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マスコミの仕事には事実の報道だけではなく、購読者への啓発、啓蒙精神がある。マスコミが発生した頃、特に新聞などは主義主張が目的であり、それに向かってがんばっていたが組織が大きくなると普遍性を求めらにれ、それを取り入れていった。社訓をもうけて方向性をしっかりさせ、多くの視聴者に受けられようとした。今、幅をきかせている新聞社はそんな歴史をもっている。
ところが最近、マスコミは事件のもぐら叩きばかりし、日替わりメニューみたいに視聴者・購読者を遊覧させる傾向が強いくなった。この一、二年(自然破壊、環境破壊)の言葉や文字をまったく出さなくなった。出るのは政治家ごっこ、政治遊び、尖閣列島、竹島、アベノミクスの円安、経済成長、開発予算など目先のことばかりで目の裏で進行している環境破壊のことは忘れている。環境破壊は人類滅亡に通じているわけだからそちらの方がだいじであるはずなのに、本末転倒している。
わたしは今、田舎に住んでいるが、散歩するたびに小さな川までコンクリートで埋められ、車や人の通らない散歩道まで舗装され、その下で無数の生物が殺されていった事実を知る。マスコミはそのことは報道しない。(自然破壊は人類絶滅に通じている)ことをマスコミは訴えない。それは金にならないし、スポンサーの機嫌を損じるからである。
政治番組になぜ政治家を登場させるのだろうか?NHKもそうである。政治の宣伝屋、詭弁学のプロを登場させてしゃべらせ、国民に拝聴させようとでもいうのか。だから、TV番組が面白くない。政治家を登場させるならその対極にある組織や人を出して議論をさせるべきである。
(お蔭様です)とは日本人が日常的によく使う言葉ですが、昨日、ある人からこの言葉の意味を聞きすごく感動しました。恥ずかしいことにその言葉の裏にあるものも知らず、考えたこともなかったのです。(お陰)とは目に見えない影のことを言っているわけですが、神仏を暗に示しているわけです。目に見えない神仏のご利益のお陰という意味ですが、わたしはそこに日本文化の繊細さを感じ取ります。
欧米にだって(神のおぼしめし)などとよく使うわけですが、この言葉は神仏を直接出さず暗に示すところに深みと味わいがあります。
私も65歳になって振り返ってみれば自分が自分の意志で独りで生きてきたわけではないし、生きていくわけではないことがわかります。自然の力、先祖の力、家庭の力、友人、知人の力など省みればいくらでもあります。自分はそれら(他力)にも動かされながら生きてきました。
(人間にとって感じ取れないものは無いにひとしい。だけど感じ取っている世界はほんのわずかだから知らない世界のほうが多い)
ある人にそう言いました。
(グアム島で二人の日本人が通り魔に刺し殺されたけど、あの犯人の顔を見るとまだ子供の顔だよね。彼が独りで通行人を車でつぎつぎに轢いていき、車から降りてナイフで刺していったなんて想像もできないよ)
(そうだな。さっきのお蔭様、の言葉じゃないけれど目に見えない世界の力が加わっていたんだよ)
(そうだよ。私たちにその影に動かされてるだけかもしれない)
わたしとその人はいつもの散歩道を歩きながら、そんな会話を交えました。
北朝鮮が核実験に成功し、アメリカまで核攻撃の射程距離に入れたという。
驚くと同時に腹立たしくなる。最初は北朝鮮に対して怒りが生じたが、今では日本政府とアメリカ政府に対してと矛先が変わった。この両国は北朝鮮の手の上に載せられて、うまく操られつづけ、北朝鮮の脅迫外交の支配下に置かれてしまった。中国は北朝鮮を自国の鉄砲玉にして陰で武器や食料を与え続け、すっかり(ツッパリ中学生)にし、知恵をつけてやっている。
(ツッパリ中学生)に正攻法、正論で向かうなんて外交・交渉の基本戦法に外れている。アメリカが交渉に応じ、親交を結ぶほうが効果的である。親交条約を結び、貿易、観光をとおして民の往来を積極的におこなったらどうなるだろうか?
