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立花隆氏が81歳で亡くなり、知の巨人、としての偉業をほめたたえられている。田中総理大臣の仕事を書いて世間に出し、政権がつぶれたのであるから、巨人の言葉にふさわしい仕事をしたことはまちがいない。よほどの勇気がないとそんな事はできない。殺されたかもしれない仕事なのである。
立花氏より7歳若い自分はどんな人生であったのか?と問われれば、小説家志望でありながら文学賞予選に二度ほどとおり、最底辺の労働をしながら貧困のうちに亡くなった、という答えになるであろう。自動車組み立て工場で腕時計を見る時間のない労働をし、それが終われば遊び、女に熱中し、帰郷してからはNHKの集金業務で警察をよばれるほどの仕事をし、ついには恵まれない結婚生活を送った、ということになる。
それが世間の目であるが、実情は少し異なる。自動車工場の更衣室で着替えをしながら、隣の無口な若者が子供の人形を中から取り出し、帰っていったこと、その時、無口で陰気な彼に家庭があることを知ったこと、受信料の集金現場で警察を呼ばれて説教され、後に警察官舎を訪ねて彼から支払い拒否を告げられたことなど、机上では思いつかない体験をしたことは貴重なものであった。
転んでもただでは起きない、とたえず思っていたし、自分の人生はフィールドワークであると考えていたのでもあった。このホームページのブログも千を超えていて、すべては人生経験から出ている。立花氏は自分と比較にならないほどのフィールドワーカーであり、人間研究、社会研究に一生を捧げ、東大似価値はない、自殺を夢見たこともあると正直に書いておられる。
市井の研究者としての生き方は世間の人もしているし、皆がフィールドワーカーなのである。虫のいろいろ、人のいろいろ、なのである。
民間企業は商品の売買で利益を得、国家や行政は税金で運営されているから、両者はちがう、とほとんどの人は考えているが、実はどちらも同じなのである。民間は信頼できる商品をつくらなければ利益は出ないし、税金を払ってくれる国民・市民がいなければ国も行政も成り立たず、消滅してしまうしかないのである。
岡垣町の議会を傍聴すればわかるように、議案提出権は議員、町長、各課の課長にあり、評決をとってもすべては賛成多数で通ってしまうようになっている。議員の質問も通ることが前提であり、その施設にはトイレを何箇所設けますか?くらいで、肝心の費用対効果はどれくらいですか?などの質問は一切でないのである。それであれば、最初からこの仕事はいくらの予算で、どれくらいの期間がかかり、どんな効果がありますか?という案件で民間会社に入札をしたほうが、経費もすくなくてすむし、明確になるのである。だから、建設課、水道課などか可能な部署から民営化に取組むべきではないだろうか?
NHkが、集金人の個人委託契約から不動産業者などの法人に業務を委託して、数百億円の利益を出した前例もあるのである。NHKの集金人は長い目で見れば、使い捨ての立場であったが、職員に近い待遇を得ていたのでもあった。わたしはかつて集金人をしていたので、減収になってしまったが、国民・市民の立場にたてば行政の民営化は、やるべきである。役場の職員も派遣で入っている者が増えているのである。
今日のニュースで、長野県のスーパー・イズミが店舗の一部を市に無償提供し、集客効果と行政支援に乗り出す、と出ていた。わたしは大手スーパーでカートの整理のバイトをしていて、常々、考えていた。そこはモール式の大きな店で日に、二、三千人の客が入り、賑わっている反面、閑散としている店舗が半分を占めているのである。洋服屋、本屋、靴屋、食堂、遊技場など客の姿はいつもほとんどないが営業はしている。
