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週に3日のアルバイトをこなし、産直店に籾殻を出し、あとは国民年金の金で生きている。昨日もJAのサイロに行って、籾殻を20袋とってきた。ホコリの舞う貯蔵庫ですくい取り、ビニール袋に詰めていく。情けないという気持ちとこれだけとれたという満足感が出る。一袋が300円で出しているので全部売れれば6千円になるのである。その前にはスーパーのコイン精米機に行って、ぬかを二袋、取ってきた。これで600円になる。
時々、脚のスジが痛むのでそのうち歩けなくなるのでは?という不安もある。
まわりの老人たちにも脚を引きづる者が増えており、スーパーに買い物に行くとほとんどがそんな不自由者であることがある。でも今は体が動いているので幸福だと感謝しなければならない。
知り合いに老婦人は脊柱菅狭窄症の手術をしたのは良いが、家の中で転んで背中の骨を折ってしまった。家で治療しながら買い物に出かけることもできず、食材の買い出しにさえ、タクシーを使っている。気の毒だと思う。
彼女は動くことができず、それに娘の不倫事件が加わって、ストレスがたまり続けている。不眠症になり、強い睡眠薬を飲み、狂ってしまいそうだと言って、時々、電話をかけてくるが良いアドバイスはできない。
今の世の中は、コロナによって集会などのふれあいが消え、人間同士の絆が失われていっている。人々の不安は増えるばかりである。それに加えてプーチンの軍事破壊行為が毎日ニュースに出、(人間は人間であることの自信を失ってしまった)。ロシア正教までがプーチンの味方をしているというのだから、救いようがない。
科学が発達し、スマフォで買い物も出会いも職探しも出来る世の中になったというのにプーチンの悪行は、愚行は、何なのか?人間はいつまでも人間であることのお粗末さをひきづっていかねばならないのか?いっそのこと、脳の整形もしてもらって、支配してもらったほうが良いのではないか?
そのうち、その時代が来るに違いない。
高齢者の免許更新を終え、ゴールドの新しい免許証を三日前にもらったときの感動は忘れない。三度も電車に乗って試験会場に通い、認知症のテスト、運転検査、講習、目の検査とそれぞれに不安をおぼえながら通過し、車検も10万円で取ったのに免許の更新ができなければ車もいらなくなるところであった。
写真撮影を終えて、新免許証に,つくづくと老いた自分の顔を見ながら、幸福感に包まれた。それほど老けてはいないが、目の下のたるみが大きくなり、頭髪がさらに薄くなり、眉毛はすっかりなくなっている。金ができたら眉毛を濃くしてみようか?髪も黒く染めてみようか?まわりの老人たちも女もみんなやっているではないか、恥ずかしいことではない。美容整形をやって顔が別人になった女は何人も目につく。だが、顔を検査された時、免許証の顔とまったくちがうではないか?と警察官にいわれたら、整形しました、という言いわけでとおるであろうか?
