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このタイトルは中国の故事、(人生万事塞翁が馬)と同じですが、余命をひかえた今つくづくと身にしみます。尖閣列島にたんを発した中国の動きと比較して、故事においては中国人はスケールが大きいですね。
ある男の例。
バブルの頃、株式投資に熱中し、一日で100万円もうけた。その金で旅行をするわけでもなく高級車を買うわけでもなく、さらに儲けようと投資した。3年間は儲けつづけた。銘柄を買えば上がり、売れば下がりで、1億円もうけようと考えた。それだけあれば働かなくても食っていけると思ったが、いつの間にか買えば下がり、売れば上がりのパターンに引き込まれてしまった。定年を迎える頃には2千万円の金を失い、年金と退職金で食っていけるかどうか不安をかかえている。
彼が百万円儲けずに損をしていれば深入りをしなかったであろうから、その時儲けたことはその時は良かったが後になれば悪いことであった。
ある男の話。
彼は先天的に腎臓の働きがわるく、インシュリンが十分に分泌されなかった。それが原因で糖尿病にかかり、毎日三度の食事後に血糖値をはかり、インシュリンを打った。その生活を30年つづけ、65歳になった今でも健康で糖尿病にかかることもなかった。禍が福に転じたのである。
ある男の話。
若い頃から食欲が旺盛で何を食べてもおいしく、一般人の二倍は食べた。偏食のない自分は健康をたもつと信じ、(あなた、いつか体をこわすよ!)いう注意を受けながらもダイエットに本格的に取り組まなかった。60歳をすぎて心筋梗塞を起こし、心臓の手術をした。手術はうまくいったのでリハビリに励んだ。これで仕事に復帰できると考えていた時、脳梗塞を起こし、右半身が不随になってしまった。
以上の例は身近にあることです。今の自分の状況が良いことなのか悪いことなのかはわかりません。深く考え込むより、自分なりの人生を認め、エネルギーを燃やすしかありません。
政府は尖閣列島を国有化するに際して軍事的利用まで考えていなかった、と思われる。前後に国際情勢にリンクする出来事はなかったし、国内においてもなかった。ただ、東京都が買い取ると言い出した手前、面子が働いたのである。
そのことが中国にはじゅうぶんわかっていなかった。自国の覇権主義からみれば日本が尖閣諸島を国有化し、公表したことは軍事的狙いがあると読むのは当然であろう。中国は多民族国家として言語もことなり、領土紛争に明け暮れ、日本や欧米の侵略を受けた苦しい経験がある。日本政府はその心理を読めなかったし、マスコミの報道も(中国はデモといいながら日本のスーパーから商品の略奪をし、自動車メーカーの工場を破壊したりして自国の信用をなくしてぃる)といった観点である。自民党総裁選において候補者たちはもっとも大事な(原発廃止)は口にださず、(中国の船が尖閣諸島の領海を侵している、この国をどうやって守るのか)、としゃべって国民の愛国心をあおり、軍事強化を訴えている。石原、石破の両氏がことのほか熱心であり、そんな薄っぺらな選挙戦術がとおると考えているのはよはどのレベルの低さである。が、それに乗せられる国民もいるであろう。
竹島の問題だって韓国が騒ぐのは(尖閣)のケースと同じである。北朝鮮との関係で一触即発の状況がいつも続いているからである。
そのことを踏まえると、日本政府は両島とも軍事利用はしないと公表するか、密約をすべきである。このままの情勢でいくとお互いの国が被害妄想におちいって、軍事行動のベクトルに進んでしまう。日本の国会で有事立法が成立するのはまちがいないし、核の開発・保有も時間の問題である。経済は軍事産業の復活で息を吹き返し、失業率も徴兵制度が復活すれば下がるであろう。
これがいつか来た道であり、(虎の尾を踏んでしまった)ことになる。
私の住んでいる町は北九州市と福岡市の真ん中にあります。山あり海ありで、のどかな良いところです。県内の人に町の名前を言っても知らない人が多く、(秘境)ですか?といわれたこともあります。
現在わたしは心臓手術後のリハビリのため、毎日ワオーキングを一時間ほどしています。家から舗装された歩道をあるき、別宅の前を通り、暗渠をくぐると安アパートがあります。そのあたりからゆるい坂道になっていて、以前は息が喘ぎはじめたのですが今はらくに昇れます。民家が途絶え、池に近づくころ、舗装がなくなり、砂利道になります。
散歩していてよく出会う人と立ち話をします。彼はいつもつぎのような話をします。
「このコンクリートの下にも植物や虫がいて生きてたのですよ。それをコンクリートで埋めて殺してしまってる。町はまたここに道路をつくって自然を破壊しようとしている。海老津駅南を開発し地下通路や広場をつくろうとしている。この自然を大事にしようとはしない]
