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世界がコロナで右往左往している最中に、ロシアがウクライナを攻撃し、国家を手中に収めようとしている。ロシアの国内のコロナはどうなっているのだろうか?国が痛手を受けていないはずはないし、無視できるはずもない。他国を侵略する余裕があるのだろうか?
まったく予想もできない事件であるが、偶然の必然、という言葉があるように、これは必然的なものであったかもしれない。コロナみたいに長い間眠っていたものが目覚めて行動を起こしたのかもしれない。戦争や事件はこのようにして、突発することは歴史を見ればよくわかるし、今年は予期しなかったことが目を出す年になるのかもしれない。
だが、プーチンの誤算は武力に頼っていることなのである。アメリカは戦後、数々の侵略戦争に手を出して失敗した。それは朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラン・イラク戦争、アフガン戦争と限りなくあるが、結局失敗し、疲れきって、撤退したのであった。
プーチンはこれを他山の石、とすべきであるのに逆にロシアの出番にしているようである。この侵略戦争は長引き、数年では終わらないかもしれない。アメリカの侵略戦争において、乗り込んではみたもののゲリラが野山に隠れ、徹底抗戦された例をみればわかる。最終的に、ロシアは疲弊し、世界経済から取り残され、旧ソ連が解体した二の舞を踏むかもしれない。
今の時代は、暴力団が市民に手を出してしまって壊滅させられているように、相手を敵にするのではなく味方につけるべきなのである。利益や恩恵を与えて懐柔し、仲間に引きいれるべきなのである。これを知ったものこそ生き残り、繁栄していく。日頃の人間関係、社会活動はそのことを知って動いている。
屋敷内の畑に出ると、草が猛々しく伸び、野菜はその中に埋もれてしまっている。タカナ、ホウレンソウ、大根など食用にしかならないが、私の貴重な食料源である。草は春の訪れに遅れまいと背伸びしている。コロナの勢いもその一つであろう。
一昨日は体調が良すぎて、草刈り機で草を刈り、玉ねぎに鶏糞を与えた。玉ねぎの成長はすごく遅いが、すごく大きくなる。ところが、作業をやめて家の中に入ると、鼻水がすごくでて、風邪みたいな症状が出てしまった。もともと花粉症、鼻アレルギーの症状があるのでそれか?と思ったが、オミクロン株の症状はそれに似ている、という言葉を思い出し、怖くなってしまった。額に手を当てると、熱はない。
だが、そのうち熱が出るかもしれなかった。
コロナにかかっら、どうしようか?どうなるのか?病院は満室で入院できないだろう・・・、一人住まいであるから濃厚接触者はいない・・・、寝ていればどうなるか?高齢で基礎疾患もあるから、死ぬかもしれない、死んだら誰が遺体の始末をしてくれるのか?
死体が腐って人に迷惑をかけるのは嫌だ。
知り合いに身寄りのない老婆がいて、その人はそうそうに、病院に検体届けを出していて、すべて処理してもらうらしい。だが、希望者が多すぎて、申し込んでも受け入れられるかどうかわからないらしい。
今朝は、小雨が降っているが、体調は回復し、鼻水の量も減った。昨日、大手スーパーで買い物かごの整理を、3時間やった。歩き方に元気がない、と言われたがなんとかこなした。
朝、顔を洗った。
一枚に掬ひし水で顔洗ふ
こんなことを書くと世界中のクリスチャンたちから総反撃をくらうであろうが、聖書の(創世記)を読むとそのように導かれる。神が、山や海、川、大地を作り、あらゆる生命を生み繁栄させたと創世記には書いてある。人間たちはすべてを人間中心主義の観点から見てしまうのでこんなタイトルに反発し、神は人間を救うためにあり、コロナは疫病であり、サタンであると考えるクリスチャンも多いであろう?だが、諸々の生命(非生命も)を生み育てた神は親と同じく、すべてが子なのである。コロナも人も自分の子なのである。だから、子どもたちが喧嘩を始めても仲良くしなさいというしかない。
いろんな種が生まれることで世界が活性化し、繁栄するのであるから、神がコロナを生み育てたことに異論はない。ただ、誰もが感染したくないことは確かである。それは、食物連鎖の上からはコロナを餌にして生きているものもいて、世界・地球の秩序は保たれているのである。コロナ事変から三年目になっても、その収束は見通せず、不安定な状態が社会に長引いている。それはコロナをはっきりと位置づけたりとらえきれないもどかしさが絡んでいるし、コロナごときに人類・自分が混乱した事実にショックを受けているのである。わたしに三回目のワクチン接種の通知が来ているが、どうしようかとまよっている。感染したくはないが、もうそろそろコロナに命を託してもいいのではないか?思い迷うところである。
