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スイカ畑の草をむしるのが楽しい毎日になった。25株ほど植えたのだが、2ヶ月がたって成長し、コブシくらいの大きさになっている。草の中から顔を出すと、見つけた!と喜びが出る。
そばの木から、ギャーとカラスが小声でないて、見つけたぞ、おれにも食わせろ!と言わんばかりで、心配がわいた。昨年はカラスとアナグマに食われて、半分くらいしか収穫ができなかった。
今年は大玉スイカも植えているので、まだ熟れてはいないだろう。カラスは熟れてからしか食わない。竹の子山で切った竹を持ってきて、網でフェンスを張ってやろう・・。そう考えながら、顔を出したスイカに草をかぶせてやった。
ところが、次の日の朝、三個のスイカは赤い果肉をむき出して転がっていた。
ショックに襲われた。
小玉スイカがピンク色になって熟していたのである。
さて、どうしようか?竹の棒を立ててネットを張るには2,3日はかかる。
だが、竹の子山にイノシシよけの警報機を2個取り付けていたが、不作で持って帰っていた。
それを取り出して、スイカ畑に取り付けた。体温を感知すると、サイレン、狼の声、豚の鳴き声、銃の発泡音、人の怒鳴り声など盛りだくさんの声がおそってくる。自分も襲われる気分になる。
次の日の朝、おそるおそる近づいてみた。
一羽の親ガラスが椅子に立って畑を見ている、ではないか!
よく観察すると、そばに警報機が取り付けてあって、スイカがぶじに転がり、カラスは考えているようであった・・。
その日も草をむしりながらかくれていたスイカを見つけ、計13個が成長を待っていることを知った。
自分が動くたびに警報機は威嚇音を鳴らしてくれたが、昨年のアナグマは憶えているからここに来るにちがいない。やはり、フェンスを張るべきだろうか?軽のポンコツ車でとりに行くのは山道が怖い・・。
すると、モンシロチョウが楽しげに蜜を吸いに来たのである。
そうだ、フェンスを張ると、蝶が入れず、受粉ができなくなるのだ・・・。
とりあえず、このままにしておこう。
それから、二三日無事であったが、十個以上のスイカが無事に店頭に出せるだろうか?と心配が、残った。警報機が鳴ると、アナグマは逃げるが同時にスイカが食われているかもしれない・・・。
野菜づくりは大変であるし、自然の摂理もすごいものである。蝶はたんに飛んでいるのではない。蜜を吸い、花に交配してやって生命を育てているのである。そんなこともわかった。
ここでは暴力が良いのか?悪いのか?という観点を外して書きます。
今、東京の大学で、一撃必殺の世界にいたときのことを小説に書き始めました。六十年後にして、やっとあのときの体験を突き放して作品化できるという気持ちです。単なる体育会のリンチではないか、と言われればそうであるが、三十年間も悪夢にうなされたのです。
砂利道を、拳立てし、両足を持たれて歩かされ、血まみれになった。その拳骨で樫のマキワラを叩き、軟骨を潰した。その練習よりも、練習後にベランダに整列させられ、みぞおちを一人一人の二年坊から殴られた恐怖と痛みは数千回の悪夢に変わって襲い続けたのです。
当時は、強くなりたい、と考えて後楽園ヘルスジムのボディビルにも通っていた。三島由紀夫も練習に来ていて、肉体美を見せ、多くのカメラマンからフラッシュを浴びていた。
空手では、強くなるために体を棒や拳骨で叩く訓練もしていた。最初は痛かったが、そのうち、それが快感に変わるのでした。六角棒で、締めた腹や腰、腿や腕を叩く。すると鍛えられた筋肉の方が強く、六角棒が折れてしまうのでした。
