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毎日、何が、売れるか?と、まわりを見回しています。ギンナンを産直店に出していますが、そんなに売れるものではありません。
渋柿が赤くなりはじめ、吊るし柿をつるす時期です。家の渋柿をとろうと、長い剪定ばさみを伸ばすのですが、枝を切ると柿ごと落ちて、ぐしゃぐしゃになり、売り物になりません。そこで蝶をとる捕虫網を剪定ばさみにとりつけ、網の中に落ちるようにすると、大成功でした。ところが、低い位置ならそれでできるのですが、高い場所だと網の位置が固定しにくくなります。そこで発見したのは少し太い枝の場合、ハサミが枝をしっかりくわえてくれるということでした。三脚を立てれば、かなり高い位置までとれますが、近頃は体がふらつき、危険です。それでも、一週間分の食費にはなりました。
コイン精米機にいって、ヌカをとる。精米所に行ってもみ殻をとる。フリーマーケットに参加して、古物を売る。畑の草刈りや草むしりをしてやって、金をもらう。時には送迎をしてやって金を稼ぐ。
そんなことをしていると、ある知り合いのおとこから、ホームレスみたいやね、と言われ、さすがに頭に来て、その男とは口をきかなくなりました。
母が
エホバの証人と現在の日本基督教団を合わせると、ほぼ五年間、教会に通い、聖書を学んだことになる。その二つの宗派の考え方や内部での信者たちのふるまいはかなり異なり、わたしは後者の方に共感し、毎週通っている。
その違いを書けば長くなるので書かないが、両者とも聖書を基本にし、神・キリストを信じているのである。わたしはもともと、自然の総体が神であると考えていたが、キリスト教の場合、自然をつくったのは神である、と、創世記にも書いてあるように、自然の上に神が存在している。この考え方の違いは日常生活においてもかなり異なる考えや行動を産む。ある信者は、朝日が昇る時、花が花弁を開く時などに神を感じる、と言ったが、朝日そのもの、花弁そのものではなく、それらの上位にいる神を意識しているのであろうか?そうなると、感じ方はかなり、異なってくるはずである。
(光あれ、と神は言われた。すると、光が現れた)
この聖句など、私の好きなものの一つであるが、光はエネルギーであり、すべての生命を生かしている根源的なものであるが、神の指示で現れた、となると事情が異なってくる。私の場合であれば、エネルギーそのものが神であると考えている。
こ
つまり、宗教とは理論や史実かどうか?など科学的に考える分野ではないということでした。男女の恋愛みたいに、好きになる時に、学歴や年収、顔の美醜などにとらわれず、ただ、好きになった、心地好いというフィーリングに左右されるということでした。たぶん、ほとんどの信者たちはキリストの行いや神の言葉に惚れて、入信すると思います。
私にも、キリストの像は思い浮かびます。汝の隣人を愛せ、右の頬を打たれたら左の頬を出せ、などわたしの本性とは真逆の人間性です。72歳になり、死を待つ状況になって、わたしは自分のほとんどを捨てています。だから、キリストにでもサタンにでも変身できる心境です。が、どうしても、身近にはなれず、それだから、キリストも神も寄って来ないようです。
信じればキリストや神は近づいて来るでしょうが、その溝を超えられないのです。いつか、キリストが夢の中に現れるようになれば、信者になれると思います。それは死ぬ時かもしれませんが、聖書を学びながら、その時を待っています。
前週の日曜日、教会に行ったとき、佐藤さんに話しかけた。
「佐藤さんは、神をどんな時から感じるようになりましたか?」
「それまでは感じたことはなかったのですが、大病を患った時からですね」
「神の姿が見えるのですか?」
「いや、声が聞こえてくるのです」
「ほう。どんな声がですか?」
「ここに書き留めています」
彼は手帳を開いて、見せました。
小さな字で毎日、びっしり書いてありました。
「わたしは教会の中では神を感じることがあるのですが、外に出ると、元の人間にもどってしまいます。女に目が向いたりします」
わたしは言いました。
彼は黙っていましたが、神の声が聞こえると言うのは、彼が聖書で学んだことが、木霊になって戻って来てるのじゃないか?とわたしは考えました。
それから、彼は演壇に立ち、説教をはじめました。
いつもの牧師が出張のため、不在で、古くからの信者が話をすることになっていたのでした。
彼は、迷える子羊、の話を始めました。ルカの福音書、15章に書いてあるたとえ話で有名な部分です。