専門的に研究や勉強をしたことのないわたし・・・、と書いてみて、それは逆に専門的にやってしまうとその分野の概念に制約されて自由な考えがすすめない、と考え、雑学的な思想で良いと思った。例えば、生物とは自分の力で生き、繁殖する生命である、と定義づけてしまえば、コロナは寄生して生き、繁殖できないわけであるから生命(生物)ではないということになり、生物学の法則が適用できなくなってしまう。これが専門・・、と呼ばれる世界である。以前、ある大学の公開講座(初歩物理学)に参加して、教授がエネルギー保存の法則を講義したので、E=MG(エネルギーは質量✕定数)というのであれば人は年をとって体重は減らないのになぜエネルギーが減少するのか?ときいてみた。彼はそれは専門分野ではないので答えられません、と言ったのであった。
宇宙のエネルギーとは太陽のまわりを惑星が回り、その惑星の回りをちがう惑星が回り、また自転をし、というすごいエネルギーである。自転公転そのものがエネルギーに支えられ、エネギーを生んでいる。その力が筋肉を動かして、活動させ、内臓の体液の流れ、胃や腸や内臓の活動の及んで、生命を生かしているのである。逆に微分されたそのエネルギーは積分されると、一つのもの、つまり象徴されて生命と呼ばれるのである。聖書で、人はみな神の子であり、人類はみな兄弟であると言っていることがそのことからも理解できる。逆に、神は我々を育てている本当の父である、ということもよくわかるのである。
こんなタイトルにすると、コロナは生命であり、生き物であるということになってしまい、コロナは生物と無生物との間、という現時代の定義は意味を失ってしまう。他のウイルス同様、生物としてとらえるべきであるし、そのようにとらえなければ本質をとらえることはできない。コロナ事変をきっかけに、人間のつくった科学(生物学)そのものも大幅あるいは革命的な変革を要求されるであろう。そう、これはつまり革命に近いものなのである。生物の研究はすすんでも、無生物の本質やその世界は十分に捉えきれてはいない。岩が小石になり、砂になり、土になり、植物に水や養分を与えて成長させるその仕組、あるいはその指示者は誰なのか?なんて考えるものさえないのである。いればこの私みたいに変わり者・偏屈の男とみなされるしかない。
誰がコロナを動かしているのか?という質問をネットでやってみると、秘密結社ではないか?あるいは何かの陰謀ではないか?という答えしか返ってこない。これが人間の知性の限界であることを示している。では人間の命は何が動かしているか?と問えば、超人的なものの存在、つまり神が返ってくるのである。以前のブログにも書いているが、私達人間は自分の意志で手足を動かし、移動ができるが、心臓や肺や胃腸などは自分の意志で動かせないのである。誰に指示か?と問えば、神としか言いようがない。
指示があるから自動車でも人間の体でも動くのであり、指示者は存在しているはずである。イヤそうではなく、地球が太陽の周りを回っているように、一つの法則の力で回っているのかもしれない。重力の法則、引力の法則みたいに人間の力ではとうてい考えきれない自然の力なのである。
コロナの命もその一つなのである。
だから、コロナとの共生という言葉が生まれるのであろう。
もうそろそろ終わってくれよ!と言いたくなるほどコロナ感染の勢いはすさまじい。自分は今度、三度目のワクチン接種を受けることになっているが、二回目のときの筋肉痛を思い出すと戸惑ってしまう。
そこでコロナについていろいろ考えてみた。
コロナは生物と無生物との間である、と定義づけられているが、知性も知恵もあるし、無生物だなんてとうてい思えない。デルタ株、・・株、オミクロンと変異し、次々に変幻していく様は人間社会の改善改革以上の能力である。目に見えないほど小さな生物?にそんな能力があるなんて信じられないし、驚異的である。だが、その世界は雌雄の区別のない単一種類の世界なのである。そして、生命体に付着してRNAをコピーしながら次々に増えていく。共産主義世界の人民が単細胞にされて増えていくのに似ている。ほとんどの世界は民主主義体制になったというのに北朝鮮・中国・ロシアなどは勢いが弱まりはしない。北朝鮮などは数カ月間のうちにミサイルを次々に飛ばし、日本に脅威を与えているのである。
共産主義より自由民主主義のほうが多様性に富み、エネルギーに満ちて発展すると考えていたが、そうでもないようである。そこでコロナの話である。単一種でありながらこれほどの勢いを持ち、人類の百万人を殺し、それは世界大戦を上回る数であ。人間以外の生物?の中で、ガン以外に、これほど驚異を与たものがあるだろうか?それはペストをはじめ驚異を与えたものはあるのであるが、コロナが収束しなければコロナがナンバー1,ということになる。
すると、もしかすると、北朝鮮がアメリカやその他の国をミサイルで攻撃する体制を整え、世界を征服することだってありえるのではないか?
