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この言葉はフランツ・カフカが書いているものである。今、母のことを、推理仕立て風に書いていて、その言葉を強く思った。カラオケ教室に通っている頃、歌うことは祈ることです、と女先生に言って、何妙法蓮華経?ですか?と言い返され、理解されなかった。
私の小説はほとんど体験に基づいているので、書くことは思い出して検証することでもある。心が複雑に屈折した男が主人公、つまり、わたしであるので忘れていたことを思い出し、創作が加わって新たな発見をしていくので、書いてる側の心の中はまさに(獅子身中の虫)にかき回されるような状態である。独りで、パソコンを打ちながら、涙をこぼす。
読者の数倍は笑い、泣くのであるから、作家と呼ばれる人々の心中がすごくわかる。まさに地獄と天国を行ったり来たりしてるようなもので、芸術家の中でもっとも自殺率の高いのが小説家であるという事実は納得できる。けれども、その心の動きは、祈りに近いものであろう。一昨日、洗礼を受けた日、その有様をスマフォで撮ってくれた人がいた。それをメールで観ると、勝気なわたしが、両膝を折り、頭を垂れて、神にひざまづいていた。
まさに、祈り、であった。
親しくなった信者達から、洗礼を受けたらどうですか?声をかけられるようになった。洗礼を受けると、自分の立場はどうなるのですか?義務が生じるのですか?など疑問が湧いて、積極的にはなれなかったが、引き受けてしまった。
昨日が、その式の日であった。おめでとうございます、と信者達から声をかけられ、賛美歌を歌ったり、牧師の説教を聞いたりしてるうちに、自分が神の子になることへの感動がわいてきた。創世記には、天地創造や生命の誕生など、それらが神の意思であったと書いてあるが、人の手による科学では地球の誕生さえ解き明かされていない。それを二千年前に、明かしたのであるから、聖書の力は二千年後も衰えていないのである。
三十人ほどの信者達があつまっていた。
わたしは、その前に立って、牧師の三つの問いかけに、従います、守ります、と大声で応えた。
あなたみたいな、自我の強い人がここに来たのは初めてよ、と女信者から言われた自分が頭を垂れて、自我を折ったのであった。でも、心の中では、私は,神をしっかりと観察させてもらいます、と同時に考えていた。
膝を曲げて、ひれ伏すと、牧師は私の頭に、冷たい聖水を、三度かけた。
女信者が寄って来て、タオルで持ち、拭くように言ってくれた。
令和の時代に入り、夜が変わろうとしている時に、自分が余命を考える時に、心を洗い、浄めて頂くことに感謝します。と皆に、述べ、あの世に逝く準備である意義を知った。
聖餐に入り、信者が一人一人にパン切れとぶどう酒を回しはじめた。洗礼を受ける前、それに手を伸ばすことは暗黙のうちに止められていたが、手を伸ばし、キリストの体と血を、体の中に入れた。
(物忘れ物が無くなる不思議さよ)
近頃、物忘れがひどくなった。今日が何曜日かは、わかる。それは日曜日が教会に行く日、水曜日が障害者のカラオケ会、金曜日がパソコン教室、ときまっているからであるが、日にちとなると、スケジュールに当てはまる日がないので必然的にわからなくなる。こんなことが考え切れるということはまだ、本格的な認知症には進んでいないと言うことであろう。
知り合いの婆さんは妄想が出て、屋根裏にドロボーが住みついていて、醤油や酒を盗み、屋根裏でスキヤキをやっているとよく言っていたが、近頃はそんな話もせず、黙ったままで話しかけると、ニッコリ顔になる。昼の弁当はコンビニで買って来ているのに、昼前になると部屋を抜け出して買いに行き、皆を心配させる。
今日の朝、いつもの山道を散歩していると、その婆さんと夫がイノシシノ箱ワナを見に、坂道を上って来た。私は彼に、イノシシが獲れたか?と話しかけ、四匹獲れた、という話をした。婆さんは、黙ってニッコリ笑っていたが、私のことを憶えているかどうか定かではなかった。
夫は婆さんが小学校二年生ほどの知能だと言ったことがあったが、目を離せない生活をしているから、大変であろう。食事は作って上げているし、目を離せば徘徊して回るのである。
