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キャッシュレスから仮想通貨の時代に変わりつつある。キャッシュレスの場合はまず現金を基本にしているが、仮想通貨の場合ははじめは現金でそれを買うが、それから先は、仮想通貨が市場で売買されることにより、価格が決まっていき、値幅の制限がないのでほぼ無限の値動きをする。それだけならまだしも、仮想通貨で車や食材を買うことになり、そうなると、金銭感覚はなくなり数字上の感覚でしかなくなる。
その数字だけで商取引も成り立つわけであるから、初めにあった(金)は姿を消し、いつの間にか仮想通貨に乗っ取られた形になり、金は姿を消してしまう。虚が実を食う、である。
これが時代の潮流になれば仮想国家、仮想恋愛、仮想家族、仮想職業などに広がり、すべての実世界を仮想が征服してしまうことになる。今はすでに、眉を濃いく、格好良くすることがブームになり、ほとんどの男女が美男美女に変身しているから、もう、その流れに皆がはまってしまっているのである。
仮想顔で、仮想表情でメイクして、人々は今日も生きていくわけである。
安部公房の傑作(他人の顔)の世界ではないか?
近頃、加齢とともに、下半身の興奮がさびしくなった。エロビデオは五十本ほど持っていて、部屋の中に散乱しているが、埃をかぶり始めたのもある。映像をかけて、観てみるが、あの頃ほど、興奮しなくなったものもある。それは下半身の元気がなくなったにしか過ぎない。逆に作り方がよく見えてくるようになり、自称作家として、画像の裏の世界が見えてくるし、小説を書く上においてすごく研究させられる。
エロだろうが(純)だろうが、それはジャンルの違いにしか過ぎない。下半身を興奮させるか心を興奮させるかの違いでしかなく、エロだから(悪)で純だから(善)ではない。以前は悪書追放の張り紙が駅のゴミ箱にしてあったが、最近は見かけない。
興奮させられるビデオは、監督が最初から作り方をよく考えているし、女優も男優も性行為をしながら、それを演じながら興奮しているのである。この作品は女優の下着にすごく凝ることによって効果を出す、この作品はなにげない女優の仕草、表情、言葉によって効果を出す、この作品は異常な場面を出すことによって効果を出す、など計算されていて、それはあらゆるジャンルの作品に共通することである。だから、素晴らしいエロビデオをつくれる監督は素晴らしい純作品をつくれるものである。
それにもう一つ考えることは、創作のすごさなのか?現実のすごさなのか?である。実の母と息子の性行為をビデオに撮ったものを持っている。そばに父親が病床に伏して寝ていて、父親の目を盗んで行為をするわけであるが、あまりにも母と息子の顔が似ているので、驚かされ、興奮してしまう。ただ、カメラは一台にみで固定されているので一つの角度からしか撮られていない。母親はやはりビデオに録られていることを意識して落ち着かない表情をしており、息子は強引に迫っていく。
すごく迫力があるが、創作をくわえて加工すればもっと素晴らしい作品になったとおもう。自分が書きかけていた(磁場)は書けなくなって、放棄した。もう一つの作品(贖い)の改稿のとりかかっている。ある程度の評価を得て、読んで泣いた女も三人はいる。これも体験したことであるが、体験と創作をうまく兼ね合わせていくことが求められている。
さて、今年はこれにかけようと思う。
その女友達は亭主を七十歳で亡くして以来、三年間は喪に服していたが、それからは男に走って行った。色気違いと噂されるほど積極的に求め、相手は十人ほどもいたが、死に別れ、生き別れ、の結果になり、誰とも結ばれなかった。一週間前、十人目の男をガンで、亡くした。彼女はその彼と亭主の位牌にお茶、コーヒーをあげ、手を毎日、合わせるという。二人だけでなく、十人も供養したら、仏壇にのせきれなくなるであろう。
男と女の出会いの不思議さを、いつも、わたしは考えていた。自分が女にもてないこともあるが、七十三年間、生きて来て、ほとんどの難題は解きほぐせるようになったが、男と女の結びつきだけは解きほぐせない。
彼女の男性経験をききながら、十人目の男性とはコミュニティー・バスの中でぐうぜん乗り合わせ、世間話をまじえ、そのまま別れたが一年後にまた、乗り合わせ、おしゃべりをして気心が合い、家に誘われて行ったという。男は妻を亡くした孤老であった。
