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知恵が原罪であった

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日記
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nakamura 2021-1-17 14:09

  聖書の(創世記)、その初めの部分に、原罪のことが書いてある。有名な挿話であり、聖書を象徴するような内容で,キリスト教が罪を原点にしていることがわかる。

 神は人類を誕生させ、その繁栄を望み、永遠の命を与えるつもりであったが、一つだけ指示を与えた。森の中には豊富な果実が実っているから、好きなものを食べて良いが、(知恵の木の実)だけは食べるな、と言った。ところが、最初の人類であるイブは(神の言うことなど聴くな、神のようなに自分の意志をもって行動してみては?)と蛇にそそのかされた。イブは食べ、夫のアダムにも食べさせた。その結果、神の指示に従わなかったために、その夫婦(人類)は永遠だったはずの命を失い、楽園から追放され、地面に這いつくばって働き、生きるようになった。

 と、いう内容であるが、二千年前に書かれたこの挿話の中に驚くべき真理がひそんでいる。かんたんに言えば、知恵・自我というものである。それに、妻のイブはそれまでは裸であったが、生じた知恵・知性によって恥ずかしさをおぼえ、腰を布で隠すようになったのでもあった。神の言葉を信じておれば良かったものを、目先の快楽・利益のために、禁断の木の実を食べ、、自我を持ったために(永遠の命)を失ったというこの話はわれわれ現代人にまで通じていて、ハッととさせられる。アダムとイブのように、わたしやあなた達は知恵と自我を働かせて目先の生活を生きようとしてきたことが今回のコロナ事変によって、はっきりさせられたのである。

 人類が考え出した科学や数学などもろもろの学問は真理・神の側からみれば、しょせん浅知恵にしか過ぎないことに気づかねばならない。自我だってそうである。本当のものの姿は資本主義の考えの中からからは見えず、見えない世界にいて、見ようとすれば隠れてしまうのである。見えない世界にこそ真実と価値があるのである。

 資本主義の世界は利益と数字の世界にしかすぎず、その観点でしか物事を見ていないことを知るべきである。浅知恵と利己的な自我なのであり、わたしたちは産まれてこの方それにいかに振り回されてきたことか!それに、効率主義とは欺瞞であり、見せかけにしか過ぎない。たとえば、一時間かかっていた目的地を車で五分で行けたとして、多くの者達は時間を儲けたと考えるだろうが、そこに貴重なものがあって見落としたことを想像出来ないのである。

 今こそ、敗北した資本主義を捨て、原点に立って、自己や社会、自然を見つめなおすべきである。自然回帰には素晴らしい世界が待っている。

 

人間知性の劣等生

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日記
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nakamura 2021-1-17 8:59

  大学入試センター試験の動きが報道されているが、わたしは成績不良者であったこともあって、冷笑的な気分になる。コロナによって人間たちの知性の見せつけられている現在、試験の内容がどうだの進み具合がどうだの、という前に人間の知性の歴史や正体を検証すべきではないか?さらに、その価値を認めたうえでセンター試験をやるべきではないか?

 コロナの報道においても、感染者数、退院者数、死者などは公表しているが、被験者数の数字がでておらず、感染が天文学的な数字で増えている印象しか与えない。被験者数は感染者数と正確に比例する。その矛盾に気づかず、数の勢いに負けている。自動車が発明された頃は、便利さ、快適さ、スピート、操縦性などさかんに訴えられながら、大気汚染に目が向かったのはほぼ五十年後である。メーカーは大気汚染物質を減らすことは出来ないといいながら、排気ガス基準に合格する車を生産し始めたではないか?

 原発の場合もそうである。

 色んな世界の数値を分析してみると、他の視点・総合的な視点が欠けていることがわかる。ほとんどの人はそれに気づかず、振り回され、まちがった事実を信じてしまっている。マスコミも報道する前にそのことを知りながら、視聴率があがれば良い、と言う考えしかないので、戦時中におけるでたらめな数値をだし、数百万人の死者を出してしまった。その教訓を十分に学んではいない。

 コロナに知性はどうか?