そこで、安部公房の傑作小説(他人の顔)を思い出した。事故で大やけどをおった主人公、その顔はミミズが這ったように悲惨な姿であった。そこで顔の整形に取り組み、なんとか成功した。そこで別れた妻に会うことにし、会ってみた。相手は自分であることに気づかなかったようであったが、後日、はっきり気づいていた、というストーリーである。
およそ50年前の作品で、評判になったのであるが、作者はノーベル賞はもらえなかった。わたしはとうぜんもらうべき作品であると考え、今でも時々、読み返して勉強させてもらっている。書き出しからフランス文学を思わせるしゃれた文章である。オルガンのペダルを踏むような足取りで階段を歩く、なんて並の小説家には書けないし、二人称によるモノローグ調の文章はとうてい日本人離れし、リアリズムもきちんとおさえられている。
今は骨をけずって顔を小さくできるので、別人に変身できののである。自由自在に顔が変えられ、そのうち体全体も自由に変えられるにちがいない。そして、人間性も変えられるにちがいない。
話は変わるが、一週間前、このホームページを閻こうとしたら、(削除されたのかもしれません。開けません)という表示が出て驚いた。プーチンのことを批判したのでサーバーにやれらたのかな?と考え、仕方ないな、なくなったらそれでも良い、とたかをくくっていたが。数時間後には復旧していて、安心した。
(レア仲間)はわたしの顔である。書き換えはしたくないし、消滅もさせたくない。自分が死ねば誰かにサーバー費用を払ってもらい、いつまでも存続させていたい。他人の顔より自分の顔、である。
今日のニュースは、ロシアが軍の進攻先をウクライナの首都から東部に変えた、それでアメリカはウクライナへの武器援助と情報の提供を強めるという報道であった。これまではプーチンは悪魔みたいなやつでロシアは暴力団に劣らない国だと思っていたが、ではアメリカはどんなことを意図し、どんな作戦をもっているのか?という疑問にぶち当たった。するとよく見えてきた。アメリカはロシアとの直接な対決は避けると言いながら、ヨーロッパや日本などの国を巻き込み、経済制裁でロシアを包囲しているのである。第二次大戦の時、日本やドイツに経済制裁をくわえたことと同じである。現在、アメリカはウクライナへの武器援助もしているのでアメリカの軍需産業は大儲けで、アメリカの株はコロナによる損失を取り返している。他方、日本は北海道をロシアから取られるのではないか?尖閣列島を中国からとられるのではないか?という恐怖を持ち、共産党も含め、軍備は必要だ、という考えに傾きはじめた。こうなると核保有に傾くのとも時間の問題である。
アメリカは軍事侵略は止めたと言いながら、ロシアがその代理をやってくれてている。自ら手を汚す必要がない。
ロシアの崩壊は目に見えているので、プーチンを暗殺する必要はない。アメリカに家族ともども亡命させ、ロシアの獄中にいる民主勢力を釈放させて、傀儡政権を樹立させれば良い。そこでロシアはアメリカの一部になってしまう。
中国も北朝鮮もアメリカには勝てないから、そのうちロシアと同じ轍を踏みそうである。アメリカ帝国主義の復活である。
こんな文章をロシアで書けば、逮捕されて、勾留されるであろうが、幸いにして日本はまだ人権・民主主義国家である。ロシアの侵略戦争を毎日ニュースで見るにつけ、ウクライナ市民への殺戮行為に唖然として恐怖に襲われる。自分みたいな貧乏爺さんがアルバイトをしながら細々と生きている生活など、幸福で天国にいられる気分になる。高層マンションや建物などがあれだけ破壊されて、あの跡はどうなるのか?きれいに解体して、建て替えるしかないであろうがその仕事は想像を絶するほどの大変さである。誰がするのか?破壊したロシアがすることになるであろうが、その前にロシアは崩壊するであろう。
プーチンだって、その事は考えているであろうが、それにしてもこんな男が出現したことに驚きと恐怖をおぼえる。聖書を学び読むようになって、聖書を通して考える癖がついた。いろんな読み方があるし、膨大な量なので死ぬまでに読破できるかどうかわからないが、自分なりの考えをしている。聖書には御使い(神の使者)やサタンがでてくる。善悪の木の実でイブをかどわかした蛇も、そして、サタンも神の御使いなのである。神が蛇に、イブが善悪の木の実を食べるように仕向け、イブがそれに従ったために神は死ぬ運命を与えたのである。
そのことから考えると、神がプーチンをかどわかしてウクライナ人民への破壊行為をさせ、人間を試しているのではないか?と考えた。なにをためしているか?というと、聖書にも書いてあるように、汝、殺すなかれ、淫行をするな、と告げているのにこれまで人間はその御言葉を破ってきたので、初心にかえり、御言葉に従え、といっているのではないか?従わなければ全滅させて違う種に地球の支配権を与えるぞ、と言っているのではないか?