彼女はその男性の眼のきれいさにひかれたという。顔は不細工で色も黒く、どこがいいのか?と考えたが、一流企業の管理職をやっていたこともあって、頭がすごく良く、女にも持てる、という。癌で入院して以来、日に四度も電話を掛けて来た、という。風邪は治ったかい?昼は何を食べた?というような内容であるが、彼女は彼の言うことを良く聞き、年金生活で苦しい彼に月に五万円の金をやったという。
この事例について、わたしは考えた。
割れ鍋に綴じ蓋、という言葉である。それぞれの男女に個性があり、鍋にくぼみがあれば蓋は出っ張っていなければ、鍋が合わさって、、鍋の役目を果たさないのである。だから、その両方の部分は、水が高い位置から低い位置に流れるように、重力・引力の法則で引き合うのである。生物の体で言えばDNAが引力をはっきしてすごい力で相手を引き込むのである。人間の細胞は何十億の数があるのであるら、その力は目に見えなくともすごい力である。
このようにして、男女は一目ぼれに近い形で結ばれ、一生、添い遂げるのではないか?そのように仮説づけると男女の結びつきは理解しやすくなる。この時間にも、多くの男女が世界中で相手・片割れを探しもとめているのである。
今朝の毎日新聞に、「お母さん食堂」の名称についての論争がのっていた。反対派は女子高校生が筆頭になり、女に調理を押し付けている、という反対論だが、もういいかげんにしろよ、と言いたい。「お父さん食堂」より「お母さん食堂」の方が温みがあって良いではないか!
紙面には賛否両論が出ているが、基本的には、性差に個性を認めるか?どうかである。反対派たちは男女の違いを認めず、すべてを同一にできると考えているのであろうか?体の構造からして差異があるのにそれを同一にしようなんて考えるのは無理であるし、多忙で調理の出来ない女に対して、社会は無責任だと言いはしない。
差別はいけないが、男女のそれぞれの持ち分をわきまえないと社会は成立しない。今回のテーマ以前にあまりにもこんな例が多すぎる。男女の性差を認めるか?認めないか?それをはっきりさせないと堂々巡り、モグラ叩きに振り回されてしまう現代である。
コロナ禍によってあぶりだされたものにはいろいろあるが、わたしの眼には自立を失った国民の姿である。民主主義体制であるから政府や行政に経済的な支援を求めるのはいいが、精神的な面まで求めている姿は情けないとしか言いようがない。
コロナ禍と前後して、家庭内暴力やセクハラ、男女交際、自殺問題、認知症問題、個人的な悩みなどあらゆる難題を政府や行政に解決・支援をしてもらおうとしているのがわかった。その姿勢、時世はおかしいと考える。そのうち、自分の生き方や人生まで、どうしたら良いのか?と頼むようになるのではないか?自分でできそうなことは自分でやるのが民主主義であり、個人主義ではなかったのか?言論、思想、行動の自由を与えられているはずではなかったのか?それを放棄したのですか?と言いたい。
幼児国民になっている?
このような姿勢はますます権力の力を強め、苦労して手に入れた自由と個人主義を捨ててしまい、最終的には独裁国家を自ら国民がつくっていくことになるのである。中国がそれを待っているようだ。民主主義を手に入れるまで共同体は自らの力で出来る事は助け合って、やってきた。歴史をみればよくわかる。その姿勢は活気を生み、社会の力になっていたのである。
ここで国民はもう一度、自立の精神に立ち返るべきである。
やられたら、やり返せ、である。
週に二日ほど、大手スーパーで、買い物かごの整理のバイトをするようになった。三か月ほどたつが、意外な経験をした。84歳の先輩から、仕事がひまになったら、人に見つからないようにそこの客室で休んでいればよい、と言われ、それに従ってしまった。彼はそこでスマホのゲームをかくれて、やっていた。
ところが自分のサボっている場面が、店次長に見つかってしまった。サボりを指摘され、謝ったが、それ以来、眼をつけられるようになった。名札がジャンパーの下に隠れていれば、不審者に思われるじゃないか!と、言われ、その時は不機嫌だったか、叫ぶような態度を見せた。申し訳ありません、気をつけます、と息子ほどの年齢の男に頭を下げた。自分の人生で年下の者に詫びたのは初めてで、もう、辞めようかと考えていた。つぎは、仕事が一段落ついて、商品の値段を見ている時であった。何をしているんですか?商品を眺めるのが仕事ですか?と背後から声をかけられ、ぞっとした。店内の監視カメラで監視されていたのであった。申し訳ありません、といいながら、辞める、という言葉が準備されていた。