 感染者数、退院者数、死者の数字はもちろん、ワクチン接種の動向を見ながら、変異種を送り出し、さらなる反撃に少しもひるみはしない。全世界の死者を一千万人にした頃、大成功の気炎をあげてひとまず舞台を下り、つぎの戦略・作戦をめるであろうし、他のウイルスたちもコロナの成功に学んで発達するに違いない。

 全世界の知性を動員しても、微小なコロナの前に屈してる現在、それは明らかに人間知性の敗北である。デジタル、AIの応援が入っても、偏向的な視点に気づかない限り、堂々巡りである。

 普遍的、俯瞰的な視点は自然の中にしかないが、それを知った時、人間は初めて生まれ変わり、新人類になるであろう。

自然界の倫理

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日記
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nakamura 2021-1-16 9:50

  人間社会の出来事は、ニュースでじゅうぶん知られるとおりだが、自然界、動植物のことが人間社会並みに報道されることはない。平等に報道されるようになれば、人間も自然界の一員という見方になり、わたしたちの立ち位置もわかるはずであるが、人間中心主義は当然だという考えが染みついてしまっている。

 既成の事実をひもとけば、野生の倫理は掟であり、人間社会のそれ以上にきびしく護られていることがわかる。まず、仲間、同種のものを殺したり、食べたりはしない。だが、人間社会での殺人行為は日常的なことであり、戦時中であれば人肉を食べることさえある。

 野性の世界では子供や妻の虐待はしない。

 自殺もしない。

 自然破壊もしない。

 自然に沿って、生きていく。

 植物の世界をみれば、野菜たちの生き方がわかってくる。人間によって育てられ、繁殖をしてもらう彼らは、変種をして人間に毒を与え、攻撃することはない。美味しい味を出して、食べてもらい、末永く、共存しようとしている。コロナは逆に変種をして、感染力を強め、ワクチンに対抗しようとしているが、結末は絶滅が控えているようである。

 共存、の方が賢い生き方ということになる。

 決定的なダメージを与えるのではなく、そこそこに互いを修正しながら生きていくのが賢明なようである。人間関係においてもそれを用いれば豊かな関係が保たれる。

 植物の世界でも競争はすさまじい。まず、畑に種をまいてみよう。土と水気と太陽があれば生命が生まれ、成長するようにできている。その仕組みは誰がつくったのか?となると、まだ、わからない、というしかないが、それがわかった時、はじめて真理が見えてくる。種を播いて二週間ほど待ってみると、いろんな芽が出てくるが、残念ながら、それはその地面に前から落ちていた雑草なのである。彼らは高く伸びることによって、他の芽の成長の邪魔をし、養分を独り占めするのである。一か月も経てば畑は草だらけになり、野菜の芽は消え去っている。

 人間に過保護に育てられた野菜は雑草たちに対抗できず、その肥料になってしまうのである。だが、人間が生存している限り、命を与えられていくことになる。これは依存ではなく、共生、共存であり、人間もそうしなければ生きていけないのである。

 人間界の倫理より、自然界の倫理のほうに学ぶものが多い。

 自然界の倫理と言うのは豊かな生を営むための約束事みたいなものであり、コロナ禍を教訓にして、人間界より自然界の倫理を学ぶべきである。

 

 

 

自然界は共同体である

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日記
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nakamura 2021-1-15 16:13

  一般的に共同体と言えば、人間世界のことである。ほとんどの人はそのように考えるであろうが、自然界そのものが共同体である、とみなせばすごくわかりやすくなる。食物連鎖を例にとってみよう。鹿が草を食べ、その鹿を狼やライオンが食べ、そのライオンをハイエナが食べる、その構造は捕食して生きることであるが、それによって増えすぎないように調整されているわけで、死滅さえも構造の中に含まれていて、悪いことではないのである。増えすぎればまちがいなく食べ物がなくなって絶滅するしかない。悪い、と考えるのは人間だけである。目の前で仲間が食い殺されると、悲し気な気配を見せる動物もいるが、終わったこととして次の行動に動物たちは移る。