人間は利便性と快楽には弱い動物である。北朝鮮の人民がパソコンやテレビ、スマートホンを手に入れれば、北朝鮮政府は海外の国の生活ぶり、考え方を遮断することは出来なくなる。するとどうなるだろうか?(アラブの春)が来て、アフリカの独裁政権が倒されていったように北朝鮮政府の行く末は目に見えている。
霜の降りる日もありますが、畑の雑草が勢いを増し、畑には春が来ています。野菜にトウが立ち始めるということを聴き、大きくなったタカナを刈り取り、塩漬けにしました。白菜も刈り取り、倉庫の台の新聞紙の上に置いて水分をとり、塩漬けにするつもりです。
昨年の春に刈り取ったドクダミは日陰干しにしていましたが、きれいに枯れたのでハサミで切ってビニール袋に入れました。100グラム、500円で値をつけて産直の店に昨年の末から出していました。6袋しか売れていませんでしたが、あれだけ労力を奪ってくれ元気くれたドクダミ達にお礼を言いたい気持ちです。今年も彼らの子供たちが元気いっぱい伸びてくれるでしょう。
大きなガラスケースがありましたので、箱の中に土を入れ、種をまきました。トマト、キュウリ、スイカ、オクラ、ウリなど夏野菜にはじゅうぶんの苗が出来ることでしょう。畑に植え替えます。
次は畑作りです。スコップで天地返し(掘った上面のを下にする)をしていき、引き抜いた雑草を載せていき、その上にマルチ(黒いビニール)を掛けていく。雑草は腐り肥料になる。苗を植える時はそこだけ穴を掘って肥料をいれ、苗をうえていくつもり。
こんな我流のやりかたで今年はどんな成長をするか、楽しみです。
アルジェリアで日揮の社員がテロによって殺害された。民放各社、NHKおよび新聞は大きく取り上げ、報道特集まで組んだ。少し大げさではないか、と私は思った。亡くなられた遺族の方には叱られるだろうが、紛争国で働くことは危険を覚悟の上のことではないだろうか。同時に尖閣列島の領土問題以降、マスコミは外国とのトラブルに対して騒ぎすぎるようになった。背後で操っている黒子の影を感じとってしまう。
はっきり言えば民主党の政権以降のシナリオが練られ、組み立てられていったのではないか?まずは経済成長のスローガンを挙げて政権をとる。円安への誘導によって景気をあげ、GNPを押し上げる。それが一息つくと、憲法改正によって自衛隊を軍隊に変え、産業を軍需産業へと変えていく。軍需産業は裾野がひろいから、鉄鋼、電気、精密機械、商社などほとんどの産業がうるおい、すごい経済効果がでてくる。そして、巧妙に世論作りをしながら核武装をしていくであろう。アメリカは世界への侵略に疲れ果ているから、日本をその方向に陰で導き、日本が自らやったのだという脚本を書いている。
次に出てくるのは国民徴兵制である。これで失業率の改善は二桁はいく。
毎日新聞の報道によると、アルジェリアで日本人を殺したテロは外人部隊であるという。その近隣では失業率が高く、傭兵を志願する者が多いという。日本にもそのうち(人殺しが仕事である世界)ができてしまいそうな気がするが、その前に体制の狙いをいつも見張っておくべきである。
8年前、息子が高校二年生の時であった。
(お父さん、ゲームのカードを買いたいから、車で乗せて行って)
(おー、良いよ)
わたしは軽く答えて、にんまり笑った。
息子は6,7歳の頃から、冬の寒い朝など石油ストーブにべったり張り付いて飯を食い、その食べ方は障害者のように遅かった。何度注意しても改めなかった。サッカー部に入り、試合のたびに私は車で送迎した。体を鍛え、健康であることが大事で勉強は二の次だと考えていた。中学、高校と進んで、反抗期に入ったことはわかったが、甘え癖、怠け癖、他人のせいにする癖はひどくなっていく一方だった。いつも週に二回は遅刻し、高校から注意されていた。
(学校に遅れそうだから車で送って)
(ふざけるな!学校がいやなら辞めて働け)
(俺の名前をなんでこんな名前にしたん?こんな名前だからなにをやってもうまくいかん。変えてくれ)
(日頃の態度が悪いから人からそんなふうにみられ、名前にもイメージができてしまう)
私は言い、少しは治っていくかな考えていたが、なおらなかった。
(根性を入れろ!根性がないと社会に出ても食っていけないぞ)
(そんな大昔の言葉を使って?)