何度も謝まっていると、わたしもそんなことは言いたくなかった、辞められては困る、彼はと軟化してきたので、産直品を増やしてはどうですか?と、こちらもおだやかになった。退出の時、業務票に印鑑をもらいに行き、少し世間話をした。喧嘩っ早いはずの自分が低姿勢になり、機嫌を取るような口ぶりになっていた。不思議なことに、その状態に居心地の良さを感じ、正論をはいて闘うより、飼い犬のようにべたつくほうが楽だと考えていた。
自分の負圧感を感じ、それが相手にも効果を与えたということであった。
負圧とは車のキャブレターにも使われている技術で、マイナスの圧力によって相手を吸い込む力である。車が坂道などに出くわすと、負圧を生じさせて、濃い燃料を呼び込み、パワーアップさせるのである。
自分はそのうち、強い負圧をだしながら濃い燃料を呼び込み、爆発させるかもしれないが、その時のエネルギーはすごいものになるであろう。
(勝つことばかり知りて負くることを知らざれば害その身に至る)
とは徳川家康の言葉である。
(贖い)という小説を書きかえているが、自費出版の出版社からの批評で、人物の造形が不足している、女友達からはキリスト教の文言が多くてわからない、と批評され、迷ってしまった。ニ、三日、考え込んでわかり、新しい着眼点が見えた。同時に、両者の指摘がじつは同じであったことがわかった。
贖いとはキリスト教を学んだ者はわかるが、そうでない人にはわからない、と同時に小説がキリスト教の考え・思想を借用していたのであった。それが失敗であり、その安易さが人物の造形に貧しさを招いたのであった。
そこで、日常の人間の言動にヒントを得た。女友達の次男は三十過ぎまで引きこもり生活をしていて、暴力をよくふるい、彼女はアパート生活に逃げたことがあった。次男は今は職を得、結婚して子供もいるので、なぜ暴力をふるったか?疑問に思っていたが、今はわかるようになった。彼女が世話の焼き過ぎ、その圧力が耐えられなかったのである。時々、女友達はわたしにも要らぬ世話を電話で、するので、次男のうっぷんがわかった。弁当配達のバイトをしてるんだったら、一人住まいの老女をハントすればいい、あなたの体が燃えてきたらエロビデオで処理すればいいじゃない、など、平気でしゃべる。よほど、いらんことを言うな!と言ってやりたいが、だまって観察することにしている。
彼女と次男の精神模様を分析するならば、彼女の次男への思いや期待感、おせっかいが彼に乗り移り(憑依)、あるいはコピーされ、そのエネルギーが暴力となってとなってがはねかえってきたのである。憑依とはほとんど宗教の分野で使われるが、科学的にコピーといってしまえばわかりやすいのである。例えば、コロナのRNAが人の細胞にコピーされる、飼っているペットに人間の心や考えが伝わっている(コピー)など非常に身近なものである。
さて、小説の話にもどる。主人公の女は男にふられ、二人の違う男との関係ができ、・・・・・・、それを知って男は暴力に狂っていく。女は悩みながらそこに自分の責任を感じて、ラストで、違う男と性関係のあった家に放火して子ずれ心中をすることになる。
そこで、作者は主人公の女は素直な良い女としてとらえ、相手の男はわるいやつ、ととらえていたが、じつはその男の破壊衝動が女に憑依・コピーされて放火したととらえ直すことではっきりしたのであった。
善悪では判断できない世界だが、分析は出来ているので作品に昇華させたい。
性欲の枯れはじめた今、若い頃の女関係を検証してみると、当時見えなかったものが見え、わからなかったことが少しはわかってくる。男と女は微妙な部分で異なるが、基本的な部分では同じだと思う。今付き合っている女友達は、長電話の中で、様々な気持ちを話してくれるので感動することがある。
彼女の相手の男は七十七歳で、癌と糖尿病にかかり、医者から、あと三か月と宣告されてたが四か月たって、息も苦しくなっている、と言う。彼女に毎日電話がかかってくる。あまり人を家の中に入れてはいけないよ、立ったり座ったりするから腰を痛めるよ、と気を使ってくれると言い、わたしは彼の優しさを感じた。わたしは女にそんなに優しくしたことはなかった。
