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NHKの集金をやっていた頃、宗像市が担当で、野添という地域を集金で回っていた。二ヶ月に一度、訪問するのであるが、その農家が印象に残っていた。庭には盆栽が並び、きちんとした佇まいであったが、顔を出す老婆にはいつも元気がなかった。
彼女は時々、家のことをしゃべった。
息子の嫁は博多の繁華街で働いていたが、嫁いで来ると、草むしりに不平を言い、夫と息子を残したまま出ていった、と言った。孫である息子は昼間から家の中にいて、いつも無力な顔をしていた。(孫はいつも夜勤の仕事をしよります)、言ったが、いいわけであった。職につかず、ニートであることが後にわかった。
亭主のこともしゃべった。
百姓仕事をしている真面目な男のようであったが、ある言葉が印象に残った。いつも死にたい、と言うのであった。おれはどうやって死ぬんやろうねえ、それがわからんけ、苦しいとたい、と。
わたしはまだ若かったので他人事のように聞き流していた。
半年後、亭主は納屋に駆け込んで首をつったのであった。
わたしはこのことを忘れはしない。老いていくにつれてこの出来事が現実味をおび、自分に迫ってきたのであった。毎朝、目を覚ますと今日も生きるのか?と憂鬱なのである。仕方なく、両手を組み、あなたの力で今日も生きさせてください、と祈るのである。高校生の頃は、冬でも毎朝水を被り、そばの山を走り、われに苦難を与え給え!と祈ったのであった。
よく考えると、人は死ぬことは怖いが、それより、どのようにして死ぬのかわからないことのほうが怖いのである。
その日はいつ来るのか?この主人のようにわかりはしない。
最近、kさんのことをときどき思い浮かべるのだが、電話するには戸惑ってしてしまう。ケンカ別れをしたわけではないが、気まずい部分が残ってしまった。
それよりも彼が私に残してくれた言葉や思想が生き返ってくるのである。量子力学をはじめ現象学や哲学、幽体離脱の話など思い出すたびに多才で魅力的な男であったと思う。
話しは飛ぶがこの一、二年,社会の事件の傾向はこれまでとはすごく異なっている。死刑になりたいから電車の中で火をつけたとか焼肉屋に爆発物を置いて閉じこもったりとか、ビルに放火して何十人も焼死させた事件など、起こったがいずれも死刑になりたいというのが動機である。自分は自殺が出来ないから殺してくれということであるし、目標を見失った現代とコロナに打ちのめされた人間の姿が見えてくるようだ。
そこでkさんの言葉が現実味をおびてくる。
他殺は自殺であり、自殺は他殺である。
と、彼はよく言った。
彼はプロの革命家として、学生運動をやった。その最中、追いかけられてビルから飛び降り、半死半生のめにあったとか某宗教団体の本部を襲撃して仏壇を叩き壊したとかそんな話をよくしたが、痩せて小柄で物静かな彼にそんな過去があったなんて想像もできなかった。
「高校時代のことだけど、おれは高級官僚だった親父に反抗的でね。誰のおかげで飯が食えてるんだ!ってよく言われたから、誰のおかげで親父でいられるんだ?って言い返してやった」
わたしが理解できなくて黙っていると、「おれがあんたを親父として認めているから親父なんだろう?って言ってやったら、親父は言い返せなくてまたおれを叩いた」
kさんは現象学から学んだのであったが、よく考えてみると理解できた。もし、無人島で一人で生活していたとしたら自分が背が高いか低いかもわからず、自分が自分でなくなり、頭がおかしくなってしまうのではないか?他人という鏡があるから背が高いとか低いとかがわかり、また、自分の存在が認識できるのである。
人を殺すということはその鏡を壊すことであり、すべて壊してしまえば自分お姿は見えなくなってしまう。それはまた、自分を殺すことでもある。
(世界中の人間を一瞬のうちに殺すにはどうしたら良いと思う?)