ここの一つのフロアに行政を入れて、町民に利用してもらえば良いな!考えていた。民間会社が老人の買い物送迎や福祉事業をやり始めた時代である。もとより、民と官はどちらも地域貢献の目的であるのだから命題では同じなのである。わたしの友達が街のスーパーで働いていたことがあって、いつもこの街ではどのスーパーが伸びるか?を議論していた。安売りなのか?サービスなのか?と喋りあったが、わたしは民間が福祉事業を始め、地域に貢献するようになれば、町民はそちらの方を選ぶ、と主張していた。
来年、この町の町会議員選挙がはじまるが、わたしは町会議員などいらない、といつも主張している。いい街にしたい、ではなく自分の生活費が欲しくて立候補するのがほとんどなのである。それなら現在の職員の仕事で間に合っているし、議員の報酬を削減するだけで一億円ちかい金が余るのである。この前の選挙でも、ある女の立候補者が言っていたように、パートの仕事をするよりはまし、なのである。
町役場をモール式のスーパーの中に入れてしまえば、便利になり、経費の削減にもなる。会議室やイベント広場を共有し、買い物ついでに行政の手続きができ、子供を遊ばせることもできる。
我が家の表口、その石垣のあたりに、夏になると黒蛇が現れていた。夏の強い日差しの下で、その姿は不気味であったが、強いコントラストをつくっていた。五、六年前から私と出会っていたが、驚きもせず、自分こそがこの家の主だといわんばかりのふてぶてしさであった。自分も少し驚くだけで、顔見知りに出会ったようにその場を去っていた。
ところが、今年の五月ころ、敷地内の畑で出会ってしまった。黒蛇は動きもせず、舌先をちょろちょろさせながら、尻尾の先を痙攣させ、トグロを巻いて、どうやら攻撃態勢を示したようであった。わたしは様子を見ながら怒りが湧いた。地面に、落ちていた棍棒を手に取ると、振り上げ、胴体の部分を叩いてやった。黒蛇は老いていたのかのろのろtろ這い出し、藪の中に消えていった。
それ以来、姿を見なくなった。死んだのかもしれないし、隣地の田んぼに住まいを変えたのかもしれない。
興味を持って、蛇の進化を調べてみると、爬虫類から四肢を捨てて、蛇になったのであった。おかしい、四足があったほうが動きやすく便利ではないか?と考えたが、それは人間の考えであって、蛇の立場にたてばそうではないみたいであった。足で這うよりは滑るほうが早いし、面倒もないのである。蛇が魚を襲う場面を見たことがあるが、すごい光景であった。鎌首を水面から垂直に立て、真上から狙った小魚に飛びかかるのであった。まるで、龍の姿であった。カエルを飲み込む時は、カエルは先に恐怖のあまり、身動きできなくなっていて、それに飛びかかるのである。
黒蛇が去った畑は寂しくなった。
そろそろ出てきて欲しいと思う。スイカの蔓が這い周り、小さな実ができ始めている、そこに黒い姿をまた這わせて欲しい。
欧米などの諸外国でワクチン接種がすすみ、コロナからそろそろ解放されているのに日本はオリンピックの開催をするかしないかや緊急事態宣言の延長はどうするかなどでもめている。半年以上も遅れている。明らかに、コロナ敗戦である。太平洋戦争時において戦場で負けているのに勝ったように報道し、アメリカが本土に上陸したら、竹槍で戦おうと言って訓練までしていたのと同じである。。なんという情けなさであろうか?以前、アメリカから、日本人の精神年齢は中学生程度であると言われたjことを思い出す。戦時中、為政者、官僚たちは現場の実体からかけ離れた仕事をしたために、数百万人の戦死者を出してしまっている。七十年たってもこの国の体制・構造は変わっていない。冷蔵庫の冷凍機能がおとろえてワクチンを破棄したり、ワクチンが余って捨てたり、ぶざまなことをやっている。これが先進国だとは到底思えない。そうかと思うと、トヨタなどは接種会場に改善提案活動を持ち込んで1,5倍の効率を上げている。
このちがいはなんであろうか?