叩かれることは痛いことでもあったが、しだいに快感に可逆反応してしまう。血尿がでるほどの訓練であったが、全身が高揚すると精神もそれにはまり、日本刀の刃先のように収斂され、極地に達した。すると、体を傷つけたい欲望が産まれ、死を熱望していたのであった。攻撃と被虐が一体化していた。サドとマゾの行為の意味がわかった。あれは単なる暴力行為ではない。
三島由紀夫を見て、五年後だっったと思うが、大学前の千鳥ヶ淵の歩道を歩いていて、号外のチラシを貰った。なんと、すぐそばの市ヶ谷自衛隊基地で三島が割腹自殺をしたというのであった。嘘だろう?なにかの間違いだ、と考えていたがテレビや新聞で報道され、事実だとわかった。
三島とは直接話したことはなかった。作品「金閣寺」にどもりの住職が登場し、あまりにリアルに気持ちや症状が書かれていたので、自分のどもりを見破られると警戒していたからである。
割腹自殺と書かれているが、そうではない彼の心理が読めてきた。攻撃から自虐、自己破壊へと転化し、快感に酔いしれたにちがいない。限りなく進み、それは死であった。
三島は自己を(死)によって完結させたのである。
みごと、と言うしかない。
これを小説に書いてみたいのです。
はっきり記憶しているだけで、これまで五回ほど死を免れたことがあった。一度目は十八歳のとき、すべてに失敗して自殺をはかったのだが、それにも失敗したのであった。小学校の時から受験戦争にかり出され、がんばったが最終的に第二志望の大学に落ちた。どもりの矯正所に通ったが治らない。自律神経失調にかかり、頭はぼんやりして、燃え尽きていた。どうすれば良いのかわからない。やけになって、修学旅行の良い思い出のあった箱根の山を彷徨していた。そこで予定していたとおり、睡眠薬とウイスキーを飲み、トイレの中で首をつろうとしたが、睡眠薬もウイスキーも効かず、ロープに中に首を入れてる自分を知って、虚しくなった。
二度目は東京で、土方のバイトをしていて、建設中のビルの十階から脚を踏み外して落下しそうになった。片手を出し、仮場の鉄パイプを握って這い上がった。そして、次は地下鉄工事であったが、ダンプの荷台に乗っていてそこから地下に落ちそうになったが、体を支えて助かった。
次は、集金の仕事で、バイクで走っていた。道の左側は草むらになっていたので地面だと勘違いし、左足踏もうとしたが土手になっていて転がり落ちた。幸いゆるい斜面であったので、這い上がりバイクごと持ち上げた。
次は、ある女が、男と決着をつけにやってきた。が、男は出払っていて、戻ってくるまでわたしと同居する羽目になった。男が戻ってくると言った寒い夜、女と電気コタツをはさんで向き合っていた。寒いやろう?こっちに来ない?という言葉に女は寄ってきて抱き合った。数十分後に男は帰ってきて、俺の女に手を出しやがって!と叫んだ。その前にわたしは女と体を離し、衣服をつけさせていた。性交渉まではすすんでいなかった。あと、数分遅れれば性交渉に入っていて、わたしは殴り殺されていたかもしれなかった。
次は心臓のカテーテル治療してもらって、二度、失敗し、治療が終わりました、と言われて、夕食をとっていた。そこで心筋梗塞を起こした。十人ほどのスタッフが呼び集められて、緊急治療をして助かったが、夜中であれば手術ができずに死んでいた。
この五件を振り返ってみると、間一髪のところで(死ななかった)のである。助けられたのである。
なぜであろうか?
単なる偶然なのか?
なにかの誰かの意思が働いていたのか?
と、考えるのである。
そこで神はすべての生命を生かし、幸福に導いてくださる、という言葉を思い出せば、つじつまが合う。だが、五件の事例にであって死んでいたかもしれないし、死んだ事例もあるはずである。その境目は何にあるのか?