kさんはこんな質問もした。
(それはねえ、ピストルを自分の頭に向けて打つことさ)
彼は言った。
最近の殺人事件を振り返ると、その警句の意味がわかってきた。
今日は午前中、近くの教会に日曜礼拝に行った。礼拝が終わると、親しくなった男信者とカラオケの体験談を茶会の席で交えた。帰宅して昼食を取り、タケノコ山に間伐に行った。そろそろ収穫期に入るので山の中を歩けるように小さな木を切ってきた。帰宅して夜食の食材を買ってきた。
それから自室でエロビデオの鑑賞をしようとして、ビデオを手に取り、どのビデオで興奮するのか?考えていると、なぜ勃起するのか誰の指示なのか?と、考えがすすんでいった。前のブログで神が(創世記)で、すべての生物に産めよ、増えよ、といって食欲を出させている(これは書いていないのでここで書きます)と考えたので、その理屈から言えば勃起させるのは神なのである。ただし、神は淫行はするな、と言っている。中近東は古来から一夫多妻の世界であるが、妻と認めたもの以外の女と交われば淫行になるのである。だが、ひねって考えれば不倫相手は妻にしてしまえば不倫ではなくなるのであろうか。
性欲が高まれば勃起するのは自然であり、当然であるが、人間であるからにはそうだとばかりは言えない。それに、好きな女だから、あるいは色っぽい女だから勃起するとも限らない、男にも女にも微妙な生理状態があるのである。女が目の前にいるときには何も感じないのに別れた後に興奮してくる場合もある。同情心から欲情が起こる場合もある。男の皆さん、自分の勃起を考えた時、その不思議さを感じたことはありませんか?よく考えれば性欲は食欲以上に複雑なのである。ここにドラマが生まれ小説や映画になるが、とんでもない惨劇に発展することもある。取り組めば取り組むほどむずかしく、謎めいた世界なのである。トラブルの起こりそうな相手であれば勃起させなければトラブルは怒らないはずであるが、そうはいかない。
もしかすると、これは神の入れない世界であり、人間だけの秘境ではないだろうか?
一昨日はいつもの精米所に行って、籾殻をとってきた。天井からぶら下がっている紐を引くと、籾殻がドサーと床に落ちてくる。それをショベルですくって、ビニール袋につめる。20袋ほど詰めるのに一時間はかかる。ホコリが舞い、作業服は籾殻だらけになる。
冬の薄日が周りの羊田にさし、自分の頬にもあたってくれる。
・・75歳になろうとしているのにまだこんなことをしているのか?
こころがつぶやく。
詰め終わって、事務所に行って礼を述べると、ありがとうございました、またお願いしますと、職員は言ってくれる。籾殻は精米所にとってジャマなのでとってくれる方が助かるのである。
そのまま、産直店に運んで肥料置き場に並べ、顔見知りのレジの女に新年の挨拶をし、しばらく顔をみらんかったねえ?というと、すれちがいになってたのよ、と笑顔を見せた。
夕方のメールで、籾殻は三袋、900円で売れていた。
昨日は週に一度の弁当配りであった。
社協の職員に新年の挨拶をし、運転手の運転で18件ほどなじみ客に配達し、新年の挨拶をした。老人たちはみなおだやかな顔で自分を迎え、深々とあたまを下げて感謝をしてくれた。車の中では仲良くなった運転手の男とおしゃべりをした。
こんな調子の正月明けであったが、働くことは社会参加であり、人と交わることだと考えた。たっぷり年金をもらう身分であればこんな経験は出来ないが、貧しい暮らしが喜びを与えてくれたのである。
貧しいものは幸いである。
今日と明日はアルバイトがないので気分が楽しい。仕事は姿を消すことによって開放感を与えてくれるのである。
さてなにをしようか?と考えて、しばらく遠ざかっていた山歩きをすることにした。山は目の前にある金比羅山で、その麓を往復して二時間はかかる。誰とも出会わない暗い山道はイノシシの唸りが時々聞こえるくらいの寂しさで、考え事や心を休めるのには良いところである。ところが、十時半に出て、十二時に近づいているのに空腹感が出ない。一年間も酒を毎日のんだせいで胃炎と胃のもたれが起こって食欲を減退させているのである。減退くらいであれば良いが、食欲がなくなったらどうなるか?考えると怖くなった。
