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今朝の毎日新聞に、「お母さん食堂」の名称についての論争がのっていた。反対派は女子高校生が筆頭になり、女に調理を押し付けている、という反対論だが、もういいかげんにしろよ、と言いたい。「お父さん食堂」より「お母さん食堂」の方が温みがあって良いではないか!
紙面には賛否両論が出ているが、基本的には、性差に個性を認めるか?どうかである。反対派たちは男女の違いを認めず、すべてを同一にできると考えているのであろうか?体の構造からして差異があるのにそれを同一にしようなんて考えるのは無理であるし、多忙で調理の出来ない女に対して、社会は無責任だと言いはしない。
差別はいけないが、男女のそれぞれの持ち分をわきまえないと社会は成立しない。今回のテーマ以前にあまりにもこんな例が多すぎる。男女の性差を認めるか?認めないか?それをはっきりさせないと堂々巡り、モグラ叩きに振り回されてしまう現代である。
コロナ禍によってあぶりだされたものにはいろいろあるが、わたしの眼には自立を失った国民の姿である。民主主義体制であるから政府や行政に経済的な支援を求めるのはいいが、精神的な面まで求めている姿は情けないとしか言いようがない。
コロナ禍と前後して、家庭内暴力やセクハラ、男女交際、自殺問題、認知症問題、個人的な悩みなどあらゆる難題を政府や行政に解決・支援をしてもらおうとしているのがわかった。その姿勢、時世はおかしいと考える。そのうち、自分の生き方や人生まで、どうしたら良いのか?と頼むようになるのではないか?自分でできそうなことは自分でやるのが民主主義であり、個人主義ではなかったのか?言論、思想、行動の自由を与えられているはずではなかったのか?それを放棄したのですか?と言いたい。
幼児国民になっている?
このような姿勢はますます権力の力を強め、苦労して手に入れた自由と個人主義を捨ててしまい、最終的には独裁国家を自ら国民がつくっていくことになるのである。中国がそれを待っているようだ。民主主義を手に入れるまで共同体は自らの力で出来る事は助け合って、やってきた。歴史をみればよくわかる。その姿勢は活気を生み、社会の力になっていたのである。
ここで国民はもう一度、自立の精神に立ち返るべきである。
やられたら、やり返せ、である。
週に二日ほど、大手スーパーで、買い物かごの整理のバイトをするようになった。三か月ほどたつが、意外な経験をした。84歳の先輩から、仕事がひまになったら、人に見つからないようにそこの客室で休んでいればよい、と言われ、それに従ってしまった。彼はそこでスマホのゲームをかくれて、やっていた。
ところが自分のサボっている場面が、店次長に見つかってしまった。サボりを指摘され、謝ったが、それ以来、眼をつけられるようになった。名札がジャンパーの下に隠れていれば、不審者に思われるじゃないか!と、言われ、その時は不機嫌だったか、叫ぶような態度を見せた。申し訳ありません、気をつけます、と息子ほどの年齢の男に頭を下げた。自分の人生で年下の者に詫びたのは初めてで、もう、辞めようかと考えていた。つぎは、仕事が一段落ついて、商品の値段を見ている時であった。何をしているんですか?商品を眺めるのが仕事ですか?と背後から声をかけられ、ぞっとした。店内の監視カメラで監視されていたのであった。申し訳ありません、といいながら、辞める、という言葉が準備されていた。
何度も謝まっていると、わたしもそんなことは言いたくなかった、辞められては困る、彼はと軟化してきたので、産直品を増やしてはどうですか?と、こちらもおだやかになった。退出の時、業務票に印鑑をもらいに行き、少し世間話をした。喧嘩っ早いはずの自分が低姿勢になり、機嫌を取るような口ぶりになっていた。不思議なことに、その状態に居心地の良さを感じ、正論をはいて闘うより、飼い犬のようにべたつくほうが楽だと考えていた。
自分の負圧感を感じ、それが相手にも効果を与えたということであった。
負圧とは車のキャブレターにも使われている技術で、マイナスの圧力によって相手を吸い込む力である。車が坂道などに出くわすと、負圧を生じさせて、濃い燃料を呼び込み、パワーアップさせるのである。
自分はそのうち、強い負圧をだしながら濃い燃料を呼び込み、爆発させるかもしれないが、その時のエネルギーはすごいものになるであろう。