昨日は午後四時から午後七時まで、買い物かごの整理のバイトをやった。
体力保存のためアルバイトの日は体を動かさず、家の中でじっとしている。たった、三時間の仕事のためにそこまで気を使うようになってしまった。近頃は股関節やふくらはぎが時々痛み、仕事のせいだとわかる。駐車場のカートを集め、急勾配のある正面玄関に引き上げる時、股関節やふくらはぎに力がかかりすぎるのである。同時に、買い物かご、と書いた時、悪寒じみたものをおぼえるようになった。無数の人間の手がそれを掴み、コロナが潜んでいることは間違いない。軍手をはめて作業をしているが、ふとしたはずみで素手で握っている。それを考えると、仕事をやめようかとも思う時がある。同僚の一人が感染して二週間も休んでいる。あと一人も理由はわからないが、来なくなった。
私が一人、買い物かごの整理をやっていることになる。私がいないときは、他の従業員で間に合わせている。
昨日はお客さんの数がすごく少なく、暇で仕事が楽だと思っていたが、どこかおかしかったのに最初は気づかなかった。手を抜きながら仕事をしたが、二ヶ月近くもキャッチセールスをやっている若い女たちもその日は休みであった。彼女らはいつも元気よく、客に声をかけていた。
時々、エライさんらしき男が店内を巡回している。
今日はゆったりしていますね!
と、声をかけてみると、すれ違おうとした自分から離れるようにして去り、・・・、とつぶやいた。どこか警戒気味であった。なんですか?と尋ねると、感染が増えたせいですよ、と言ったのであった。
駐車場のカートを集めようと考えて行ってみると、ガラガラに空いていて、こんなに少ないのは初めてであった。日頃の五分の一くらいしか止まっておらず、驚き同時に恐怖におそわれた。
カートを押す主婦の姿も、飛び跳ねる子供の姿もない。曇天の下に路面が荒れた肌をさらしているだけであった。
エライさんが警戒気味であったのがわかった。私の派遣会社から感染者が出た、と従業員の出入り口に書いてあったからであった。
昨夜、埼玉県ふじみ野市の民家で、猟銃を持った男が立てこもり、訪れた医師が殺され、二人の男が負傷した。今年に入って、共通一次試験会場での殺害事件が起こり、昨年は電車内での殺傷事件、その前もその前にもそれに類した事件と、立て続けに(破壊衝動が)爆発し、地雷が次々に破裂していくような時勢になってしまった。
昨日、身内のある男から公衆電話がはいった。スマフォに公衆電話という表示が出るので、あの男だとすぐにわかる。彼は金はあるのだが、携帯三社の料金を踏み倒しているので再契約ができないのである。
話の内容は、(この前の手紙であなたの過去を非難したことは取り消します。今、閉鎖病棟にはいっているけど生活態度が良いので開放病棟に変わり、退院できるかもしれません。その時はよろしくおねがいします)というものであった。四十年前から、暴力の連鎖をおこし、措置入院させらて以来、詫びと反省の言葉を十回ほども繰り返してきて、七十を過ぎてしまった彼である。退院すれば私の隣の家に住むことになる・・・。
だが、いろいろ考えてみると、退院の可能性はないので、夢だけ見ていればそれでいい、と結論づけた。彼は金はあるので生活の心配はないが、退院して、毎日をどのように過ごすか?である。没頭するほどの趣味はないし、アルバイトを始め、そこで社会参加ができれば無事に過ごしていけるわけだが、問題は人間関係なのである。
わたしがNHKの集金の仕事をしていた四十年前のことである。未契約先に行くと快く契約してくれる人が多かったが、問題は拒否者であった。何度お願いしても通じず、全員が払ったら払ってやる、とか、その顔つきはなんか!とか悪態をついた。ドアもあけずに、けっこうです、主人に聞いておきます、わたしはここのものではありません、と逃げられた。当時、三十五歳であったわたしは、がまんできずに、ドアを蹴ったり唾をかけたりした。心のなかでそんなことはするな、と制止しているのにブレーキが効かないのである。
そんな経験を思い出して、彼が暴力の連鎖をおこした精神状態が見えてきた。それは心の問題ではなく、すでに物理学的な状況なのである。破壊衝動が強すぎて意思や心の入る余地はないのでる。彼に言葉でいくら説得しても無駄だったのである。
彼はすでに高齢になり、エネルギーも衰えている。それは私がその状態であり、朝、寝床から起き上がるのに難儀しているのと同じである。
そして、今の世はこコロナの影響で濃厚接触者は自宅療養させられている。家族が感染した場合は全員が自宅療養であろうし、イベントも飲み会も会合もほとんどの集まりが中断されてしまっている。これは社会そのものが閉鎖病棟に入っているのと同じなのではないか?