 動植物たちも助け合いの精神を持っている。イソギンチャクはヤドカリの上に乗り、運んでもらい、代わりに食べかすをヤドカリに与えている。これは中学校の理科でも習う科目であり、そんな事例はたくさんある。人間だけが特別な精神を持っているわけではなく、自然界はたがいに助け合ったり、時には相手を食べさせてもらったりして成立している。まさに共同体なのである。これを壊す者は必然的に排除されることになる。

 食物連鎖の頂点に人間は座り続けていたが、数が増えすぎ、自然をも平気で破壊するとなると、共同体の支配者は黙っていなかった。コロナと言う密使を送り込み、人間退治を始めたわけである。ある程度、痛めつけて目覚めさせればコロナは去って行くに違いない。

 それと相前後するように温暖化防止、脱炭酸ガス社会などの実践にかかり、人間たちは重い腰をやっと上げはじめた。この流れを大事にして、変化の動きをゆるくして、スロウ・ライフ、スロウ・フードに変えながら、もっとゆっくり自分の人生や社会を眺めれば新しい色んな発見に出会うに違いない。

 話は変わるが、実践倫理研究会のおばさんが、冊子をポストに入れてくれている。時々、読むことがある。(倫理)とは自然の摂理によって出来上がったもの、という巻頭言が印象に残り、共感している。ただ、怒ったりせずに心を平安にしていれば良いことがある、と言う部分には少し、頭を傾げることがある。怒りや反抗は大事なことだと思うからである。

コロナが淘汰する人類

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日記
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nakamura 2021-1-15 11:21

  コロナの感染の勢いが凄まじく、南極に住む人にも感染したと言うのだから、驚きだ。各国の政府が緊急事態宣言を出したり、ワクチンの接種を始めたというのに世界の感染者が一億人に達するのは食い止められない勢いである。

 弱い者から殺されていっている。老人、糖尿病患者、心肺の病気持ち者、心を弱めた女、子供たちの自殺など自然淘汰の原理を働かせているが、それは人類が自然を征服し、次々に絶滅種を増やしていった足跡をたどっているわけである。まわりを見回しても、田んぼからゲンゴロウ、ドジョウ、ザリガニ、アメンボが一匹残らず、消された現実に目を向ける日本人は少なく、自分がその加担者の一人であるという自覚を持つものはいない。俳句や和歌をひもとけばいかに日本人が自然を愛する民族であったかがわかるのに、この豹変ぶりは資本主義の快楽、利便性に負けたとしか言えない。

 そんな観点からコロナを見れば、コロナは洪水で世界を覆ったといえる。だが、自分達のエサである人類を絶滅させるわけにはいかない。

 わたしはいつでも淘汰されていい者であるが、コロナ禍で生き残る者は次代を切り開く先達者であるにちがいない。自然との共存、共生を知り、それにそって新しい時代を創る者である。それには新しい哲学が用意されなければならない。

変異と芸術

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日記
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nakamura 2021-1-12 7:02

  不自由な歩き方を描写すれば、それは芸術に変わるのではないか?と前回の日記で書いているが、そのことについてもっと考えてみた。それはつきつめるところ、障害というより、変異した歩き方ということになる。わたしはドモリであるが、(おれは・・、ここに、イイるのにオオおまえは、イイない)という文章にしてみればどうなるか?読み手は戸惑い、ドモリの世界に引き込まれるに違いないし、それは不快なことであろう・・?だが、その表現が地の文ではなく、登場人物の個性として使われれば、効果を出すことができる。

 三島由紀夫の小説(金閣寺)の主人公はドモリであるが、そのコンプレックスと鬱屈した心理が最後に金閣寺を放火するという流れにすごい効果を出している。その他の分野でも、障害と言うより、(変異)のエネルギーを作品の効果にしているものは多い。アニメーション・ダンスというのがあり、舞台で実際見たことがある。若いタレントがまるでスローモーションを再現した動きで歩き、鬱屈したエネルギーにすごく感動させられた。ネットの画像にも出ていたが、今は見当たらない。歌舞伎の動き方も動作をすごく遅くすることで、特異な世界と強いエネルギーを生みだし表現している。