(あなたがtのうち、百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹を失ったときに、九十九匹を荒野に残し、失われたものを見つけるまで探しに行かない人がいるでしょうか)という文面です。
この内容は私の心に残るものでした。
まず、自分が洗礼をうけるようにすすめられながら、迷っている状態であったのです。
聖書を学び始めて、書いてある内容が事実なのか?進化論とくらべてどうなのか?などの疑問が浮かび、迷っていたのですが、近頃はその方向に疑問を抱くようになっていたのでした。
退職して10年になり、年金生活は苦しいが、精神的には良い人生を送っていると思う。会社関係の友人・知人はすべて消えたが、住まいのまわりに、(人)が宝になって現れたからである。わたしの夢の基本は(原始共産制)であるが、地元の人々と、身体障害者の会、年金の会、キリスト教会などとの関わりながら
、助けたり、助けられたりしながら、共生関係がうまれ、新しい発見、新しい人と出会いをして、豊かな余生を過ごしている。
教会には毎週通い、月に何度かは、家庭集会が持たれる。信者の家を神父さんも含めて訪れ、食事をしながら、歓談するという単純なものであるが、そこに何とも言えない幸福感が産まれる。屁理屈屋、変わり者と呼ばれるわたしがその場で、宗教や哲学、政治・社会についてしゃべっても議論の相手をしてくれる元・お医者さんがいるし、神父もいるし、信者もいる。その場自体が社会や人生・歴史・生命の謎などの疑問を論ずる場なのである。
昨日の祈祷会は(聖霊が降りる)という題の話であったが、議論が、御使いは天使か?霊とは何か?幽体離脱とは?
体離脱?神は心の中にいるのか?などと発展した。昼食は、元・医者の車で出かけて、5人で、美味しいかけそばを食べた。元・医者は私を気づかって私の代金を払ってくれる。彼は私と同じく一人住まいであるから話し相手を求めて、わたしを彼の家によく招いてくれる。
そんな歓談の場で写真とってもらうと、みんな花が咲いたような笑顔を見せてくれている。人生の中で(花がさいた
前回のブログは不完全な記事で終わって、申し訳ありませんでした。
「区切り挿入」というよくわからないメッセージが出て、困惑してるのが現状です。
さて、今回にタイトルについては日頃から思ってる事でしたが、台風19号の被害状況を知りたくて、テレビをつけてみると、NHKの連ドラが現れて、男女の結婚申し込みのありふれた場面をワンパターン形式で流していました。そして、わけもなく男女が笑顔を見せるのです。新聞の記事やテレビを見ていて最近思うのは、笑顔ばかりということです。特別に良いことがあって笑うのはともかく、意味もなく笑っているのです。小説家と呼ばれる先生をはじめ、芸能人、政治家、ともかくすべての登場人物がほとんど笑顔を見せるのです。たぶん、写真や動画を撮られる時に、笑顔を要求されるのでしょうが、これではまるで、世の中、幸福いっぱい、という感じではないですか?
それに引き換え、夏目漱石や芥川龍之介、太宰治の顔写真は時代と個性をよく現していますね?要するに、現代は、時代が陰翳を失った、と言えます。影を出してはいけないのです。
だから、実体の姿や効果がでないのです。
もし、わたしが文学賞を来年受けるとすれば、決して笑顔ではなく、この独特な表情をだしてみたいと思います。
今日も朝の五時ころに起きて、ニラ、ギンナン、ヌカの袋詰めをした。7時過ぎに家を出て、バイクで産直店に行って、陳列台に並べた。値札を張り、まわりに出ている野菜の種類を調べ、値段を調べ、売れ残りを探した。
そんなことをしていると、栗を出している老人がいたので、寄って行って話しかけた。
「まあだ、栗がでよるんですか?うちはもう終わりましたがね」
「うちもこれで終わりです」
「この渋皮は包丁でむくんですか?」
渋皮はみっちり張り付いていて、取るのが大変だけど、この老人はいつもきれいにむいて出している。
「クリ剥きハサミでこすりとっています。値段が高いち、言われますが三時間も四時間もかかって、たったこれだけしかむけないんですよ」
見ると、百グラムほどの小袋が五個並べられていて、一袋が五百円の値札が付いている。
「指が腱鞘炎にかかりそうで、もううちで食べるだけにしようと思いよります。八十歳になって、百姓はやめようと思いよります」
自分は72歳になっていたので、その気持ちがよくわかった。
「イノシシが食べにくるけ、電気柵の金だけでも10万円はかかりました。赤字です。米作りもやめました。一千万円もする耕運機なんて買えません」