自分は近視眼的思考になっているようだ。プーチンのウクライナ攻撃をテレビで毎日見せつけられ、コロナの報道が退いていくと、出番が変わってしまった錯覚をおぼえてしまう。コロナはプーチンの弟になってしまったわけではなく、日本では相変わらず毎日何十人もの人を殺し、入院させている。
両者は(悪)の権化に見えるがじつはそうではない。どちらも必死に生き、自分の役務をはたしているのであり、それはわたしたちと同じなのである。コロナは生存のために他の生命の中に入って、RNAをコピーし続け、結果的に生命の組織を破壊してしまっているし、プーチンは2年後の大統領選のために領土を拡張し、市民まで殺しながらその実績を作りたいだけなのである。彼は自分に都合のいい情報しか諜報部から与えれれていないと推測されていたとしても、ウクライナ攻撃の戦費に毎日十兆円もの金が使われ、そのうち国家が破産するという考えがわかないはずはない。
彼がスパイ組織の出身で、これまで何人もの敵を殺してきて、ヒットラーに劣らぬ殺人狂になってしまったとは考えたくない。が、この戦争の全体が見えなくなっているとすれば世界破滅の恐怖に襲われてしまう。
ここでわたしたちは(悪)とはなにか?にもう一度、着眼しなければならない。自分がなにをやっているのか状況の全体が見えないくせに、ひたすら破壊に励む、(この男)ではないか?それは彼だけではない。アメリカだって十年前までは核を隠しているといってフセインを殺し、さらにビンラディンを殺し、国を破壊したのではないか?
プーチンは我々の反面教師である。
およそ五十五年前、東京の大学に入学したとき、世の中は熱気に燃え、毎日がお祭り騒ぎみたいだったと言っても過言ではない。経済の高度成長期が尾を引き、安保反対!国会解散!の怒号が渦巻き、町中で男が殴り合いをし、公園では男と女がキスしている光景などもよく見かけられた。セクハラ、パワハラなどの言葉もなかった。
第三志望校にしか合格しなかった後悔はあったが、さて大学で何をしようか?という意気込みはあった。探検部、武術部、政治闘争など頭の中にあったが、空手同好会が目に止まり、入ってしまった。同好会であるからそれほどひどくはないだろうと考えていたが、それが甘かった。掃除もしていないような汚い校舎の屋上はコンクリートがむき出しであったが、そこが練習場であった。砂利道に両手のげんこつを当てて歩き、そのげんこつで樫の巻藁で叩き、血まみれになるのは当たり前であったが、練習後にベランダに整列させられ、みぞおちを思い切り叩かれて、気を失ってしまった。おまえらが可愛いから鍛えてやる!と二年坊は言ったが、毎週、やられた。
退部しようとしたら、眉毛をそったり、金を取られたりした。まるで暴力団の世界で、どうしたわけか、その大学は東京六大学の一つに名を連ねているのであった。
わたしはすっかり変わった?というより本来の性格がむき出されていったのであろう。酔っ払って、すれ違いざまに、歩いてくる者にケリを入れたり、人がそばいるとどの部分に一撃必殺をいれてやろうか?と想像したりするようになった。
それから、五十年後のウクライナ戦争である。ニュースで見ると、ポーランドへ歩いていく難民の姿が映し出され、この前は親が死んでしまったのか、あるいは親に取り残された幼児が一人ぽっちで悲しげに、歩いていた。飢え死にする自分の未来を悲しんでいるようであった。この場面は忘れられない。
そして、ウクライナ・ロシア戦争が起こっているさなかに、ロシアが北方領土で軍事演習をしたり、津軽海峡を軍艦で渡ったりし始めた。これみよがしと言わんばかりに脅している感がする。日米もそのあたりで軍事演習をするのであるから、お返し、といえばそれまでであるが、ウクライナ戦争を契機に世界は代わり、日本は軍備を持つべきだという議論がおこりそうである。
そこで、考えた。