彼が退院したとしても、待っているのが同じ閉鎖病棟だとれば、今のままのほうがなんの心配もなくて良いのではないか?彼から手紙が来れば、このことを書いてやろうと思う。
2週間前、職場のトイレでのことだった。
「コロナが流行りよりますね?」
仕事仲間の男が小用をたしながら、声をかけてきた。
「うん。でもこの町は町内の感染者の数を出さない。感染者が特定されるということが理由だけど」
二年前、町内の感染者を公表していた頃は、・病院の看護婦だとかコンビニのレジの女だとか、噂になって広がっていたが、近頃はそれはなくなった。
「おれなんか、時々、コロナに介錯してもらってあの世に行ったほうが良いと思うよ」
半ば冗談のつもりで言うと、男は黙り込んだ。
十日前、職場の先輩が突然、やめた。理由はわからない。
一週間前、もう一人の先輩が体調不良でしばらく休むと電話をかけてきた。
三人のローテーションでやっているので、自分の持分は月に二日間増やされた。
事務所に行ってそのことを職員と打ち合わせているときに、・さんは発熱している、と彼はしゃべった。
自分が驚いると、・さんはpcr検査を受けていると付け加えた。結果は明日にわかるらしい、と言い、翌日に訪れると、陽性だった、と答えた。自分は・さんとは一週間前、四、五分間しゃべったし、職場は多くの人が出入りするところである。
帰宅しようと、バイクでゆっくり走っていると、背後から男が声をかけてきた。
バイク屋のオヤジだったので、中古のカブはないか?と尋ねると、新車のバイクもコロナの影響で納品が遅れ、中古は高くなっているという。そんな会話の中で、職場の先輩がコロナにかかった、と口をすべらしてしまった。マスクをしていた彼は飛び上がって、後ろに退いた。
その勢いと恐怖の表情を見て、しゃべって失敗した!と思い、逃げるようにバイクを走らせた。
でも?と考えた。発熱したら保健所に電話をし、どこで検査を受けるのか?入院したらどんな治療を受けるのか?知り合いとはどんな人間関係を持つのか?コロナはインフルエンザとは症状がどんなふうに違うのか?などが、わからず、パニックに陥るかもしれない。自分は一人者であるが、家庭をもっている人は大変なことになってしまう。
自分のことだけではない。
先日、小学生の子供に、(おじちゃんの家の畑に、カブトムシの幼虫がいるんやけど、いらない?)と声をかけた。子供は関心がなさそうにテストの問題の紙を見つめていた。(カブトムシって知らないの?)というと、(知らない)とこたえた。
人口が四万人ほどの町で、山あり海ありなのであるが、そこでカブトムシを知らない子供が増えているのである。以前であればカブトムシというと目を輝かせていたものであるが、その変わりように驚いた。テストの問題のほうがだいじなのである。
政府はコロナ事変で社員たちが入院し、小売や流通が滞ることを危惧し始め、それに備えて早めの対応を頼んでいる。食料の心配する時代になったのである。
この町にも一戸建ての団地が多いが、かれらは畑を持たない家に住んでいて、食料が停まったらどうなるのであろうか?と考えてしまう。飢えが待っているだけである。
これから畑を作ろうなんてもう遅いし、住人たちはじゃがいもやさつまいも、米の作り方も知らないのである。カブトムシを知らない子どもたちには餓死が待っているのである。
食べ物よりテストのほうが大事なんて言うものはいない。
学力テストは子供が祖父の面倒を見たり、茶碗を洗ったり、畑を耕しても評価はしない。が、生きるためにはそちらの方が大事なのである。
時代は生きることの本質を見失っている。コロナ事変の今こそ、その本質を取り戻すべきである。