「そうですね」
「消毒やら肥料代もバカになりません」
「うちは猪も来ないし、自然農法ですから、そんな金はいりませんが、一般の農家は大変でしょう」
わたしはその気持ちがよくわかり、
72歳になって,性欲は落ちてきた。人生において、食欲、性欲、睡眠欲などの三要素の一つが落ちていくわけだから、淋しい、と言えるが、その存在の意義が逆にわかってきた。
わたしは男であるから、あの若き頃、女は輝いて見えていて、町に出ると女の方ばかり見ていた。今の女はズボン姿が多くなり、色気を失ったが、まれにスカート姿の女が現れると、希少な存在として見える。やはり、スカートからはみ出た脚の美しさは格別であり、そのふくよかさは母の優しいさにも通じる美であり、スカートやワンピースの色やデザインによってさらに魅力を変え、強めるのである。
性欲が衰えたからといって、女の魅力が失われたわけではなく、ロウソクの灯のような明かりで、女の姿は微妙な陰影を豊かにして、絵画の中の女のように輝かせるのである。これは女性の視点の場合も同じである。老女がまれに、わたしをにんまり見詰めている時、わたしはその視線の中に潜んでいるリピドーを感じ、たがいに生きている実感をわかせる。
灰になるまで、と言われるが、老女と体を交える時があれば、まさにそのことを感じさせるであろう。桃の実の場合でも、新鮮でみずみずしい味わいもあるが、腐りはじめた時の(ただれた味)も格別である。そんな期待と想像をしながら生きている日々である。
福岡伸一さんの(動的平衡)という本を何年か前に読んで、納得し理解したつもりであったが、思い返せばそれは十分であったとは思えないことに気づいた。自分ながら人生上の出来事や社会のそれを振り返りながら、やはり、福岡さんの書いてたことは真理であると今、思い返した。
ウイキペディアによると、動的平衡について、以下のように書いてある。
(たがいに逆向きの過程が同じ速度で進行することにより、系全体としては時間変化せずに平衡に達してる状態)
具体的に世の中の動きや自分の人生を分析すると、よくわかり、私自身が高校生の頃から、人生なんてどっちに転んでも同じである、と考えていたことがこの箴言により、真理であったとわかる。タイトルに書いているように、医学が進歩して良くなったように一般人は思うが、そのエネルギーに並行して病気の種類も重さも進むということである。良いことがおこればそれに比例して悪いことも内在して進行しており、悪いことが起これば良いこともそのように進行してるのである。光と陰の関係にも例えられ、実体が強くて輝けば、陰もそれだけ濃くなるのである。冬の寒さが強ければ風呂に入った時の暖かさは格別に強く、エアコンで温まった状態で入ればそんなに暖かさは感じないのである。
戦争がひどくなればその速度で平和を求める気持ちも強くなるということであり、平和主義者たちが平和を訴えれば、次に起こる戦争はひどくなるということである。
この真理を知らなければいろんな出来事に失望することになるが、知っていれば失望は少なくなる。男女間の恋愛や人生の失敗や成功などすべてにおいて適用できる哲学である。
ある小説を書き上げて、先ほど、応募した。結果はどうなるかわからない。二人の女に読んでもらったら、若い女は泣いた、と言い、もう一人の老女は、面白かった、作者の想いが良く伝わってきます、という返事をくれた。選評はかなりの線までいけるのではないか?と思う。実体験が半分以上占めているから、私を知ってる読者にはモデルの正体がばれやすく、そこが懸念である。
その中で、三島由紀夫の(愛の渇き)という作品に出て来る、(愛さえなければ)という言葉を借用させてもらった。愛さえなければ無事に過ごせたものを、あったがために悲劇に落ちてしまった、と言う意味である。応募した小説は俗にいう三角関係であるが、主人公つまり自分がその女に愛があったあった、と指摘されれば、すごく複雑な気持ちになってしまう。それは自殺未遂をした女への憐み・同情なのか?神の説く普遍的で広いものであったのか?男女の愛、だったのか?など、区分が出来ないのである。キリスト教でも見えるものはすぐ消えるのでむなしく、見えないものにこそ価値がある、と言うが、その言葉通りに、見える言葉には変えられないし、変えれば嘘になってしまうのである。
世の中にはこうやって、言葉にされたために本質や真実を失ったものが多すぎるから、噂やマスコミの言葉はそのまま信用はできない。歴史もそうであるし、いろんなものが誤解されて通用しているのである。