政治家や官僚ばかりのせいではなく、国民性もからんでいるのである。長いものに巻かれろの精神である。ゴミの分別収集にはすごく熱心なのに、農薬には無神経で、日本は農薬使用量が世界一であることは知らない。国民もマスコミもおかしいとは言わないのである。地球温暖化に対して騒ぐが、農薬によって増えた病気は無数にあるのに研究も指摘もしない。
要するに、公言・公開されたことには従い、関心を持つが、そうでないことには頬かむりなのである。無視されり隠れた事実には、ああそう、と言う程度の関心しか持たないのである。だから、重要案件が捨てられてしまい、コロナみたいな大事件がある時噴き出てくるのである。
のど元過ぎれ熱さを忘れる、のである。
森村誠一さんは若い頃、推理小説のベストセラー作家であったが、88歳になられて、(老い)についての本を出された。昨日の新聞にその広告がのっていて、(心の筋力)という見出しがわたしの眼にとまった。
いつも午前三時ころに目が覚め、想い迷うのである。起き上がろうかこのまま寝ていようか?とぐずぐずしている。昨日、採ったビワ、梅の実の袋詰めをして、バイクでスーパーに持って行く、千円にはなる。だが、袋詰めも面倒だし、バイクの運転も怖い、走行距離が十万キロになるカブが途中でくたばってしまうのではないか?大型トラックにボディを擦られてバイクが転倒するのではないか?このまま死んでもかまいはしないのに、と思いながら起き上がり、準備にかかる。
体の筋力、そして心の筋力がバテテしまっているのである。
バイクのトランクにビワと梅を詰めて、走り出すが、道路のはしは荒くれていてタイヤはふらついている。倒れれば大けがか死ぬかの大事故になる。大型トラックが風圧を押し付け、ミラーを擦らんばかりに寄って来る。ぶつけられて死んだ方がいいかもしれない。
ほぼ命がけの運転で店に着き、産直コーナーの棚を見回し、値段をみて売価を決める。梅が1キログラムで350円、それが6袋、ビワが一袋250円で二袋、値札を張り終えて、帰宅し、少し休んで、畑に出る。十二時、十四時、十七時に、売り上げ情報がスマフォに入って来る、十四時の段階で、完売であった。
これで一日が、生きれた。
畑仕事が一段落する、といっても終わることはないのであるが、椅子に座って、酒を飲む。まわりには緑豊かな景色が広がり、わたしを包んでいる。背中には田植えを終えた田んぼがあり、右手には色づいたビワが見え、つぎに梅の木が茂り、そしてアジサイが五つの花壇で花を咲かせ、日本庭園ではしだれ梅が枝を剪定されて垂れている。
ピーナツを嚙みながら、酎ハイを飲む。
目の前で、二十株のスイカが花を咲かせ、四方につるを這わせていている。接ぎ木のものは根元からカボチャの葉が出ていて、まさかスイカとカボチャができるのではないか?と思ってしまう。そばの線路で電車が走る。緑豊かな家にお住まいですね!都会から来た男が昔言ったが、まさにそのとおりである。彼は三十年前にガンで死んでしまった。わたしより若かったのに、残るはずだった人生から見捨てられた、気の毒に。わたしだって、あと十年の命であろう。
ミニ・トマトが赤らみ、口に入れてみると香ばしかったし、ナスもピーマンも大根もニンニク、キュウリも草の中から顔を出し始めているが、いつまでたっても草むしりは終わりそうにない。草刈り機で刈れば早いのであるが、それらと草の混じった状態では使えず、鎌でていねいに刈っていくしかない。
数十種類の草が隙間なく畑地を埋めていて、それらを刈り取ったとしても三週間後にはみごとに元どおりになっているのである。自分の命が尽きるまで刈り取らなければならず、まわりに茂る木の枝も切り落とさねば隣地から苦情が出るはずである。
もう疲れたよ!