わたしは特別に信仰深いものではないし、立派な人間でもないが、75歳まで死ななかったのは不思議である。どうしても、そこに神の気配を感じてしまう。
キリスト教でも、死は罰である、と言い、永遠の命が神から与えられていたはずだった、と記しており、現代社会も長生きをほめ、人々もそれを望んでいる。すでに尊厳死はどこかに追いやられ、メディアはウクライナ戦争による破壊のすさまじさと死の悲劇を報道し続け、生きていることと命のありがたさを訴え続けている。それは大事なことであるとわたしは考える。だが、一方、どこかがおかしいと考える。今、わたしは生きているが十年先には死んでいるとが確実であるし、十年前は心筋梗塞を起こして、あと三時間で死ぬはずだったのである。
今、わたしは生きている、のではない。生きてもいるし死んでもいるのであり、その両方が重なり合っているに過ぎない。二者択一ではなく、すべては重なり合っているに過ぎないのである。サイコロを振ったときのようにどちらかが出ているにすぎない。
常に、背中合わせの状態なのである。金持ち、貧乏、美顔、醜い顔、健康、病気、晴れ、雨などすべて二律背反なのであるが、それに気づくものはおらず、今がよければすべてが良いみたいな錯覚の中で生きている。事態が悪くなって初めて、一過性の中で生きていたことがわかる。わたしも人生を振り返ればそれに気づくことばかりである。
逆のことを考えることも大事である。死ぬことはいけなくて、死なない人生が良いのか?と考えればそう簡単な結論は出せない。死なない人生を想像してみよう。いつまでも変わりばえのない生活が」永遠に続き、終わりはない・・・・。としたらそれは地獄である。ある男は精神病院の閉鎖病棟に40年も入院し、外出もできない。体は健康なのに、暴力をふるう恐れがあるので退院を許されない。だが、生活にも病気にも困ることはなく、ほとんどすべてが保証されているようなものである。だが、わたしは国民年金の生活で、働けなくなれば生活が破綻する恐怖に怯えている。
どちらの生活が、まし、なのか?
ではない。
どちらも同じなのである。
その男も自分も数十年先にはこの世から消える運命がある以上、等価であるに過ぎない。ご破算であり、次の人生に生き返るだけである。ウクライナ戦争をロシアがあれだけ破壊した以上、戦争が終われば新しい国に生まれ変わるだけである。
あらゆる観念や現象は二項対立の枠におさえられており、わたしたちはその中で生活する以外はない。美しい、醜いとか、気持ちいいとか気持ち悪いとか、高価とか低価とか、頭が良いとか悪いなどそのカテゴリーから自由になれる者はいない。天気でさえ、晴れようが雲ろうが自然なはずなのに、良い天気、悪い天気と毎日言われ、たえず評価されている時代である。資本主義が自由競争を生み、繁栄していく中でこの構造はますます強固になっていくばかりで、金儲け主義に引っ張られるだけである。ウクライナ戦争だって軍需産業があやつっているようなものである。孤独で貧乏な老人であるわたしなど、すべての評価基準から外れ、カスみたいなものであろう。
高評価を受ける者はいい気分であるが、低評価を受ける者は自殺さえしてしまう。鼻や唇の形が少し違うだけで判定が変わり、世間の目は見逃そうとはしない。近頃の眉目秀麗現象には圧倒される。道を歩く男や女テレビに現れる彼らが揃いも揃って、弓形の濃い眉毛、ぱっtりした目なのである。それはこの二、三年のうちにかわってしまったのであるから、異常としか言いようがない。
二項対立から外れた世界に生きることができれば、世の中はもっと希望に満ちるはずである。老いてはいるけど心は若い、学校の成績はわるいけどすごく勘が良い、醜い女だけど心が優しく、そこに色気を感じる、貧乏だけど働いていて生きがいがある、など違う見方をすればいろんな発見ができるのである。いろんな顔や生き方に価値を見つけることができるのである。が、教育の分野でそれを取り入れようとする気配はない。一流大学出の公務員が采配を振っているのであるから期待するほうが無理である。
そのうち、二項対立から序列をつけるようになって点数までつけるようになるかもしれない。それだけではなく、差異や格差は悪いから平等でなければならないという主義が時代に取り組まれてしまっている。男と女のちがいなどあってはならず、女も働き、男も子育てをする、そして、男らしさ、女らしさも許されない。職場でそのことを口に出すだけでセクハラで訴えられるのである。