彼は話しつづけ、私はもっともだと納得します。
池の先からは木々の緑が深まり、地面に木漏れ日が落ちて緑のトンネルが続き、別荘らしき一軒家がみえてくる。そこから先は下り坂になり、杉の木立が頭上の空 にかかり、映画(天城越え)の場面を思い出させる。そこは砂利もなく昔の地面のままである。ほぼ50メートルほどの長さである。そこを抜け、我が家の竹の子山までの坂道を上り、散歩コースを終える。
振り返ってみると、2キロメートルも歩いて、地面はたった50メートルしかなかった。地面は足が踏む力を吸い取り跳ね返りの衝撃をやわらげてくれるから、散歩には良いし、踏む心地も良い。
こういう地面がこの町から日本から地球から消えていっていることは悲しい。いつも出会う散歩者は言っていた(石ころだらけの道は踏むのに気持ちが良い)と。
土の呼吸は大地の呼吸です。わたしの呼吸と交わり、大気の中で循環し、宇宙に広がっているのです。
(ハーバード白熱教室講義録プラス東大特別授業)の本を今、読んでいる。(第一回殺人に正義はあるか)を読み終えましたが、期待外れであった。なぜこの本に人気があるのか不思議でした。なぜなら(人間中心主義)と(キリスト教の信念)を持つ限り、現代社会の問題は理論的にも解決できないし、論議の最終的な結論はイエスを信じ、人権民主主義を広めなさいというプロパガンダが見えているのです。
もとより人間の意志には宇宙の意志が(小宇宙・大宇宙)として入り込んでいるのだから、殺人を人間の意志のレベルで議論しても不確かな解答しか出ない。魔がさした、魔の瞬間などと自分を失う時が人生において何度か訪れ、とんでもないことをしたりしそうになったりする。それは自分の自頼心が弱まっているときであり、何者かの意志が入り込んでいる。殺人にたとえるなら、(人を殺せ)という意志かもしれない。この前テレビでこんな番組を見ました。牧場に観光客が訪れ、牛を見たり、菜園をみたりして楽しんでいました。飼い主や客はのんびりした表情の牛の顔を撫で、笑いかけていました。で、そのあとに菜園で取れた野菜を食べ、ビールを飲み、牛の肉を食べているのです。
この光景に驚き、矛盾を感じ取らないのは、牛は人間とちがって食べられるものという人間中心主義が無意識にまで入り込んでいるのです。牛の立場から言えば、顔を撫でて自分達を平気で食べる、なんてどんな心理なのか?と驚くでしょうが人間は一つの考えに洗脳されるとこうなるのです。戦争時において敵を殺すことが賞賛されることに似ています。
殺人は正義でもなければ悪でもない、そんな次元のことではないということでしょう。
サンデル先生がベンサムの(最大多数の最大幸福)の言葉を持ち出すがそれもおかしい。敗者がいるから勝者が存在するのであって、敗者の数だけ勝者がいるとも言える。実体と陰みたいなものである。
それがわからずして幸福ばかりを追求した結果が東北大震災であったのだ。
イスラム教のムハンマドを侮辱する映画をつくったということでキリスト教徒が何人も殺されている。どちらの宗教も一神教だからその宗教を信じない者はサタンなのである。宗教組織が大きいからオカルト宗教とは呼ばれないが本質的にはオカルトなのである。この教義に取り込まれた者の本を読んだところでこんなものかと思い知った次第です。
私にとって19歳の年は最悪の人生であり、最大の危機であった。大学受験で第二志望の大学にまで落ち、自律神経失調症に陥って一日中頭が重く、ひどい便秘症にかかった。対人恐怖症になりおまけに幼い頃からの吃音もなおらなかった。断食道場に住み込んで一週間の断食をしたが、食欲に負けてしまった。こんな自分は社会に出れない、生きていけないと考えた。父は家庭を放置して子供達にかかわらず、母は息子達に過大な立身出世を望んでいた。また人にも言えない出来事もあった。
私は東京の吃音学院にいってドモリを治すと言って、母から金をもらった。箱根の山に行った。高校の修学旅行でいったのだが、その時だけが一番楽しく学業を忘れることが出来、初恋の同級生を遠くから眺めていた。2年後のその時は、楽しい思い出を追うようにバスを乗り継いだり、歩いたりして散策した。無人の別荘にかってに入り込んで寝たりした。
ある日、公衆トイレの大便室に入り、準備していたロープを鴨居にかけた。ウイスキーを飲み、薬局で買った睡眠薬を2錠飲み、首をロープの輪の中に入れた。しばらくすると眠気がきて、力が失われてロープが首をしめて楽に死ねるはずであった。ところがいつまでたっても眠気はこなかった。
おかしい、と考えたがシラフで首をつる勇気はなかった。そこで思いついた、(ここで無理に死ななくても病気で死ぬか交通事故で死ぬか寿命がきて死ぬわけではないか、そうなるまで(死なないから生きている状態)でもいいではないか?