 障害にたいする見方や考え方が変異したエネルギーとして普及すれば、それは芸術に変わり、優劣の世界から解放されるのである。その日は、近い、と思う。が、それを公開することにはすごいパッシングが待っているので慎重でなければならない。脳性まひの人が歌う場面が、NHKで出たことがある。それは出ない声を引き絞るようにして歌っていたが、感動までにはいたらなかった。デフォルメがじゅうぶんでなく、芸に昇華するにはいたっていなかったのである。

 精神障害の場合だって、芸術になる要素をもっている。ノーベル賞をもらったサムエルベケットという小説家、その作品の中には精神病者特有の反復言葉が使われ、作品になっている。障害の分野はまだ未開拓であるが、それゆえに宝が眠っているのである。

自分の価値基準

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日記
執筆 : 
nakamura 2021-1-10 21:13

  自分の価値基準で話しをすると、まわりの者達から浮き上がってまい、仲間外れになり、いじめられるようになることが多い。私の場合もそんなことがあったが、逆に持ち上げれれたこともあった。NHK営業部で集金の仕事をしていた時がそうであった。職員や管理職たちはサラリーマンだから、トラブルを起こすことを怖がり、少しでも怖い者がいると、揉み手をしてきた。(そこまで言えるあなたがうらやましい。そんなあなたは哲学者だ)と何人かの管理職委は言った。

 一撃必殺の世界にいたせいで、群れの哲学は自然に知っていた。群の雑魚どもを相手にするのではなく、その中のボスと闘い、やっつければ群れは全部自分になびいてくる。そうなると自分がボスになってしまうから楽なものである。

 ラジオの人生相談など聴いていると、いじめられて苦しんでいるという相談事がすごく多い。いじめられる者は人陰にいて浮き上がってしまう者である。わたしは小学校の頃から自分の価値基準が世間とは異なっていたし、世間や大人たちはオカシイといつも思っていた。学歴信仰、出自の信仰、美形の信仰、金銭の信仰など、それらを基準にしたおしゃべりをきいていると、胸糞が悪くなるほどの俗物性を感じた。

 多数派は異物に排他的である。排他される側になれば自殺をしたくなるほど、辛くなるが、自分の価値基準を貫けば俗物たちの上に立つほどの力を持つことのなるのである。多数派が正しいわけではない。単に多数派であるから力が強いというだけで、真理の世界とは関係がなく、したがって彼らになびいたり従う理由はまったくないのである。

  LBGTを例にとればわかるように、今の時代はそれを障害者としてみなくなったではないか?多様性の中の一つの個性としてみるようになった。先日、障害者の諮問委員会があり、わたしは発言した。(障害者が手厚い施策でまもられている現在、障害者の定義は変えられるべきではないか?体や精神に障害があっても自立して働いている人は障害者の認定をすべきではないのではないか?障害は一つの個性としてとらえられるべきではないか?不自由な動きで歩いている者がいたら、アートみたいに個性的です、と言えるようになれば障害者という言葉はなくなるにちがいない。

 

年越しの出さずじまいの白封筒1

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nakamura 2021-1-2 8:55

  おれは、ここに、いるのに、おまえは、いない。

 心の中にいても、それは仮象でしかない。

 今のおれは、あの時の、ままだが、おまえは大阪の実家に戻ったまま、それからどうなったかわからない。おまえは何度かおれの家の電話に声を届けたのだが、おれは仕事でいなかった。ツマが、電話でおまえと会ったが、おまえを歓迎するはずはなく、ぎゃくにおれとおまえとの出来事、その成り行き、それにおれの欠点を執拗に探し、聞き出そうとしたにちがいない。

 それは、もう、四十年前のことになる。

 この寒々とした一月一日、それは四十年前、おまえが三度も家出して、波津の海で身投げ自殺をはかろうとしたあの時期の寒さを思い起こさせる。十二月、一月、二月と三度も重なり、狂気の沙汰だと、交際相手の弟は言った。

 それから世間ではあいかわらず、いろんな事件や出来事が起こったが、おれのおまえに対する気持ちはあの時のままだ。それは手あかのついた言葉ではあらわせないし、あらわそうとすれば自分の心に浮かぶ音楽でしかない。時につぶやくように唇に伝うことはあるが、曲にしようとすれば消えてしまう。