一撃必殺の技を身につけた自分はそれ以来、なんどか喧嘩をしたが、その技を使うことはなかったし、相手もそれを知ってか戦いに向かっては来なかった。暴力行為で警察の世話になったこともなかった。
一歩踏み違えれば殺人行為になるのであったが、その技を使うことは自殺行為であることを知っていたので、正当防衛の形にならなければ用いないことにしていた。
これは核武装の論理に似ている。使えば自殺行為に等しいのである。絶体絶命のときにしか使えない武器なのである。
当然、これくらいのことは核抑止力の中で議論されているであろう。が、戦争反対ばかり叫ぶ平和主義者たちもそろそろ考えなければならない時期になったのである。
ニュースでウクライナ難民の姿を見ると、心が痛み、涙がでる。あれは他人事ではなく、自分たちにも訪れるかもしれない光景なのである。数百万人の人々が子供の手をひき、赤子やペットの犬を抱いて、果てしもない脱出の旅をしている。歩いているのである。氷点下の寒さの中で凍え死ぬかもしれないし、食料もいつはてるともしれない。
まるで聖書の中に出てくる(出エジプト記)である。彼らがなにをしたというのであろうか?何も悪いことはしていないのに家を捨て、命をかけて逃亡する理由はなにもない。こんな理不尽なことが科学や情報の発達した現代に起こるなんて信じられない。が、現実は進行しているのである。
プーチンはウクライナで、ウクライナ人たちを暴力で支配しているナチスをやっつけるためにロシア軍の力で助けると、公言しているが全くの作り話であり、それを知ったロシア軍は戦闘意欲を失っている。世界中がそのことを知りながら、誰も止めることができない。
前のブログでも書いているが、小説(予告された殺人の記録)である。
そこで考えた。
ロシアの侵略はロシアだけが悪く、自分たちには関係ないことであろうか?
いやそうではない、七十年前の大東亜戦争を思い出さなければならない。
あのとき、日本の首相や取り巻き連はなんと言っていたか?欧米の侵略からアジアを救うために出兵すると言い、ほとんどの日本人はその言葉を信じ、命を投げ出して戦ったのである。被侵略国で相当な被害を出し、日本人だけで民間人も含めて数百万人が死んでいる。この構図は今のウクライナ戦争とまったく同じではないか!
アメリカだって、東南アジアの侵略戦争において、共産主義から現地の人民を守ると言ったのである。
歴史は繰り返す、というが、悪いことを繰り返らせてはならない。
今回の侵略戦争ははじまって一ヶ月ほどになるが、なにがなんだかわからないうちに進行してしまった感じがある。有識者たちはもっと早く、実態を伝え、世界に人に訴えるべきではなかったか?
春になり、うちの庭では、八重椿が咲き始めた。先週の日曜日の、礼拝時に、教会に持っていくと、女牧師が喜んだので、まだ蕾ですが、八重に開いてバラのようにきれいになりますよ、といった。聖壇の花瓶に飾ると、白瑞泉や梅の花を守るように背後に立って、見事な見栄えであった。
先週は、芥川賞受賞作の(苦役列車)を読み、すごく勉強させられ、いま、執筆中の(落ち花)のヒントになった。その作品は私小説であるが、ここまで作者の醜さを書いた作品はめずらしく、ふつうであれば単なる醜聞・手記としかみなされないものが、受賞したのである。主人公は中卒の男で、父親が性的事件を起こしてテレビにまで出、夜逃げをした小学校時代であった。中卒で東京湾の荷役作業をはじめるが、長続きせず、家賃をなんども滞納し、酒と暴力を繰り返す、母を殴って金をせびり取る。友達も女もできず、なんの希望もない生活の中で生きている。働いた金で女を買い、酒を飲み、あちこち歩き回るだけの作品で、自分の人生や社会の出来事を深く考えるわけでもない。
これがすごく私の胸を打った。
私の人生とほぼ同じなのである。