(勝つことばかり知りて負くることを知らざれば害その身に至る)
とは徳川家康の言葉である。
(贖い)という小説を書きかえているが、自費出版の出版社からの批評で、人物の造形が不足している、女友達からはキリスト教の文言が多くてわからない、と批評され、迷ってしまった。ニ、三日、考え込んでわかり、新しい着眼点が見えた。同時に、両者の指摘がじつは同じであったことがわかった。
贖いとはキリスト教を学んだ者はわかるが、そうでない人にはわからない、と同時に小説がキリスト教の考え・思想を借用していたのであった。それが失敗であり、その安易さが人物の造形に貧しさを招いたのであった。
そこで、日常の人間の言動にヒントを得た。女友達の次男は三十過ぎまで引きこもり生活をしていて、暴力をよくふるい、彼女はアパート生活に逃げたことがあった。次男は今は職を得、結婚して子供もいるので、なぜ暴力をふるったか?疑問に思っていたが、今はわかるようになった。彼女が世話の焼き過ぎ、その圧力が耐えられなかったのである。時々、女友達はわたしにも要らぬ世話を電話で、するので、次男のうっぷんがわかった。弁当配達のバイトをしてるんだったら、一人住まいの老女をハントすればいい、あなたの体が燃えてきたらエロビデオで処理すればいいじゃない、など、平気でしゃべる。よほど、いらんことを言うな!と言ってやりたいが、だまって観察することにしている。
彼女と次男の精神模様を分析するならば、彼女の次男への思いや期待感、おせっかいが彼に乗り移り(憑依)、あるいはコピーされ、そのエネルギーが暴力となってとなってがはねかえってきたのである。憑依とはほとんど宗教の分野で使われるが、科学的にコピーといってしまえばわかりやすいのである。例えば、コロナのRNAが人の細胞にコピーされる、飼っているペットに人間の心や考えが伝わっている(コピー)など非常に身近なものである。
さて、小説の話にもどる。主人公の女は男にふられ、二人の違う男との関係ができ、・・・・・・、それを知って男は暴力に狂っていく。女は悩みながらそこに自分の責任を感じて、ラストで、違う男と性関係のあった家に放火して子ずれ心中をすることになる。
そこで、作者は主人公の女は素直な良い女としてとらえ、相手の男はわるいやつ、ととらえていたが、じつはその男の破壊衝動が女に憑依・コピーされて放火したととらえ直すことではっきりしたのであった。
善悪では判断できない世界だが、分析は出来ているので作品に昇華させたい。
性欲の枯れはじめた今、若い頃の女関係を検証してみると、当時見えなかったものが見え、わからなかったことが少しはわかってくる。男と女は微妙な部分で異なるが、基本的な部分では同じだと思う。今付き合っている女友達は、長電話の中で、様々な気持ちを話してくれるので感動することがある。
彼女の相手の男は七十七歳で、癌と糖尿病にかかり、医者から、あと三か月と宣告されてたが四か月たって、息も苦しくなっている、と言う。彼女に毎日電話がかかってくる。あまり人を家の中に入れてはいけないよ、立ったり座ったりするから腰を痛めるよ、と気を使ってくれると言い、わたしは彼の優しさを感じた。わたしは女にそんなに優しくしたことはなかった。
四十年前の出来事の中で、あの女と自分の関係は何だったのか?と考え、言葉にしてみようとしてもできなかった。愛だとか恋だとかの言葉を使うと、本当の姿が消えてしまい、表現できなかった。今はやっとわかるのである。(そばにいるだけでいい)。歌謡曲の中に出てくる詞であるが、的を得ている。言葉も体の交えもなく、そばに黙って居るだけで、心は和み、幸福になるのである。ある出来事が起こり、それはすごく複雑な事情があり、思い出して、今、小説の中で推敲しながら、あの場面を文章にしながら、やっと書けるかな?という気持ちになった。
その女友達の、彼氏への気持ちも、、そうだと言うし、わたしは彼女と電話で話してるだけでも幸福な気分になるが、ごめん、彼からの電話が入った、と言って電話を切ってしまう。あなたと電話で話してるだけで幸福よ、と今度、言ってみよう。
昨日はいつものスーパーで買い物籠の整理を三時間、やってきた。仕事は慣れたのでどうということはないが、二千五百人のお客さんが毎日触った籠なので、感染が怖くなった。軍手をはめてやっているが、このコロナ騒動を考えると、籠や商品のどこかに付着していると、警戒すべきである。