午後一時半ころ、家について、食欲が少し湧いていてたべることにしたが残り物しかなかった。一週間前の雑煮でストーブの上に載せたままで、冷蔵庫には入れていなかった。寒いので腐ってはいないと思い、火を通して食べ始めたがどうも味がおかしい。苦いのである。おかしいと思いながら鍋の半分を食べ、残りは捨てた。はて、腹痛や下痢が起こるかと考えたが、ちがうことに考えが飛んだ。
胃に入れて、これはおかしいから排泄させるのは誰の指示なのか?と考えたのであった。自分の判断ではなく、体が判断するが、どのようにして判断するのだろうか?と考えると、わかりはしないし、これは心臓や肺などが自分の意志では動いていないのと同様、摩訶不思議な現象だ。
産めよ、ふやせよ、元気で生きろ、と創世記で述べている神の指示ではないか?と考えると納得できた。そうすると、この体そのものが自分ではなく、神のものではないか?と考えが進み、おれはおれだと思っていたが、神の子なのだから神の分身でもある・・、と考えた。
神の種から出たのであるから、人類はみな兄弟でもある。
さらに、いつも神がそばにいてくれて助けてくれる、とは熱心な信者から時々耳にするが、それは今、自分がたどったようなことをいっているのではないか?と結論づけた。
今まで自分は一人で生きていると気張っていたが、神と一緒に生きていると考えると気持ちがすごく楽になったのである。
朝、布団から起きると、両手を組み、今日も一日、生きさせてください、と祈るようになった。正月の1日、2日と教会に通い、礼拝をした。
ところが、聖書を乱読している時、おかしな聖句に気づいてしまった。
キリスト教にとって(原罪)はキーワードであり、絶対に変えることも譲歩することも出来ないものなのである。それは次のように書いてある。神は人間に楽園を与え、果実をとって元気に生きるようにしてくれたが、(善悪の木については、あなたはそれから食べてはならない。それから食べる日にあなたは必ず死ぬからである)ー創世記二章17、と神は言った。だが、アダムとイブはそれを食べてしまった。神の言いつけを守らなかったので、それから人は死ぬ運命を持ち、出産の苦しみを与えられたのであった。
聖母マリアは処女受胎であり、神の霊を取り入れたので人間の原罪ははいっていないし、キリストがゴルゴ度の丘を歩まされて自ら磔刑に身を任せたのも人間の原罪をあがなうためであった。
原罪はキリスト教の大柱なのである。
ところが、ヨハネの黙示録2章17にはこんな聖句が出ており、それはもちろん神の言葉なのである。
(耳のある者は、御霊が諸協会に言うことを聞くが良い。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実をたべることをゆるそう)
これが特別な例外であるとは言えない。キーワードに特例などあってはならないからである。聖書は当時の言い伝えや風習などを含み、多くの使徒が神の言葉を聞いて書いたものだというのであれば、全知全能に神にミスなどはあってはならないのである。
この件は教会の神父に問い、調べてもらうことにしているが、聖書が偉大な教典であることは間違いないし、そこからもっといろんな発見ができそうである。
元日なのに、初詣もせず、布団の中で九時ころまでぐずついている。もちろん、おせち料理を食べるわけではなく、家族もないから、おめでとう、というわけでもない。そばに金毘羅山の神社があるので、行ってみてもいいな、と思いながらキリスト教徒が初詣をするのか?と迷い、また雑念思考に戻った。
昨年の末に買った銘柄が少し買値を戻し始めたので、今年は値上がりする!と考え、投資方針を変えようか?午前九時過ぎに値上がりした銘柄をすぐに買い、一時間後に売る、早乗り、飛び降りをやってみよう。それが仕手株だと見極め、午前中に売ってしまえば、儲かる確率が高い。ほとんどの銘柄は午前中に値上がりし、午後には下がる傾向が強いからである。
昨日は葉山嘉樹の小説(淫売婦)を読んで感動した。私はまだ極道な青年だった、と書き出し、極道な船乗りたちが淫売婦とどのように関わっているか?を短編で仕上げている。
おれも変わり者の極道な男だったではないか?なぜそれを書かないのか?
逃げている、まだ、隠している。それがレアといえるのか!
と、反省した。
今年こそ、本当のreaに挑戦しよう!