鎌を投げ出して、地面に寝転がり、空を見上げる。コロナも静かになって、また、前の時代が戻って来そうである。人間業から解放されるか?と考えていたが、そうではなさそうである。
顔のそばで、草がささやいている。
僕たちだって、生きる権利があるんだよ。
ヤングケアラーとか孤独省(?)とか、わけのわからない言葉が新聞に出始めて、頭が混乱しそうであるが、教育とは何か?というテーマにぶつかり、筆をとらざるを得なくなった。NHK営業・受信料の仕事をしていた時、福岡教育大学の学生たちを回っていたが、教育とは何だと思いますか?教育原論という課目がありますか?などと聞いたこともあった。学生から答えは返って来なかったが、自分なりに、教育とはどのようにして生きるかを学ぶ学問である、と考えていた。それには食べる物が必要であり、健康であることが必要であり、文字を読んだり、計算ができることも必要である、と考えていたが、そんなことは教育大学のテキストにはないにちがいない。飢えなど経験をしたことのない官僚たちがつくる教育であるから、そうなってしまう。
わたしは教育ママに育てられ、有名進学中学校に、毎日、二時間かけて通った。小学校の時はまちがって、神童などと呼ばれたわたしは進学中学校で地獄に落とされた。生徒数百三十人の中で百番の成績になり、自分の頭の悪さを証明された。いくら頑張っても成績はそれ以上伸びず、劣等感の塊になってしまった。
学歴信仰は衰えることを知らない。人を評価する価値基準は他になく、学歴は独裁的な権力を持ち、ほぼ全世界で人々を支配している。
ほかに価値基準を持たない、ということが問題なのである。まれに学歴がなくても出世する者はいるが非常に少なく、学校産業、学閥、教員業、受験産業が幅を利かせ、独占・支配している。
ヤングケアラーを例にとれば、そんなことに国家がなぜ口をはさむかと言うことである!病気がちな父母や祖父のめんどうをみることにどこに、問題があるのか?そこで思いやりや愛情や生きる知恵が育つことが政治家や官僚にはわからないのであろうか、それを評価する姿勢がなぜないのか?課目に取り込んで評価してやれば良いじゃないか?一流大学を出た連中が実権を握ってるからこんなことになってしまう。こんな人々に教育を任せるわけにはいかない。とんでもない人間が育ち、現に育っているのである。
また、孤独であることがいけないことなのであろうか?孤独が生み出すものは多いし、鍛えられる者もいるのである。
それに、メディアはなぜ、教育の方向性に批判を加えないのであろうか?
こんなことより、もっと差し迫った大事なことはいくらでもあるのである。税金の無駄使いはいい加減に止めてもらいたい。
7月4日にワクチンの接種を受けることになったが、喜びと同時に妙な気持ちである。コロナが死に連れて行ってくれる可能性が減ったからであるし、74歳の自分がどんな死を迎えるのか?その心配が消えなかったからである。コロナにかかって死ねば、それは自然死であり、誰にも迷惑はかけないが、妻子のいない孤老が家の中で死んでいたら発見までには時間がかかり、白骨化しているかもしれない。警察や行政の関係者にはそれが仕事だとは言え、迷惑なことである。
こんな事を考えるのは、自分だけではないであろう。
コロナの変種株が現われて、感染力を強め、ワクチンも効果を薄めると新聞に載っていたが、こうなると、人類はコロナから解放されることはなく、いつまでも、そして、いついつまでもまるで恋人・伴侶のような存在になってしまいそうである。ニュースにコロナの出ない日はなく、全世界の人間がコロナのことを考えない日はない。食材を買いに出かけて帰宅し、さて食べようか、と考えてうっかり手洗いを忘れ、そこで、お釣りの紙幣からコロナがこっそり挨拶をしていることだって十分にあり得ることである。
コロナのそんな存在感は神にも近い、いやそれ以上に高い位置にあがってしまった。宗教の世界も哲学の世界の人々もワクチンに期待し、神や真理の追及をそっちのけにして忘れてしまったのである。これまでの権威は偽物に過ぎなかったのである。そのことを人類は知らねばならず、コロナというもっと強い権威が現れたことを知らねばならない。
キリスト教では、サタンはみ使い(神の使者)の一人、ということになっている。神の仲間であり、存在を否定してはあらず、対立物としての価値を与えている。禁断の木の実、のエピソードにも見られるように、人をかどわかして、試練を与えたのである。神が禁じているけど、この実はおいしいから食べてみなさい、といって誘惑したのである。美味しかったが、それまで死を知らなかった人間は(死)という永遠の罰を与えられたのである。
人類への反省を促す、(罰)の執行人、としてのコロナはこれからどう出るか?、見ものである。そして、人類の変わりようもどうなるか?まるでサスペンス小説を読むように期待がわく。