すごい作品に出会うと、自分のことが書かれているように思うことがあり、それが胸を打つのである。作者は授賞式で、この金で女が買える、みたいなことを喋ったが、一ヶ月前にタクシーの中で死んでしまった。原因不明であるが、肥満していたので淫蕩生活が原因であろう。
太宰治の私小説でさえ、醜聞を書きながらどこかきれいに見せようとしており、ほんとうの自分の醜さではない。本当の醜さというものはなかなか書けないものなのである。というより、それは作品にはならないのである。
今、書いている(落ち花)は女が主人公であり、(苦役列車)のように醜い部分を徹底的に書いて作品に仕上げたい。
それをこの作者は見事にうちやぶり、そんな俺のどこがわるいのか!と居直るわけでもない。淡々と書いているわけでもなく、細部は執拗に筆を進めている。それが命のエネルギーなのである。例えば追い出されて引っ越す先の建物や道順など作品の中身とは関係ないようなを事細かく書いている。それが作品にエネルギーを与えている。
ウクライナ・ロシア戦争は欧米など民主国家が直接的な介入はしない限り、第三次世界大戦にはいたらないようである。が、展開の予断は許されない。偶発が起これば世界的な広がりを見せる可能性はある。ロシアの軍艦が千島海峡を横断したり、北朝鮮もミサイルを頻繁に飛ばして、日本への攻撃の構えを見せはじめている。
ここで相手の手に乗っては、相手の思うつぼである。勝つことばかり知りて負くることを知らざれば害その身に至る、と徳川家康が言ったように、負けるということも作戦の一つである。太平洋戦争で日本がアメリカに負けたのは作戦の一つではなく弱かったからである。数百万人の犠牲者の方々には本当に申し訳ないが、今振り返ってみればその犠牲の上に独裁国家が消え、良かったのではないか?と思う。プーチンみたいな独裁者に居座られていたとすればゾオーとする。
ロシアが本格的にウクライナを攻め始めているが、誘い込んでやっつけるとウクライナの大統領は言っている。ゲリラ戦になることは間違いない。
ここで停戦交渉に持ち込み、プーチンをその場に呼んでみてはどうか?そこで決着・・・?をつければはっきりするであろう。なにしろ、プーチンが一人でやっているような戦争であるのだから。
ウクライナ戦争が始まってほぼ三週間になるが、これがいかにバカな戦争であるか?しか見えてこない。太平洋戦争においてはアメリカは日本に大勝し、日本を極東の軍事基地化して大成功した。ロシア、中国などの共産圏の進出をくい止めることができたのであるが、ウクライナ戦争においてロシアがウクライナを占領したとしても、領土を広げた実績しか出ない。プーチンはnatoに対して勢力圏を広げたと言うかもしれないが、natoは戦争までして勢力圏を広げようとする考えはまったくないのである。
この戦争においてはアメリカの主導する経済制裁に始まって、世界の経済は縮小し、世界の株価は下落し、難民は増えている。ロシアそのものもデフォルトに陥って国が破産するかもしれないし、プーチンは暗殺されるか国外追放されるかもしれない。
誰が得をするのか?マスコミが儲かるであろうが、企業がウクライナ戦争において収益を落としてしまえば高い広告料は取れなくなる。軍需産業が儲かり、その周辺企業に利益が入るかもしれないが、全体の経済効果のマイナスと相殺すれば大したものではない。
今のところ、領土拡張を考える独裁者はいても戦争までしてとは考えていない。
このように推測していけば誰も得をする者のいない戦争なのである。
世界は戦争に反対し、ロシアとウクライナは戦争の停戦会議を三度もやりながら停戦には至らない。まるでガルシア・マルケスの小説・(予告された殺人の記録)みたいである。
なんとも奇妙な戦争である。どこかで火山が急に爆発するように、自然エネルギーの暴発としかいえない。知性のある人間がこんな事をするなんて、(善悪の木の実)を神に禁じられていながら食べてしまった人間の原罪である。自分で考えて行動する自我をもった報いである。