それから現在65歳まで生きてきた。仕事で汗を流し、美味しいものを食べ、酒を飲み、バクチをし、女を抱いた。家庭をもうけた。立身出世は出来なかったが、人生の楽しみはほぼ味わった。
これで良かった。
中国人が日本大使の乗った車を襲い、国旗をもぎ取った事件はマスコミから姿を消し、沈静化しようといている。沈静化は両国の狙いでもあるが、本質的な問題を隠したたままもみ消す姿勢がある限り、似たような事件は続発するであろう。この事件は尖閣列島に中国人が上陸したこと、韓国の現職大統領が従軍慰安婦問題を口走り天皇の謝罪に言及した出来事とリンクしている。
ここで(日本人が中国の国旗をもぎ取ったらどうなる?)と考えたわけです。もしそんな事件が発生したら日本国は犯人を特定するでしょう。そこで氏名・身元を伏せ、罪名をきせないまま処分したとしたら、中国ではまちがいなくデモに発展し、それ以上の事件になる可能性が強い。中華思想をもち自分の国が世界の中心だと考える民族はすさまじいプライドをもっているのです。日本の政府はそれを予想しながらどこまでやるでしょうか。
ここで私は中国の国旗、尖閣列島、従軍慰安婦、天皇の問題は第二次大戦における日本の朝鮮、中国への侵略に原因あると考えるのです。あれは侵略ではなく欧米の支配から中国・朝鮮を救おうとしたのだという大東亜戦争肯定論をふるかざす日本人がまだいます。が、よその国に押しかけて頼まれたわけでもないのに戦争を起こすことは侵略以外のなにものでもないのです。
ドイツではヒットラーのユダヤ人虐殺に対してきちんと対応していますが、日本人はマスコミでさえ日本の侵略には一部をのぞいて触れず、日本の軍事力をもっとつけねばなどど政治家にしゃべらせている。これではいつまでも堂々巡りをくりかえすだけである。
サンデル氏の(ハーバード白熱教室)を読んで、考えたのです。そこでは第一回(殺人に正義はあるのか)という過激なタイトルで、彼と学生との討論の内容が書いてありました。わたしはそれを読んで、(生きることに意味はあるのか?)というタイトルを思いつきました。それはわたしが65歳になり、大病を患って死線をさまよった経験と現在、自宅療養中で働いてもいないという状況がからんでいます。
結論から言うと、(生きること)は意味があるかないかというようなレベルの問題ではないのです。人間が生物であるかぎり、生きるようにつくられているわけですから。これは’(火が燃えることに意味があるのか?)というレベルと同じなのです。火が燃えなければ発電も出来ないし調理もできないし、人間は生存することが出来ません。
若い人はいざ知らず、わたしのような歳と状況になると(生きることに意味があるのか?)などと考えることがあるし、誰もがその時の訪れを拒否すろことはできないでしょう。(生きることに意味がある生活をすればいいじゃないか)ということになるでしょうが、単に趣味程度のことをやってるんじゃ意味はあまりありません。特別な能力も技量もないわたしはこうしてブログを書いて、人の役にたつことがあればと考えています。
(火)は消えずに燃え続けてもいけないし、消えてしまってもいけないわけです。チョロチョロ燃える火は消える運命にあります。
若い頃はオリンピックが面白く、競技や順位に興奮したものだが、年々興味がうすれ、今年は腹が立ってしまった。テレビはどの局も一日中、オリンピックを流し、新聞も競技を写真入りで紙面を埋めた。マスコミ関係者はこれでじゅうぶんな夏休みを取れただろうが、わたしのような視聴者、購読者にとっては良い迷惑であり、オリンピックよりも大事な報道があるはずなのにと考えた。
スポーツに興味がないというのではない。スポーツは格闘技がルール化されたものであり、サッカーやボクシングなどは好きだが、何秒を競う短距離競走やマラソン、水泳などは興味がない。0・1秒の時間が縮まったくらいでなんの意味があるというのだろう。
学校や会社で毎日競争をさせられ、余暇にまで競争の番組を見て面白がるなんて、毒を食らわば皿までもというべきであろうか?
