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一か月ほど前に、ある老女が、黄色いショウブが消えたね、と私に言い、そういえば、おれの家の前の川岸にも見えなくなった、とこたえた。それから、その川の隣の休耕田からも消えたことに気づいた。
一週間前に、その老女は、ツユクサも見なくなったね、と言い、自分の家の庭で五か所ほどで咲いていたのが、春になっても紫色の花が見えず、茎も葉もなくなっていることに気づいた。ツユクサはじゃまな草なのでいつも雑草として刈り取っていたが、消えてしまうとなつかしくなる。すごく丈夫な花で、水分の蓄えが十分なのであろう、刈り取ってコンクリートの上に置いていても一か月は枯れずに生きている。
ネットで、ツユクサが消えた、を検索すると出ていた。昨年の十月に見かけなくなって、不思議に思っていると、今年も出ない、というようなことが載っていた。
そのことがマスコミに出てはいないし、ほとんどの人は知らない。気候変動か環境汚染かわからないが、農家が田植えをしようとしているが、米が芽を出さない、となったらどういうことになるであろうか?恐ろしいことである。
身の回りではゲンゴロウやドジョウ、川トンボなど、姿を消していったものは数知れない。人はその順番を待っているに過ぎない。
今の世の動き、風潮はなにか気持ち悪く、洗脳のはてに怖い世界へ連れ去られてるように思える。五十年前の新左翼運動の時には、敵の姿が、アメリカ帝国主義・属国・日本政府としてはっきり見えていたが、今は反・差別、男女共同参画などと、さも抑圧された者達の復権をみせかけにして、言論統制を強め、少しでも反発する者がいればネット上でやり玉にあげ、封じ込めているのである。女だてらに、女のくせになどと言ったり書いたりすればそのうち罰せられるようになるにちがいない。誰かがチャチャ族をあやつり、火を付けさせている。
性に関して発言すること自体がこわくなり、結局黙り込んでしまう。性の領域が不可侵の世界になってしまうのではないか?
性とは生き延びる上においても大事なものであり、誰もが避けて通れない世界である。奥が深く、単純に割り切れない部分が多く、神秘と魔力に富み、誰しも命をうしなうことすらある。そこが踏み込んではいけないことになると、密室の閉じ込められ、何が起こるかわからなくなる。
たんに男女差別と言わずに、男と女の属性・個性をもういちど振り返って議論すべきである。
このタイトルは五十年ほど前、新左翼運動がさかんな頃に、吉本隆明氏が出した本で、有名になった。その頃はタイトルにひかれていろんな論評の場に顔を出したが、読み返してみると、タイトルにふさわしい内容は見当たらず、彼はコピーライターではなかったか?とささやかれてもいる。共同幻想論、という本も同じである。
自称小説家として、差別用語を思い出してみると、やはり生々しく、蔑視、差別、偏見を含んでいながら、人間の心象を表現し、時代の思想を背負っているといえる。差別する側の優越感、される側の心の痛みが手垢となってしみついている。わたしは、ドモリ、であるから、その言葉がささやかれたり活字に出ていたりすると、ビクッとすることがあった。今では、時々ドモリはじめると、故意にどもる真似をしたりして、個性の一部ともとらえられるようになったが、ここまで来るには人知れない難題や苦労があった。
差別用語かどうかで言語をとらえると(負)のイメージがからんでくるが、(美)という観点からとらえると、微妙である。ナチスの収容施設や拷問道具、ギロチン台などは加害者側が使ったものであるが、大切な遺物として残されており、その時代の証拠にもなっている。差別用語が差別用語として指定されれば使う者はいなくなり、死んで消えてしまう。小説の世界には差別用語はかなり残っているが、出版社は読者にその背景を理解してもらうする姿勢でのぞんでいる。
差別用語になって撤廃されることはある意味で、その時代の削除につうじることであり、慎重でなければならない。国民・読者に理解を求め、なぜ、そんな言葉が使われたのか?人間の心はなんなのか?など論議して、検証するべきである。マスコミが非難しているだけと言う理由であれば歴史の本当の姿を失ってしまうことになる。それに言論の自由をうしなうことであり、不適切用語の烙印を押されれば、権力にとって言論統制がしやすくなる。今の時代のセクハラ発言なども、権力側にうまく利用された言論統制なのである。
マスコミに、差別の事例が取り上げられない日はない。読者の目をひき、視聴率を稼ぐためだけだと考えたくなるほど、微妙な部分に入り込み、いつまでもモグラ叩きで収拾がつかず、もっと大事なことがニュースから置き去りにされている。例えば、ツユクサや黄色い菖蒲が近隣から姿を消し、何故なのか?ということなど、身近な異変は見過ごされているのである。
それに大きな視点・観点を見失い、袋小路に入り込んで身動きが出来なくなり、いつのまにかコロナという恐るべき生物を人間社会が生み出し、いまだに右往左往していることである。
差別問題に関しては、差別とは何か?区別とは何か?を考え、区別すべきではないか?