でも、よく考えてみると、婆さんは幸福である。金の心配もなく、健康の心配もなく、死ぬことを案ずるわけでもなく、心配事はいっさいなく、だから、いつもニッコリ幸福顔なのである。彼女が不幸であるはずはない。いつか、わたしもそのような笑顔になって、この世から去るに違いない。
残り少なくなった一年の、九月から今月・十二月までの四ケ月間は、すごい速さで時が通過して行った。楽しかった旅行や出会いはもう戻ることは無く、記憶からも薄れ、消え去って行くしかない。思い出として、残るだけである。
今年の年頭に唱えた夢は,かなわず、列車の中に置き忘れられたまま、来年も走り続ける。たくさんの夢は、私の隣の席に座ったまま、わたしと手を取り合い、来年も、仲睦まじくおしゃべりを続けるのである。
新しい女と出会い、再婚すること、文学賞をとって五百万円の懸賞金を手に入れ、海外旅行をすること、チップ農法が成功して企業化し、名がとおり、金を稼ぐこと、キャンピングカーを買ってカラオケを出あった人たちと歌いながら、全国旅行をすることなどの夢は、来年にまた、持ち越された。
良いではないか!
(見果てぬ夢)として、死ぬまで私に付き添ってくれるのであるから。
このタイトルの本を読んだ。
期待通りの内容で、グレタさんのすごさと努力に敬服した。こんなことを行った彼女は、(現代のイエス)と呼ばれるようになるかもしれないし、まわりの同調者たちが彼女の言動を記して、(現代の聖書)が出来上がるかもしれない。
先日、わたしは小さな高菜を畑で取って洗い、(無農薬100%です。サラダに良いですよ)と書いて、産直店に4袋ほど出した。一袋が100であったが、一袋も売れなかった。虫食いだらけを客は敬遠したのであろうが、農薬の害より、きれいさ安さに人々は、まだまだ、関心があるのである。
そろそろ方向が変わっても良いのではないか!
グレタさんは彼女が自閉症、発達障害、アスペルガーであることを告白しているが、(私は多くの点で、私たち自閉症児のほうがノーマルで、その他の人たちの方がかなり変だと思っています)と書いていて、まさに真理を言い当てていた。この異常な世の中において、正常であると言う事は、ヒットラーの時代の親衛隊員のような者であろう。
グレタさんの主張の中で、少し私と異なることがあった。(温暖化)というテーマで論ずるべきであろうか?炭酸ガスが増え、氷が解けて水位が高まり、異常気象になって自然が破壊され、昆虫も消えて言っていることは(自然破壊)と言った方が的確なのではないか?それにわたしたちは温暖化の弊害を訴えると同時に日常生活においては何をなすべきなのか?ビニール袋を使わずに、買い物袋にするとか石鹸や化粧なども自然のものにするとかエアコンをつかわないとか、様々なことが考えられる。
要するに、利便性・快適さ、それを産んで金儲けをしている資本主義・現代文明そのものが問題にされなければ的を得ているとは言えないのである。
あることがあって、その精神病院に行った。大部屋のドアは施錠され、(第二病棟)と書かれていた。
ロックが外されて、中に入ると、広い部屋の中に、老人ばかりが、四、五十人ほど、長いテーブルに向かってすわり、小声でおしゃべりをしたり、ぼんやりしたりしていた。老人ホームを訪れたような気になったが、彼らの姿が小学生のように小さく見え、どこか幼さが感じられた。
面会の相手は、となりの間の椅子に背中を見せて座っていた。
婦長が私に、会うように言った。
「一対一で対面させるんですか?この男が過去にどれだけ暴力をふるったか知らないんですか!」
私は言ったが、婦長は取り合わなかった。
男の向かいの椅子に私は座った。
「あんたは・・病院のガラスを割った」
全く身に覚えのないことをその男は言い始めた。
「そんな病院なんてはいったこともない!」
と言って、彼が妄想状態になっていることを知った。
いよいよここまで来たな?と考えていると、
「 ・・洋服掛けが欲しいので買って来て下さい」
と言う。前回、彼は私と口論したことをすっかり忘れているのであった。