何という時代だ!などと口に出せば白眼視される。なんという時代に生きているんだ!わたしはここで声を大にして言いたい。差異や格差があるからエネルギーが生まれるのである。それらがなくなれば月のl表面みたいになにもない砂漠になってしまうしかない。
今日の日曜礼拝はいつもどおり行われた。祈祷の時間になると、10人ほどの信者たちは頭を垂れ、ながながと祈り、罪の許しを乞い、声を震わせた。わたしもそれにつられながら、兄弟姉妹たちの表情を見ていたがかれらのような高ぶりはしなかった。聖書を開いてまだ五年にもならないぶんざいである。が、考えることは多い。あまりにもレベルの高い書物なので興味深い反面、太刀打ちできそうにない。
(キリスト教にとって性とはなんなのか?)と、考えてみた。端的に言うと、それは永遠の罪なのである。神が禁じていたにもかかわらず、善悪の木の実を食べてしまい、それゆえ楽園から追放され、死ぬ運命を与えられ、蛇のようにのたうって生きることになったのである。やがて、キリストの母であるマリアが夫との性交ではなく、精霊の力で処女懐胎をした。キリストはこっそりと厩で産まれたが、すでに他宗派たちに狙われていた。キリストは成長すると、自分は神の子だと言って宣教を始めた。そのために捕らえられ、磔で処刑されたが、彼は自ら殺されること選び、人類の原罪を贖おうとした。
この流れではマリアが人間の種ではなく神の種を宿したということで、原罪を逃れさせようとしている。
だが、人間は性交をしてでなければ増えることができない。それは永遠に罪を増やすことでしかなく、
贖罪を成し遂げられない限り、とめることができないのである。現在、ウクライナ戦争で殺し合いを続ける人類の罰を見るのはわたしだけであろうか?
他方、科学の分野に目を向けてみよう。2千年前に、光あれ、という神の言葉のもとに宇宙が誕生し、人類が産まれ、世界が発展していった。それから二千年後の今、科学はやっと神の予言にちかづき、宇宙の究明に迫っている。ホーキンス博士は宇宙は始まりも終わりもないと結論づけ、量子力学は、生きてもいるし死んでもいる、1でもないし0でもあるという領域を発見し、すそのを広げていっているのである。
これはやがて、罪でもあるし罪でもない、という新しい境地を発見し、人類を救済し、発展させるの違いない。
すべての事象の観念は重なり合っており、その時の観測者の意識によって捉え方が変わり、どのようにでも判断される、と書いてみよう。これは量子力学の二重スリット現象の実験に現されており、わたしはそれにヒントを得て問題提起している。小さな穴を開け、そこに光の粒を通すと波になって干渉波ができるというのがスリット現象であるが、その光の粒は観測者がいるときには一粒しか通らず、いないと二粒が同時にすり抜けるのである。なぜなのか?それは書かれていないので自分で判断することになるが、観測者の質量は光の粒の数億倍なのでその時の観念が二粒が同時に通り抜けることはありえないという考えなので、念力みたいに、それに圧倒されて意識が動きを反映させるのであろう。
そして、光は波でもあり粒でもある、と量子力学は定義づけているし、それでなければ結論が出ないのである。科学においても真理は一つでしかありえないはずなのにこんな結論を出さざるを得なかったのであり、これは真理を否定する画期的な考え方である。
ここで、(生きてもいるし死んでもいるー2)のタイトルに戻ると、あらゆる出来事や事象を二者択一式に捉え表現している現代世界はそれ故にいろんな問題にぶっつかっていつもモグラ叩きを繰り返すばかりである。同じ間違いを繰り返し続けており、それは基本概念絶えずがぐらついているからである。世界は前進しているようで実は(動的平衡)の状態で、ただ単なる上下運動を単に繰り返しているにすぎない。良いか?悪いか?の二者択一式の思考を外して、良くもあり悪くもあり、という俯瞰の観念に戻るべきである。
人生が因果関係のくりかえしだとすれば、あの出来事は良かったか?悪かったのか?は死ぬ直前にしかわからない。それではもう遅い。せめて、良かったことでもあるし悪かったことでもあり、生きるという経験を与えてくれた神に感謝を捧げるようになれれば幸福ではないか・・・。わたしにもあなたにも数限りない経験があり、これからもしていくことになるだろうが神の試練だと考えたい・・。