 今、これを打っているパソコンの上、そのプリンターの陰に封をしていない白封筒がかくれている。一年前から投函されそうにない。おれがそれを握り、郵便ポストに行くときは、紙爆弾をかかえた決心がいるにちがいない。実家宛ての手紙で、おまえの近況を問うだけの文であるが、お前の父や母、弟などの目にふれれば、まちがいなく悪夢を呼び起こし、もしかすると破裂させるかもしれない。

 ポストに入れないまま、プリンターのそばで、一年がたった。

 早くしなければ、おれの余命はリミットに近づくだけだ。

年納め

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執筆 : 
nakamura 2020-12-31 10:57

  サラリーマンではないので、仕事納めより,年納めのほうがふさわしい。

 午前六時半、布団の中から庭を見ても、夜闇が居座っている。七時になれば明るむことがわかっていたが、今日は大みそか、年納めの日である。起き出して、昨日作った松竹梅のお飾り、その数を数えると三十九本であった。これが今年、最後であると思い、今年の後半に入って、稼がせてもらったことを感謝した。

 ポンコツ車に乗ると、不安がよぎった。積雪、暴風の天気予報が出て、総理大臣も、正月過ぎまで外出、を控えるように訴えていたのである。それに、軽のポンコツ車は走行距離が十万を超えていて、タイミングベルトを交換しないとエンジンが壊れると警告されていたのである。費用は五万円かかるという。十一万キロまでは大丈夫と、言う友人がいて安心したが、いつ壊れるかわからない車を運転するのは、自分の命もあの世にいっしょに持って行かれるのではないか?と、いつも決死の覚悟、をしてしまう。  

 出荷先のスーパーマーケットは二駅先にある。道路は空いていて、小雪がぱらつく程度であったが、ワイパーのゴムは擦り切れていて、回しても水滴が残り、視界は悪い。ヘッドライトに照らされて、雪が舞い、フロントガラスに擦り寄る。

 十五分ほどで店に着き、車を入れた。マスクをし、名札を胸に付け、届出用紙に名前と時間を書き、三十九枚の値札をプリンターから出した。裏口の通路は台車を押す従業員が行き来していて、店内は混雑していた。日に四千人ほどの客が入る店である。

 産直コーナーに行って、カゴを取り出し、お飾りに三十九枚の値札を張って、入れた。

 帰りに、馴染みの係員の女と出会い、今年はお飾りが売れて良かった、と自分がいうと、私も昨日買おうと思って行ったけど、売り切れだった、良かったですね、とこたえ、来年もよろしくお願します、と言うと、来年、またお会いしましょう、悪いけど、夕方には半額の札を張ります、と言い、(良いですよ。良い正月を迎えてください)(ありがとう)と笑顔を見せた。

木枯らしに枯葉人生年を越す

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日記
執筆 : 
nakamura 2020-12-30 9:34

  今朝は寒波襲来の予報があり、車で、松竹梅のお飾りをスーパーに持って行った。売れ残りが三本あったはずだが、無かった。担当者に聞いたがわからないという。万引きが持って行ったであろうが、時々あることであったから気にしなかったし、彼らがそのお飾りで新しい年を迎えっることも良いことかもしれない。

 帰宅すると、明日の出荷のためにお飾りを作り始めた。予報通りに強い風が吹き始めた。庭の枯葉が風に舞い、体は風にさらされ、鼻水を時どき垂らしながら、三本を重ねおもむきを考えながらハサミで切っていった。明日は大みそかで今年最後の出荷になる。これを買ったお客さんたちは、好い年に期待を込めるであろうが、ニュースでは、コロナのために貯金が無くなるという悲鳴を伝えていた。それを思い返しながら、自分はなんとか年を越せると思い、複雑な気持ちになった。彼らにこの松竹梅の飾りをプレゼントすれば少しは気持ちが晴れるであろう。知り合いの三、四人に、昨年、配るとすごく喜ばれたので今年も配ろうと思う。自分のできることを相手にしてあげれば、世の中は明るくなるのである。

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