コロナに介添えをしてもらう、その覚悟はできているが、今の作品を文学賞の受賞にしろホームページの掲載にしろ、仕上げて、世に出してからにしたいのである。一度、落選したものであるが、自費出版系の出版社に送ると、ストーリーが少しもぶれておらず、圧巻される部分がある、ただ人物の造形が弱い、という講評をもらい、自費出版しないか?という電話もかかってきた。無料出版ならすぐに応じるが有料にするには金がない、と返事した。
今、この作品、私の人生の中での最高にショッキングな出来事、その世界にもう一度帰り、関係者たちと再会しながら、想いを膨らませたい。四十年前の出来事である。事件にはならなかったが、数分の時間の早まりがあればまちがいなく事件になっていた。
世に出れば、鬼滅の刃、ほどの評判になるかもしれない。そんなの世間に出すんじゃない、我が恥じをさらすようなもんじゃないか?と知人は言うであろうが、恥多き人生の花を最後に咲かせてやる。
ふきのとう寒に抱かれて春を待つ
量子力学の中で、シュレーディンガーの猫、という有名な説がある。箱の中に猫を入れ、毒ガスを吹き込む。そこで猫は生きているか?死んでいるか?を問う。猫の姿は見えないわけであるから、答えは死んでもいるし、生きてもいる、ということになる。
私は七十三歳であるが、生きているか?死んでいるか?と、問われれば、今は生きているが、長くて三十年以内には確実に死んでいる、のであり、生きてもいるし死んでもいるわけである。今と三十年後を重ね合わせればそういうことになる。
コロナのPCR検査で、陰性と出たのに翌日には被験者が死に、陽性であったことがわかった事例がある。検査が不正確であったと言えるが、実は陽性と陰性が重なり合っっていたのではないか?私は口唇ヘルペスの持ち主である。冬になって塩辛いものを食べたり、免疫力が落ちた時に、日頃は体の奥に隠れているヘルペス菌・ウイルスが出て来て唇のまわりを潰瘍状にただれさせる。ただ、それだけであるから気にはしていないが、全身に潰瘍ができて治療に通う人もいる。私の場合はヘルペスにかかってもいるしかかってもいないということにもなる。
量子力学の話にもどると、量子コンプーターは、従来の0と1の組み合わせから、0でもあり1でもあるという組み合わせを考え出して、計算能力を膨大に増やしている。重ね合わせ理論を一つ広げたのである。
このように重ね合わせの考えが広がってきているのに、人間世界の日常の考え方は、生と死におけるように二者択一でなければ理解出来ず、それから前進しない。それは目に見えない政治権力のせいであろう。前進させれば精神世界の秩序が崩壊するからである。
そろそろ重ね合わせ理論を普及させてみようではないか?(あなた、今、どうしてる?)と尋ねられて、(死んでもいるし生きてもいるよ)と答えるようになれば、死を引き受ける気分になって気が楽になると思う。(就職試験はどうだった?)(通ってもいるし、落ちてもいるんじゃない)、こんなやりとりは落ちることも認めて、楽な気分になるだろう。
わたしは男でもあり、女でもある。
ぼくは子供でも大人でもある。
鳥でもあるし、動物でもある。
など、思考の範囲が新しい領域をもって、確実に広がるはずである。
数日前のニュースで、PCR検査を受けた二人の者が翌日に陽性と判定されたが、二人ともすでに亡くなっていた、と報道された。二人とも若者であった。
コロナ感染や死が日常的になりつつある現在だが、ショックをうけ、次は我が身か?と怖くなったが、全く反対の考えがわいた。寒い朝、布団から起き出すのにいつまでも掛布団にしがみつき、右に寝たり左に寝たり上を向いて寝たりしながら、睡眠という仮死状態にしがみついているのは誰だ?・・おれではないか!と思いつき、そんなにかんたんに死ねる(ひどく苦しむのがほとんどであるが)のなら、いっそのことコロナに介錯してもらったほうが良いではないか?そうだ、それが良い!と結論づけた。
同時に現在の報道、有識者たちのコメント、世間の考えなどを振り返ってみると、どこかがおかしい、何かが間違っていると思った。それは生の肯定、死の否定、の過激さである。太平洋戦争で数百万人の戦死者をだして以来、日本の倫理の中にあった(死)は百パーセント否定され、肯定でもしようものならすごいパッシングをうけるにちがいないから、メディアで取り上げる事さえ、タブーになっている。いびつな社会である。
