになって、やっと寝ぼけまなこの顔をあらわす。それまで、九時ころまで、電気モーフにしがみつき、ついにはしかたなく、起き出す。
昨日は、一週間ぶりに修験道(いつもの山道)を歩いた。往復で一時間半もかかり、いつもは休みなく歩くのであるが、途中で四度、休んだ。細道に倒れかけた枯れ竹を鋸で切り、イノシシのねぐらを片づけ、自分の通り道をかたづけていった。
ある道では落ち葉が三十センチもつもり、去年の記憶をのこしているように思えた。
その思い出をたどるようにして、ただ、歩き続けた
嫌われる勇気、という本は出ているが、嫌われる力、という本はまだ出ていない。悩む力、という本はベストセラーになったいきさつからみても、次はここで、嫌われる力、について書いてみたい。動物や植物、昆虫の世界には、嫌われることを武器にしているものがたくさんいる。毛虫はあの姿で嫌われ、怖がられることによって、幼い命を守り、蝮草はマムシのまだら模様をかぶって身を護り、秋になると赤い実をつけて鳥を呼び、子孫を遠くに運んでくれ、とうったえている。スカンクやヘフリムシの出す嫌な臭いなど、嫌われることを武器にしているのである。
嫌われることがいけない、と言っているには人間界だけである。セクハラで困っている女性がいれば、ヘフリムシのように臭いオナラを吹っかけてやれば良い。下手にきれいに飾るから体を触られてしまう。
わたしなど、時々は、良い男と言われることがあるが、だいたい、助平ったらしい顔とか、覗き見るような目線をしてるとか、長ったらしい難しい話をするとかで嫌われることが多い。だから、正月だって、独りで過ごしているわけであるが、女難にあったり、詐欺しにあったり、騙されたり、金を借りられたりすることもない。嫌われることが身を護り、孤独三昧の生活が出来るわけである。
正月の一大ニュースといえば、ゴーンさんの国外逃亡である。すっかりマスコミから忘れられ、どうしてるのかな?と思っていな矢先の事件である。新聞もテレビも色めき立ち、国民もその痛快さに喜んだであろう。自家用ジェット機でレバノンへ、しかも楽器入れの道具に隠れて逃げたのであるから、月並みのテレビドラマのストーリーなど超えている。まさに奇想天外であり、誰もがうらやんだに違いない。正月といえども、バイクに乗って近隣の店の安売りに走るこの私とは月とスッポンの身分の違いである。一生に一度ははゴーンさんみたいなスケールの大きいことをやってみたい、と思ったのは私だけであろうか?
日産自動車への背任罪で告訴されている身分から、一躍、スーパースターの位置に戻ったのである。コスト・カッターと呼ばれて、大胆な改革を行った彼は今度は大胆な冒険に成功した。見事である。今度はテレビにでも出演したり、講演活動、執筆で名前を売ってくれるかもしれない。あるいは、日本の総理大臣になって、政治ブローカーの腕を発揮し、弱者を助ける偽善者になるかもしれない。
日本から、珍しくスーパースターが産まれたこの歳は、次にどんな異才をうむであろうか?
ある会の老女から、気持ち悪い、と言われた。彼女はよくその言葉を口にするので、誰のことなのか?と疑問に思っていたら、なんと、わたしを指していたのであった。彼女はどの病院に行って検査を受けても原因のわからない障害にかかり、二本の杖をついてやっと歩ける状態なのである。それで、歩きながらも、方向を変えようとすると、倒れ、起き上がることが出来ない。病名が分からないので障害者の認定もおりない。
ワゴン車の車から乗り降りする時、床から部屋に上がる時、わたしは抱きかかえ、支えてあげる。「どこを触っているの!」と叱られる。そんな態勢になると、どうしても胸や腰を触らなければ介護ができないのである。そのあげく、ついに、気持ち悪い、という言葉が何度も出たことがわかった。
それから、介護はいっさいせず、他の男がやっているが、彼を好きなのであろう、気持ちいい、と言う。
しばらく、頭に来ていたが、それで、解放された。
ある会では、ハンサムとか、声が好い、とか、才能があるとか、脚が長いとか、ともかく、褒められる。ところが、寄付をしてくれ、と言われた。金を入れる封筒を四つも出され、おどろき、ぼくは生活困窮者です、と言うと、いったん、手を引っ込めた。
この二つの例を考えてみると、嫌われることが決して悪いことではないことがわかる。
昨日の毎日新聞の人生相談の欄に、こんなことが書いてあった。二十六歳の息子を母親は溺愛していて、彼女の帰りが遅かった、という理由だけで息子から、「死ね!」と怒鳴りつけられた、という。相談にのった高橋源一郎さんは、その息子に、死ね!と言い返したら、良い、と書いていた。よく、そこまで、書けたと感動したが、わたしは息子からも離婚した妻からも声の一つもかかって来ないのでそんな悩みは一切ない。嫌われることは良くない、という風潮があるが、利点もあり、愛されることも同様の評価があるのです。
あと五日で、令和二年に入るわけであるが、来年はどんな時代か?想像するだけで、すでに読めてしまう。元年は平成の時代と混じっていたが、来年はは本当の令和の時代になる。セクハラ、パワハラ、人権など、細かいことまで書き連ね、同じ記事を繰り返したマスコミはまた、同じ道を歩み、暴力、反抗とは何なのか?と言う事に踏み込みはしないであろう。きれい、幸福、利便性、快感を振りまき、それは資本主義体制の大企業・政権与党と迎合するわけであるが、その方向で書き続けるであろう。
暴力とは、エネルギーの一つにしか過ぎない。良い悪いの次元ではない。否定出来るものではないし、全面否定されれば、パワーさえ失われてしまう。反抗や闘いをきれいな言葉で否定して、得をするのは大企業・政権与党なのである。反抗はダメ、革命はダメと言う事になるから、安部はいつまでものさばっているではないか?きれいごとで搾取されているのは一般国民なのである。
やられたらやり返せ!
三十年前まではこの言葉が通用していたが、今ではまったく通用せず、逆に暴力的だと、烙印を押され、政権や大企業は高級詐欺師としてのさばっていくだけである。この目に見えない巧妙な構造に目を向け、暴力とはエネルギーであり、それがどうなのか?考え直すべきである。
闘いや反抗を忘れたらどんなことになるか?それは奴隷の道に戻ることでしかない。
五十年後に食糧危機がやってくる!その時に、あなたちはだ黙っていられますか?闘わない者から死んでいくことはまちがいない。
食料争奪戦が始まれば、美容整形され、去勢された時代は崩壊するしかない。