「その前に、やることがあるだろう。俺との関係をきちんと整理しろ!」
「そんなに興奮しないでいいじゃない」
彼は薄笑いをしながら、言った。
彼は開放病棟に15年ほどいたが、女患者や男達とトラブルがたえず、ついにその閉鎖病棟に移されたのであった。
男と話はつかず、これまでどおり無視することにした。彼は閉鎖病棟に入っている限り、外に出て、暴力をふるうことは無いであろうが、許可がでれば外出できるという。
私は心臓が震えるほど興奮していたが、椅子に座った老人たちの姿が胸の中に残っていた。徘徊癖やトラブル癖のあるものたちであろうが、この世から離れて生きている彼fらの、その姿が世間に出ることはない。
部屋から出ようとして、ロックされていて出れなかった。一人の老人が立ち上がり、職員を読んで、開錠させてくれた。
彼らは、夕食を前にして、座っていたのであった・・・。
誰からも見放され、(飼育)されている人々を見て、自分の行く末とも重なった・・。
昨日、赤間教会で牧師と会った。わたしは洗礼式へすすむ流れをきき、心構えも含めて、私の宗教観も話した。
悪党に近かったあいつが洗礼をうけるとは?旧友は、やっぱり、あいつは落ちぶれて、イエスに拾われたのか?と思うかもしれない。それはそれで、良い。
わたしは聖書にはすごく興味があっても、日常的に神を感じることはまれにしかない。それはすごく気分が良い時に、神が元気を与えてくれているのか?あるいは、山道を独り歩きながら神のエネルギーといっしょにあるいているのではないか?と想像するくらいのものである。
地球は回転する太陽から離れ、火炎となって太陽の周りを回るようになった。炎が消え、冷えていって、雨が降り、山や谷ができ、泥水の中から生命がうまれたという科学的な解明は聖書の創世記に書かれていることに通じるものが多い。創世記では、神が山や谷をつくり、すべての生命をつくって、人に管理を任せるようになった。(光あれ)と言われて、光が現れたことなども科学的観点につうじている。
牧師は神学課の大学院卒で、すごく包容力のある人で、洗礼を受けても、楽しみながら聖書を学んでください、と言ってくれた。
(神とは地球上の総エネルギーではないでしょうか?E=MGという方程式がありますよね。エネルギーは質量×定数、というわけですが、地球上でもっとも重いものは地球ですから地球そのものが神ではないでしょうか?そして、その一部が人であり、人のエネルギーではないでしょうか?
などのことを話し合った。こんな話を世間でしてきたが、ほとんどの人は、顔をそむけるような具合で、屁理屈屋、変わり者、という烙印を押してくれた。だが、教会ではこんな会話は日常的なものである。わたしは自分の古里に帰ったような気持で、神探しを続けようと思う。
私の身の上は、72歳にして妻子に逃げられ、金銭苦、孤独という状態で、それは不幸と認定される主要な条件を満たすのに十分すぎる。それは多くの人が、不幸の定義を植えつけられていて、最初から先入観をもっているからである。
確かに朝、目が覚めて、なぜ、目が覚めるのか?覚めなければいいのに・・、と悔やみに近い心境になることがある。特に、良い夢を見ている時で、昨晩は、教会で賛美歌を歌いながら、私の好きな叔母が笑顔で私のそばにいてくれた。眼覚めはそれを打ち破ったのである。その夢をそのままあの世に持っていければさぞ、(幸福)であったろうと思う。
新聞の人生相談を読んでいると、なぜ、そんなことで悩んでいるのかわからないことがある。生活費がきちんと入ってご飯が食べられているではないか?わたしなど、昨日、産直での売り上げが240円であり、これでは肉が買えないと不安になるが,そんな不安がないなんて、幸福ではないか?と反論したくなる。
ある女の人は、しゅうととうまくいかないこと悩みなのであった。ではそこに、生活費の悩みが加わったとすれば、しゅうとの悩みは半減するのであろう。
また、ある講演で聞いた話が印象に残っている。
その女の人は息子が障害児で排泄や入浴の面倒を看ている。まわりの人のほとんどは、大変ですね!というが、彼女にとってそれは嫌いな言葉である。
なぜであろうか?