身近な事例を考えると、まず、清掃人のことである。そこに男女の差別がからんでいるとは、誰も想像しないであろうが、実は存在しているのである。清掃人の募集をしても,女性の方を採用する。なぜなら、トイレの掃除があり、男は女子トイレを覗きたがる傾向があるが、女性にはほとんどないからである。
これは逆差別というより、区別として判断すべきである。
次にスポーツの分野。ほとんどすべてのスポーツは男女に分かれて競技をし、得点で順位が決まるのである。男女の差別、というのであればすべての競技を男女混合にすべきではないか?ここで体力的に女は男に劣っているから、などと発言すれば大問題になるから、このことに関わることは出来ず、タブーになってしまう。体力的に劣っていることを差別ではなく、区別と判断すれば男にハンディを与えて、公平に競技が出来るというものである。
女子選手の下腹部や胸を写真に撮って公開することはセクハラである、と言うことになりはじめている。男子選手の場合はまだ、そんなことはないが性的少数者が増えてくればこれもセクハラということになるであろう。
そろそろ、袋小路の世界から大局世界へ、方向変換すべきではないか?世の中からエネルギーが失われている。家の前に公園があって子供がうるさいから撤去させたり、保育園の子供の声がうるさいと、抗議をする老人たちのお粗末さを見せつけられるのは嫌になる。
幼い頃から、うつ病の気があったことが、今、わかる。調子にのって羽目を外したり、トラブルを起こしたりしたことはなく、おとなしい、優しい男として成長したようだが、自身は喜怒哀楽の激しい、人の好き嫌いの激しい男であった。
73歳になったせいか、朝、目覚めて、と言っても午前二時ころに目覚めて、そのまま布団から出ずに、ぐずって考えているのである。産直店に出していたもみ殻が減り、車で持って行かねばならない、その帰りに精米所に行って、二十袋ほど、取って来なければならない、雨は降っている、明日にしようか?など思い迷っているうちに布団の中に居ることが耐えられず、起き出してしまう。
車を出して、途中で、コイン精米機に寄るが、米ぬかはかすり取られた後であった。米ぬかも産直店に出しているのだ。産直店について、もみ殻を七袋補充し、米ぬかは五袋残っていることを知った。店内を見て回り、竹の子が出ていたが、昨年の五分の一くらいで、少なかった。一週間前、自分の山に行ったがイノシシに三十本ほど掘られていて、一本も取れなかったのである。年々、野生植物が減っていっている。
帰宅して、四十畝ほどの畑を回る。敷地内にあるので楽である。フキが大きくなり始めたので出せば売れる。先ほど、産直店では、四本が百五十円で売っていたのでその値段にしてみよう。ニンニクや玉ねぎが大きくなりはじめている。玉ねぎは三個で百五十円で出してみようか?ホウレンソウも大きくなり始めている。二日前に、ナスの苗を十本、ミニトマトを八本植えたが、小雨にかかって、うれしそうであった。
そんなわけで、今日も昨日とはちがう一日がはじまったのだ。午後四時からスーパーで買い物かごの整理のバイトをする。その前に女友達の家に寄って、ポストに、小説の続きを投函しようか?読後の意見、感想を聞きたいのである。
明日の朝は、庭の畑からの朝日で、眼覚めるだろう。布団の中でぐずり、それから、八時に出る株の情報をみるためにスマフォを開けるだろう・・・。
この二三年の困窮生活から抜け出、新年を迎えた気分になった。昨年の秋にアルバイトを見つけ、三万円ほどの収入で、生活保護を受けなくていい、予想がついた。この二三年は苦しかった。そんなことを書くと、ちっともレアじゃない?と言われそうであるが、自死の覚悟もしていた。小銭も入り、健康なので、あと十年ほどは死にそうにない。