四十年前の出来事の中で、あの女と自分の関係は何だったのか?と考え、言葉にしてみようとしてもできなかった。愛だとか恋だとかの言葉を使うと、本当の姿が消えてしまい、表現できなかった。今はやっとわかるのである。(そばにいるだけでいい)。歌謡曲の中に出てくる詞であるが、的を得ている。言葉も体の交えもなく、そばに黙って居るだけで、心は和み、幸福になるのである。ある出来事が起こり、それはすごく複雑な事情があり、思い出して、今、小説の中で推敲しながら、あの場面を文章にしながら、やっと書けるかな?という気持ちになった。
その女友達の、彼氏への気持ちも、、そうだと言うし、わたしは彼女と電話で話してるだけでも幸福な気分になるが、ごめん、彼からの電話が入った、と言って電話を切ってしまう。あなたと電話で話してるだけで幸福よ、と今度、言ってみよう。
昨日はいつものスーパーで買い物籠の整理を三時間、やってきた。仕事は慣れたのでどうということはないが、二千五百人のお客さんが毎日触った籠なので、感染が怖くなった。軍手をはめてやっているが、このコロナ騒動を考えると、籠や商品のどこかに付着していると、警戒すべきである。
コロナに介添えをしてもらう、その覚悟はできているが、今の作品を文学賞の受賞にしろホームページの掲載にしろ、仕上げて、世に出してからにしたいのである。一度、落選したものであるが、自費出版系の出版社に送ると、ストーリーが少しもぶれておらず、圧巻される部分がある、ただ人物の造形が弱い、という講評をもらい、自費出版しないか?という電話もかかってきた。無料出版ならすぐに応じるが有料にするには金がない、と返事した。
今、この作品、私の人生の中での最高にショッキングな出来事、その世界にもう一度帰り、関係者たちと再会しながら、想いを膨らませたい。四十年前の出来事である。事件にはならなかったが、数分の時間の早まりがあればまちがいなく事件になっていた。
世に出れば、鬼滅の刃、ほどの評判になるかもしれない。そんなの世間に出すんじゃない、我が恥じをさらすようなもんじゃないか?と知人は言うであろうが、恥多き人生の花を最後に咲かせてやる。
ふきのとう寒に抱かれて春を待つ
量子力学の中で、シュレーディンガーの猫、という有名な説がある。箱の中に猫を入れ、毒ガスを吹き込む。そこで猫は生きているか?死んでいるか?を問う。猫の姿は見えないわけであるから、答えは死んでもいるし、生きてもいる、ということになる。
私は七十三歳であるが、生きているか?死んでいるか?と、問われれば、今は生きているが、長くて三十年以内には確実に死んでいる、のであり、生きてもいるし死んでもいるわけである。今と三十年後を重ね合わせればそういうことになる。
コロナのPCR検査で、陰性と出たのに翌日には被験者が死に、陽性であったことがわかった事例がある。検査が不正確であったと言えるが、実は陽性と陰性が重なり合っっていたのではないか?私は口唇ヘルペスの持ち主である。冬になって塩辛いものを食べたり、免疫力が落ちた時に、日頃は体の奥に隠れているヘルペス菌・ウイルスが出て来て唇のまわりを潰瘍状にただれさせる。ただ、それだけであるから気にはしていないが、全身に潰瘍ができて治療に通う人もいる。私の場合はヘルペスにかかってもいるしかかってもいないということにもなる。
量子力学の話にもどると、量子コンプーターは、従来の0と1の組み合わせから、0でもあり1でもあるという組み合わせを考え出して、計算能力を膨大に増やしている。重ね合わせ理論を一つ広げたのである。
このように重ね合わせの考えが広がってきているのに、人間世界の日常の考え方は、生と死におけるように二者択一でなければ理解出来ず、それから前進しない。それは目に見えない政治権力のせいであろう。前進させれば精神世界の秩序が崩壊するからである。
そろそろ重ね合わせ理論を普及させてみようではないか?(あなた、今、どうしてる?)と尋ねられて、(死んでもいるし生きてもいるよ)と答えるようになれば、死を引き受ける気分になって気が楽になると思う。(就職試験はどうだった?)(通ってもいるし、落ちてもいるんじゃない)、こんなやりとりは落ちることも認めて、楽な気分になるだろう。
わたしは男でもあり、女でもある。
ぼくは子供でも大人でもある。
鳥でもあるし、動物でもある。
など、思考の範囲が新しい領域をもって、確実に広がるはずである。