今年はどんな年であったか?と問われれば、相変わらずの貧乏暮らし、健康であった、一人ぽっちであった、小説は進まなかった、などであったが、神の言葉が少しわかった、という成果があった。心臓のバイパス手術を十年前にして、心臓の鼓動に敏感になっていた。脈飛びや動悸の亢進などが起こり、不安になったが、自分が指示するわけでもないのになぜ、鼓動を打つのか?腕や脚の筋肉は意思で動いているのに肺や胃など不随意筋は勝手に動いて生命を維持している、これは誰の指示なのか?と考えてもわからなかった。ネットで調べると、化学反応で動いていると書いてあるが誰の指示かは書いていない。
そこで、先週、キリスト教会に行って久しぶりに聖書を読んで、創世記に天地創造のこと、神があらゆる生物を作り繁栄するようにと指示したと書いてあることを再確認し、神の指示だと思いついた。すると、おれの心臓が動き肺で呼吸しているのもそうなのか?と考えつき、クリスチャンたちが祈っている意味もわかったのであった。
自分も手を組んで神に感謝し、今日も生きさせてください、と祈るようになったのである。
昨夜は三時間くらしか眠れず、起きて、八時ころの電車に乗った。黒崎で運転免許の高齢者認知機能検査を受けるためであった。若い頃から物忘れと勘違いが多く、28歳で普通運転の免許をとったが、一年間も教習所に通い、こんなに長く通ってくれてあんたは銅像が立つばい!とまでからかわれた苦い過去があった。また、74歳になって認知機能検査を受けるなんて?と、試験恐怖が目を覚ましていた。一週間前に検査の問題集を買い、なんども解答の練習をしていたが本番になると、怖くなった。もし免許を取れなければアルバイトも野菜の産直出荷もできなくなり、国民年金・5万円では生きていけなくなるのである。それに生活保護をもらうなんて死ぬほどの屈辱だから耐えられない。
ビルの一室に三十人ほどの高齢者が集まり、試験が始まった。今年は2021年であるとわかっていながら忘れてしまい、2011年などと自分で答えてしまう。紙に2021年と買いて机の下に隠し、何度も目を向けた。試験時間は30分で、自分の生年月日や時計の絵を書いて短針長針で時間を指す内容でそれらは簡単であったが,手がかり再生、という問題が出た時、一気に緊張した。イラストでいろんな絵を十六枚出し、何が出たか?を書かせるのであるが、十個まで思い出すことが出来、これは行けると読んだ。問題集とはちがう絵が出ると考えていたが、まったく同じ絵であった。
採点を終えて通知表で結果を見ると、92点であった。
これで免許は取れると思い嬉しくなったが、次には教習所で高齢者講習があり、最後に視力の検査をして免許証の交付になる。まだ先はある。
ともかく第一の難関を突破した。
帰宅して正月の飾りものを山に取りに行ったりして動き回ったが、ハイテンションになっていた。生きる力が蘇っていた。教会でキャンドルをやると聞いていたが、自分のかんちがいなのかドアをノックしても誰も出てこなかった。
そこで考えた。自分は洗礼までうけながら神を拝むことをすっかり忘れているのである。なぜだろうか?他の信者たちはどのようにして神を自分の中に入れているのだろうか?
そうだ、神とは特別なものではなく、生命が生きようとする力ではないか?あらゆる生物にみなぎる生命の力ではないか?それは善も悪も関係がない。石川淳の小説・焼け跡のイエスの世界ではないか?戦後の焼け跡の中で汚い少年が盗みをしながらひっしにいきている。作者はそのエネルギーをイエスとみなしているのではないか?
誰が命令するのかわからないのに胃や肺や心臓は動き、ペニスも勃起する。それらすべての総エネルギーが神なのではないか?
先日、近所にあるキリスト教会に、初めて行った。以前の教会で洗礼を受けていたものの、教会から一年間ほど遠ざかっていたが、時々聖書は読んでいた。だが、祈りまではすすまなかった。神が心の中まではいってはいなかったのだろうし、キリスト教には祈りの言葉がないのでとりつきようもなかった。
そこは個人宅をかねた小さな教会で、若い夫婦で運営していて、落ち着いた感じがあった。身を捧げる気持ちがこもっていて心が落ち着き、十人ほどの参加者の中には顔見知りの人もいた。
礼拝が終わるとコーヒーと菓子が出され、茶会になった。女の牧師は私の隣に座り、コロナ後の宗教はどうなるか?などいろんなことをしゃべった。その中で印象に残った言葉は、わたしが日頃考えていたことで、個人主義が利己主義を生み、それまでの共同体をこわしたのではないか?ということであった。江戸時代までは、他人の子でも我が子同様に育てる習慣があったが、それが欧米からはいった個人主義で壊され、人権・福祉というちがう観念で動き始めたのである。老いて死をひかえた父母は家の中で看取っており、老人ホームも介護施設もなかったのである。現代、多くの老人たちは人に迷惑をかけないで死ぬにはどうしたら良いか?を考えており、自分もその中の一人になった。
餓死者がでない福祉国家になったことはまちがいないが、ボランティア精神がすすんで近代以前のような共同体がもどれば良い、と考えるが、良いことと悪いことはいつも綱引きの状態である。