自然界、特に動物の世界は敏捷さが生存に直結してるわけだが、ノロさで生存権を獲得してる動物もいて、人間界より多様性がある。たとえばナマケモノ(こんな名前をつけること自体がかれらにとって失礼と思うが)は出来るだけ動かずあるいは動いても非常にノロく、植物と見間違えられることによって敵から身をまもっている。
人間社会は多様性からどんどん遠ざかり、一極集中になり、ますます生きにくくなっている。100メートルをもっとも遅いスピードで走る、いや動くことを競技させるなんて、そんな発想は生まれないのだろうか?なにも生産せず余剰物を食って生きる人々がいたが、今や衣食住を与えられ、軽い労働をさせられて生きるようになった。すべてがこの社会体制の中に組み込まれたのである。
たまにはナマケモノのように生きてみたいと思っていたが、入院生活を2ヶ月ちかくも送ってみると、(何もできない、何もしない)毎日がどんなに辛いものであるか身にしみてわかった。
人間の体は動くように作られているから、自分にあった労働をして毎日を送るのがベターだと悟りました。
わたしは1970年代、1980年代を東京で学生生活を送った。まさに政治の季節であった。学生運動が盛んで、キャンパスは新左翼に占拠され、機動隊が入り、催涙弾が投げられることなど日常茶飯事であった。新宿の街にはフォークソンが流れ、長髪や髭を伸ばした若者達がたむろししてにぎやかであった。右翼の活動も盛んで、赤尾敏さんなんか老齢にもかかわらず毎日のように街頭で演説をし、政府の批判など耳をかたむけるようなことを喋っていた。
今、日本は領土問題や政権など国自体が大きく揺れようとしているのに右翼、左翼は消えてしまったわけではないだろうが、姿をみせない。一般大衆も領土問題で中国や韓国みたいにデモを起こしたりはしない。政治や外交などはお上にまかせ、関わろうとしないのだろうか?
職場の会議においても日本人は自分の意見を言わない。管理職の言うとおりにしか動かず、言われたとおりの仕事を一生懸命する。それが自分の利益になると考えている。仕事上において本当のこと大事なことを話す社員がいたら、煙たげな視線を向ける。陰では会社の批判、政治の批判をし、組織が失策をすれば後になって責任追及をする。
水俣病、福島大震災、イジメによる自殺など恐ろしい事件は関わった者達がもっと早く声を大にしていれば防げたかもしれないが、見て見ぬふりをすり者が多くて起こった(人災)である。
右翼とか左翼とか関係なく自分の意見をきちんという人が増えて欲しいと思う。
尖閣列島に中国、日本の民間人が上陸し、領土のことで牽制しあっている。竹島には韓国の大統領が上陸し、従軍慰安婦問題をとりあげて天皇に謝罪をするように発言している。北方四島はソ連が開発をはじめ、返そうとはしない。政府の対応は穏健というのか冷静というのか優柔不断というのか、はっきりしてるようで方向性がみえない。マスコミは現状を報道するだけで政府と似たような姿勢である。
どうにもやりきれず、不安をおぼえる。方向性が見えないというのはそれぞれの国民の不満がこうじた場合いつか来た道にもどるのではないかという不安になるのである。それぞれの政府は政権を維持するために国民の顔色をたえずうかがい、国民が満足するようにしか動けない。これが民主主義である。ということは、(戦争)という事態はいつ起こっても不思議ではなく、いつでも起こりえるのである。
政府とマスコミはそれらの島の歴史的な動き、両国政府との関わり合いをなぜきちんと日本の国民、相手国の国民もふくめて説明しないのであろうか。公共放送をうたうNHKなどはまっさきに報道すべきであるが、従軍慰安婦の番組で問題をおこしたせいで触れることを怖がっている。
世界の国の領土は戦いで奪い取ったものである。自分もふくめて皆そんなことはわすれたような顔をしているが。国境はどんな基準で判断するのか国連で決定すべきではないか。むずかしいことだろうがそれくらいのことをしないと領土問題に起因する戦争はいつまでもつづくのである。
日本政府が毅然とした態度をとり、タイマン(前回のブログで書いている)を張るくらいのことをすれば日本の国民も変わっていくはずであるし、そろそろ(自国はどうやって守るのか)がはっきりさせられてくる
時期になったようだ。衆議院が解散し、次の政権からおおきく変わっていくであろう。
私たち国民も生活のことを考えなくてはいけないが、(自国はどうやって守るのか)をはっきりさせなければいけない。