つい三十年前ほど前まではそうではなかった。死ね死ね団、というアーティストがいたり、人間滅亡賛歌という本が出されたり、五十年前であれば、おら死んじまっただ、という歌がラジオから流れてきたりして、死を受け入れる部分があったのであるが、これほど死が完璧に抹殺された時代はめずらしい。無言のうちに言論統制がされている。
そこにコロナの出番が待っていたのであろう、殺戮の限りを尽くしている、と言わざるを得ない。自殺者も増えている。わたしみたいな老いぼれ役立たず老人などはコロナの介錯によって早くこの世から消え、生まれるべきであった世で生き直すべきだと思う。
ウイキペディアによると、テレパシーとは、言語・表情・身振りなどによらずに、その人の内容が直接他の人に伝達されること、と書いてあるが、人だけではなく動物にも当てはまる。ライオンが集団で狩りをするとき、勢子役、攻撃役と役割を分担して実行し、確実な成果をあげるが、彼らはどうやって事前にその打合せをするのであろうか?言葉も持たないのに、おまえは勢子役、待ち伏せ役など,どうやってとり決めるのであろうか?不思議である。言語や表情によらずに役割を了解し、ひきうけるのである。それは超常的的技術、つまりテレパシーによってというしかないのである。瞬間的に情報のやり取りをしている(テレポーション)に違いない。
コロナの現象は人間の常識をはるかに超え、テレパシーという目に見えない、感じとれないツールを持ち出すしかない。論理的合理的に組み立てられた既成の科学では説明のつかない近未来的な世界である。人間にも霊感やテレパしーがあったが、言語と知識の発達によって失ってしまった。それに、人間は自分達がもっともすぐれた生物だと思い込み、自分達が感じ取れないものは、(無いもの)として処理する。けれども、音波や電波は感じとれなくても存在し、受信機を使えば声や画像としてはっきり聞こえ、見ることが出来るのであり、人間は受信能力をもっていないだけなのである。知らない世界、見落としている世界は無限にある。
そこで、コロナの話である。コロナの命は短く、生存期間は何に付着するかその材質によって異なる。マスクがもっとも長くて一週間と書いてあるが、それ以上は調べていないのでわからないという。彼らだって情報は大事でその共有や交換はしているのである。DNAはないから、RNAをコピーすることによって情報を次世代に送っている。人間の思考や判断など、複雑で膨大な情報を送り、対策を練っているだろうが、それはテレパシーを使って瞬間的に送受信をしているのではないか?
目にも見えない細菌がそこまでやって、人間に闘いを挑んでいるのである。これまでの人間の知識や技術、知性ではとうてい及びもしない力であり、人間たちはこれまでの技術や知性に頼らない方法を必要とされているのかもしれない。これまでの科学が否定される超常的な技術である。
数日前の新聞に、ある大学教授が、、(コロナにも知性があるのではないか?)と書いていたが、そんなレベルで生徒を教えているとなると、驚きである。コロナに知性つまり思考する能力がなければ、世界人口の一億人にまで感染することは出来なかったはずではないか?
ジャングルの中で、野生動物に感染して生きていたコロナは、そこから人間の伐採によって追い出されたが、人間世界を寄生主とすることがいかに効率的で自分たちの生存・繁殖に役立ってくれるかを十分すぎるほど知った。知ってしまった。動物の中で最も早く頻繁に移動し、密生する種を発見したから、自分達が動かなくてもどこにでも運んでくれ、その上、対象者はほぼ無限にいるのである。有難い存在である。もう離れないし、離さないであろう。ワクチンが開発され、全人口が接種しようとも症状の出ない感染者がいる限り、一匹が残っていれば、一人に乗り移り、つぎの一人に乗り移りして、倍々ゲーム式にすぐにばん回することができる。季節を問わずにである。
さらに経験を積むことによって、すでにそうであろうが、人間の思考・知性を確実に知り、先手先手を打っていく。もう根絶やしにすることは出来ない。共存しながら、感染者増大、時短への給付金をだし、GNPの利益、課税などで元を取り戻したり、押したり引いたりしながら、人間たちは生き延びていき、それを末永く続けるしかないであろう。
そのうち、コロナとの対話ができるようになり、お互いの気持ちを推し量っていく。人間はこれまで見えなかった世界を見るようになり、それは霊や神の世界かもしれないが、この世は人間だけで出来ていないことを知るであろう。