彼女はその介護に満足感と幸福感を持っているからである。
が、他者にはその気持ちがわからず、既成概念と表面的な部分で判断しているからである。これに類する事例はたくさんある。もう一度自分や他人の悩みを考え直してみると、ほとんどの悩みは消えるはずである。
空腹の状態であれば、どんな食べ物を見ても美味しく見える。(空腹は最大の味覚を作る)のである。これは、(動的平衡)という言葉で総括される。不幸であればあるほど、幸福の味わいは、それに比例して強くなるのであるから、不幸は幸福の触媒作用を起こす、と言うことである。逆に幸福であればあるほど、不幸はどん底感に変わる。人生の最高潮にいる人が自殺するのはこの原理に基づいている。
新聞やテレビ(ほとんど見ない)をみると、登場人物はそろいにそろってニッコリ笑顔である。わたしも仲間うちで写真を撮られる場合、ニッコリ笑顔をつくってしまう。出来た写真を観ると、自分の笑顔だけは作りものであることが分かる。
この社会は不幸を許さないのである。(健康で文化的な社会生活)を憲法は保証しているが、幸福を基準にしているのである。が、不幸な人間がいて生きていてもいいのではないか?70歳にして、妻子に逃げられ、友達もなく、月に五万円の国民年金で生活し、そろそろ蓄えが無くなり、余命を控えた老男が幸福であるはずはないと、まわりの者も社会も信じている。身の上話をすると、聞いた者は間違いなく、気の毒ですね、お悔やみします、と言うが、こんな自分でも生き甲斐はあるのである。産直に出した野菜の売れ行きをメールで見る時、このホームペイジの閲覧者数が増加している(この一週間、いつもの5倍くらいになっている)のを見る時、懸賞小説に絶えず応募して、金が入ることを夢見ている時、あの女と恋人になれるのではないか?と夢見ることなど、際限がない。早く死にたい、と考えて、毎晩、(今も)酒を飲んでいることなど、あげればきりがないのである。
幸福なら手を叩こう、ではなく、不幸なら手を叩こう、そんなコピーが流行る時、社会は生きがいのある社会になるのであろう。
羊たちは牧童によって、牧草のある所に連れて行かれ、牧草を食べて生きている。狼の牙からも守られ、小屋の中で安全に生きているのであるが、数か月後には殺されて食べられることを知らないのであろうか?自分で牧草を探し、安全なところに隠れて、自由に生きようとは考えないのであろうか?
わずかの命を生きることの方が、命をとられることより大事なのであろうか?
ここで私は、自分やあなた方の立っている場所がその羊たちと同じではないか?と、考えてしまう。五十年後には食糧危機がくる、数年後にはバブル崩壊が訪れる、などと新聞でも囁かれているのに、私たちはその日さえ生きていければ良い、と言わんばかりに美味しいものを食べ、人の噂話に耳を傾け、毎日、朝日を見る。
人気のあるカラオケ教室で、私をはじめ、あと二人が脱会したが、先生は、やめるのは自由です、と言って、百人ちかくいる生徒、そのことに自負しているが、キリストは一匹の消えた羊に注目したのである。それは凄いことだ、と思う。一匹が何十匹分に値するのかを、イエスは読み取ったのである。