でも振り返ってみると、諦めも肝心、ではないか?現代人は欲が強すぎる。貧乏すること、病気になること、いじめられること、首になること、交通事故を起こすことなどなど際限のない悩みに金持ちも貧乏人も犯され、心の休む暇がない。いっそのこと、諦めが肝心、そのままけっこう、という気持ちになることはできないのか?と、考えてもそのようになれないように仕組まれているのである。悩みが多いから、金貸し、医者、コンサルタント、斡旋業者、保険会社などが存在してるのである。資本主義は人間の悩みで成立している。
近頃、アルバイトや野良仕事が忙しくなり、山歩きができなくなった。
山歩きをしていた頃を思い出す。その時浮かんだ俳句、
(せせらぎや永遠をつま弾く水光)
こんな境地をまた、訪ねたい。
二歳児の、悲しい思い出。
目を覚ますと、あばら家の雨戸の隙間から朝日がさしこんでいた。また、誰もいない、一人ぽっちだ。自分を置いて、母も父も婆ちゃんもどこかに出ていってしまった・・。
起き上がり、玄関の土間に向かって、這いながらすすんだ。まだ、歩けなかった。框(かまち)まで来ると、傷みを予想して、すでに頭に痛みが走っていた。すると、頭から土間に落ちた。頭が割れるように痛み、耐えながら、じっとっしていた。玄関の敷居を這いこえて、庭に出た。誰もいない・・・。涙があふれてきた。
(母ちゃん!母ちゃん!)と叫んだようだ。返事はなく、目の前には庭の地面が門扉まで続いているだけであった。誰もいない。まわりの家にも人はいない。
大声で泣き叫び始めた。
あまりにも泣き叫び続けたのでいつものように横隔膜がけいれんをはじめ、止まらなくなった。呼吸も苦しくなり、それに耐えた。
それからどうなったか憶えていない。・・・眠ってしまい、何時間か後に母が戻って来たのであろう。
七十三歳になった今でもこの出来事は鮮明に残り、横隔膜に痙攣が自分のドモリに悪影響を与えたのではないか、と思う。それから、小学校に入ると、夏休み、春休みには必ず、親類の家に預けられた。
なにか理由があったのか?と母にたずねてみようと思いながら、両親は亡くなってしまった。
自分はその時、片割れだったと思う。母の体から産まれ出て離れ、外界に放り出されたのである。一粒種であった。だから、元の鞘に戻ろうと、泣き叫んだのである。この歳になっても、女が欲しいと思うのはその二歳児の頃のように、泣き叫びながら追い求めているのであろう。
キャッシュレスから仮想通貨の時代に変わりつつある。キャッシュレスの場合はまず現金を基本にしているが、仮想通貨の場合ははじめは現金でそれを買うが、それから先は、仮想通貨が市場で売買されることにより、価格が決まっていき、値幅の制限がないのでほぼ無限の値動きをする。それだけならまだしも、仮想通貨で車や食材を買うことになり、そうなると、金銭感覚はなくなり数字上の感覚でしかなくなる。
その数字だけで商取引も成り立つわけであるから、初めにあった(金)は姿を消し、いつの間にか仮想通貨に乗っ取られた形になり、金は姿を消してしまう。虚が実を食う、である。
これが時代の潮流になれば仮想国家、仮想恋愛、仮想家族、仮想職業などに広がり、すべての実世界を仮想が征服してしまうことになる。今はすでに、眉を濃いく、格好良くすることがブームになり、ほとんどの男女が美男美女に変身しているから、もう、その流れに皆がはまってしまっているのである。
仮想顔で、仮想表情でメイクして、人々は今日も生きていくわけである。
安部公房の傑作(他人の顔)の世界ではないか?