近頃、神に祈ることを忘れたように、手を組むことが少なくなった。信仰が少なくなったわけではなく、(科学者はなぜ神を信じるのか)という本を読み、神について考えてもいる。科学者たちは聖書を神話として読み、祈っているようで科学との矛盾を考えてはいないようである。
話しは飛ぶが、毎朝、目がさめ、起き上がるのが苦痛で、いやになる。このまま目がさめず、仮死状態でいたいと願っている。その状態は死んでもいるし、生きてもいる、という(シュレディンガーの猫)の理論に似ている。毒ガスの発射する箱の中に猫を閉じ込めていて、猫は生きているか死んでいるか?と問われ、生きてもいるし死んでもいる、と応えたという有名な話であるが,自分はこれを哲学的に考える。けれども、私達の日頃の生活は良いのか?悪いのか?の二者択一的であり、そうでなければ日常生活は送れないが、突き詰めて考えればすべての事象は(塞翁が馬)であり、良いことと判断すれば良いことであり悪いことと判断すれば悪いことなのである。観測者の判断が入るまでは両者は重なっている状態なのである。
昨日は一週間ぶりにスーパーのカート整理のバイトをした。四時間休憩なしなのとお客さんの人混みを縫うような動きをしなければならないので疲れ、めまいを起こしそうになる。足腰も弱っているので倒れればすぐに解雇である。
だが、終業が近づくと元気が出てくるのである。これをやり終えれば開放されるし、二日間は自由になる。そして、今日は開放日で、なにをしてもいい日である。嫌なことが過ぎれば天気模様も変わるのである。
ヤドカリとイソギンチャクの共生関係は小学校でも習ったことであるが、そこには一つの法則・原理みたいなものが潜んでいる。イソギンチャクは岩に張り付いていて、移動することができない。ヤドカリは移動は自由にできるが、餌をとることが得意ではない。獲物の動きが素早いから追いつけないので、死んだものしか食べれないのである。
そこでいつのまにかイソギンチャクはヤドカリの体の上にすみかをつくり、移動するようになった。そのかわり、イソギンチャクは食べ残しを落とし、ヤドカリにプレゼントするのである。ここで移動するものと移動できないものの共生の仕組みが必要に応じて発生した。
世の中の仕組みをながめてみると、この共生関係はいたるところに原理として働いている。割れ鍋に綴じ蓋という夫婦の関係もそうである。夫婦の一方に欠点があれば他方はそれを補うようになり、夫婦関係の仕組みが出来上がる。
また、金持ちと貧乏人の場合もそうである。貧乏になれば生活保護や福祉の世話になるしかないが、その金は税金という形で金持ちが出すことになっており、貧乏人は無税である。
これは生き物の世界ばかりでなく、物質の世界でもそうである。車のエンジンに使われるキャブレータは負圧と高圧の差異を利用して、車が坂道にかかると濃い燃料が自然に送られるようになっている。また、エボナイト棒をこすれば電気が発生し、両端の電気の量は異なっており、その差異が電力になっている。
今の世の中は差異を否定し、平等でなければいけないという考えであるが、そうはいかない。たとえ、平等になったとしても新たな違いが発生するし、差異はエネルギーの基なのである。
地球の誕生を考えてみよう。太陽の一部であった地球はその回転に吹き飛ばされるようにして分離した。はじめの頃は高熱の塊であったが、厚い雲がかかり、太陽の光を遮断した。地球は冷えていったがその暖気と冷気の差異によって霧が生まれ、水ができた。そこに温度の差ができ、霧を生み、地表の低い所に水がたまって溝になった。川になり、海になった。微生物が生まれ成長し、進化していった。
差異が地球の構造をつくり、生命が生まれたのである。
ここで聖書を持ち出してみたい。光あれ、と神が告げて太陽が顔を出し、昼と夜ができた。神は昼と夜を分けた・・・、とある。四季も生まれた。聖書の(創世記)には地球誕生のことも書かれていて、科学的解釈と符合している。
差異のない世界では、エネルギーも生命も生まれない。
砂漠がそうである。山も川もできず、砂丘は崩れて平地になるだけである。生命もほとんど生まれない。
今は差異を神経質になって否定しているが、このままでは砂漠みたいになって、消滅せざるをえない。差異の起こすエネルギー、その価値を見直さなければならない時代である。
書く予定