近頃、加齢とともに、下半身の興奮がさびしくなった。エロビデオは五十本ほど持っていて、部屋の中に散乱しているが、埃をかぶり始めたのもある。映像をかけて、観てみるが、あの頃ほど、興奮しなくなったものもある。それは下半身の元気がなくなったにしか過ぎない。逆に作り方がよく見えてくるようになり、自称作家として、画像の裏の世界が見えてくるし、小説を書く上においてすごく研究させられる。
エロだろうが(純)だろうが、それはジャンルの違いにしか過ぎない。下半身を興奮させるか心を興奮させるかの違いでしかなく、エロだから(悪)で純だから(善)ではない。以前は悪書追放の張り紙が駅のゴミ箱にしてあったが、最近は見かけない。
興奮させられるビデオは、監督が最初から作り方をよく考えているし、女優も男優も性行為をしながら、それを演じながら興奮しているのである。この作品は女優の下着にすごく凝ることによって効果を出す、この作品はなにげない女優の仕草、表情、言葉によって効果を出す、この作品は異常な場面を出すことによって効果を出す、など計算されていて、それはあらゆるジャンルの作品に共通することである。だから、素晴らしいエロビデオをつくれる監督は素晴らしい純作品をつくれるものである。
それにもう一つ考えることは、創作のすごさなのか?現実のすごさなのか?である。実の母と息子の性行為をビデオに撮ったものを持っている。そばに父親が病床に伏して寝ていて、父親の目を盗んで行為をするわけであるが、あまりにも母と息子の顔が似ているので、驚かされ、興奮してしまう。ただ、カメラは一台にみで固定されているので一つの角度からしか撮られていない。母親はやはりビデオに録られていることを意識して落ち着かない表情をしており、息子は強引に迫っていく。
すごく迫力があるが、創作をくわえて加工すればもっと素晴らしい作品になったとおもう。自分が書きかけていた(磁場)は書けなくなって、放棄した。もう一つの作品(贖い)の改稿のとりかかっている。ある程度の評価を得て、読んで泣いた女も三人はいる。これも体験したことであるが、体験と創作をうまく兼ね合わせていくことが求められている。
さて、今年はこれにかけようと思う。
その女友達は亭主を七十歳で亡くして以来、三年間は喪に服していたが、それからは男に走って行った。色気違いと噂されるほど積極的に求め、相手は十人ほどもいたが、死に別れ、生き別れ、の結果になり、誰とも結ばれなかった。一週間前、十人目の男をガンで、亡くした。彼女はその彼と亭主の位牌にお茶、コーヒーをあげ、手を毎日、合わせるという。二人だけでなく、十人も供養したら、仏壇にのせきれなくなるであろう。
男と女の出会いの不思議さを、いつも、わたしは考えていた。自分が女にもてないこともあるが、七十三年間、生きて来て、ほとんどの難題は解きほぐせるようになったが、男と女の結びつきだけは解きほぐせない。
彼女の男性経験をききながら、十人目の男性とはコミュニティー・バスの中でぐうぜん乗り合わせ、世間話をまじえ、そのまま別れたが一年後にまた、乗り合わせ、おしゃべりをして気心が合い、家に誘われて行ったという。男は妻を亡くした孤老であった。
彼女はその男性の眼のきれいさにひかれたという。顔は不細工で色も黒く、どこがいいのか?と考えたが、一流企業の管理職をやっていたこともあって、頭がすごく良く、女にも持てる、という。癌で入院して以来、日に四度も電話を掛けて来た、という。風邪は治ったかい?昼は何を食べた?というような内容であるが、彼女は彼の言うことを良く聞き、年金生活で苦しい彼に月に五万円の金をやったという。
この事例について、わたしは考えた。
割れ鍋に綴じ蓋、という言葉である。それぞれの男女に個性があり、鍋にくぼみがあれば蓋は出っ張っていなければ、鍋が合わさって、、鍋の役目を果たさないのである。だから、その両方の部分は、水が高い位置から低い位置に流れるように、重力・引力の法則で引き合うのである。生物の体で言えばDNAが引力をはっきしてすごい力で相手を引き込むのである。人間の細胞は何十億の数があるのであるら、その力は目に見えなくともすごい力である。
このようにして、男女は一目ぼれに近い形で結ばれ、一生、添い遂げるのではないか?そのように仮説づけると男女の結びつきは理解しやすくなる。この時間にも、多くの男女が世界中で相手・片割れを探しもとめているのである。