こんな有様だった。
息子が助手席に乗り込むとシートベルトをつけさせた。
わたしはドアをロックした。
(貴様このやろう、俺が何度言ってもわからんな。お前は人間世界で生きてるから殺されもせんでいられるけど動物の世界だと食い殺されてるんだぞ!)
というと息子に向かい、両手の拳で叩きつづけた。
息子は両手の平で頭をかばっていた。
いつも叩こうとすると逃げ足が速く追いつけなかった。サッカーで鍛えていたからだ。
その日はそのままゲームのカードを買いに行き、息子と話すことはなかった。
次は高校三年生の時であった。息子は公園でタバコを吸っていて学校に通報され、わたしが学校に呼ばれた。(これでお前は退学になるんだな。上の学校に行く金を出さなくて俺は助かる)とわたしは息子を罵倒した。息子は涙を流した。担任がわたしの家庭を訪問し、謹慎処分をくらった息子の様子を見に来た。(先生たちも大変ですね。文部官僚の言うなりになって自分の教育方針を実行できない)わたしは担任に言った。(お父さん、子供をしかったり叩いたりしてはダメですよ。誉めてあげなくては)担任は言った。
その年の春休み、息子は自動車販売店で洗車のバイトをし、専門学校に入り、アパート住まいを始めた。二年間通学しながらバイトをして、その金で自動車教習所に通い、免許を取り、就職した。
昨年の7月、わたしは心臓のバイパス手術をした。手術に失敗して死ぬ恐れがあったのでツマは息子のケイタイに電話を入れたが、(着信拒否)になっていた。息子からはまったく音信がない。
わたしは時々、気にかかった。(便りがないのは良い便り)という言葉があるが、どうしているだろうか?息子を訪問しようと考えれば出来る。
(お父さん、高校の先生がお父さんのことを何と言っていたか知ってる?)
(何と言っていた?)
(おまえは可哀想や。あんなお父さんに育てられからグレたんやな)
そんな会話が最後にあった。
(俺は自分の教育方針が間違っていたとは思わん)
そんなやり取りが思い出される。
さて、今回の全日本柔道女子の監督の暴行事件。練習に遅刻したり練習態度の悪い選手を叩いたり、暴言を吐いたという。マスコミは一律に暴力は悪いというキャンペーンを張っている。
私は今でも息子を殴ったことを悪いとは考えない。
選挙の結果、前町長の宮内氏が約七千票、開発反対派の西田氏が約五千票の獲得だった。二千票の差で前町長が再選したが、西田氏の五千票は開発の署名反対運動で獲得した数とほぼ同じであった。西田氏がもう少し早く立候補の表明をしておれば結果は逆転していたかもしれない。町長の毎日の仕事は様々な催しや会議に参加して顔をうることであり、彼の交際費の中から町民への慶弔金もでており、圧倒的な選挙運動を事前に組織的に展開していた。町議や教育長、町長、副町長、職員達の年収、退職金の数字も西田氏によって公表され、彼女は自分が町長になったらそれらを削り、町長の退職金は0にするとまで訴えていた。このことに開発側の町議、職員、町長、副町長、教育長などは恐れおののき、自分達の既得権を守ることに専念し、あらゆる地縁、血縁、開発業者を動員して得票活動をした。西田氏の町長選出発式には30人、宮内氏の出発式には300人の支持者が集まり、この数字でわたしは宮内氏の勝利を予想した。自民党の麻生代議士も衆議院選挙と重なったこともあって宮内氏と手を組み、開発反対を訴える者は西田氏とわずかな共産党議員だけであった。他は自己の既得権の防衛に走り、岡垣町をどうするかなんて考える者はいなかった。10対1の差で自分が再選すると信じていた宮内氏は五千人の開発反対署名者の数と二千票の得票の差に敗北にちかい苦汁を飲まされた。
海老津駅南口開発にたいして議会ではまだ継続審議なのに、正月明けから金比羅山でチェーンソウの荒々しい響きが鳴り渡っていった。30個はある頂上への石段、その両脇に茂った杉の木が間伐も含めて100本ちかく切り倒され、その後は小学生が動因させらて桜の木を植樹し(きれいな町にしましょう)と訴えかけさせた。町の演出どおりに進められていった。金比羅山の線路側、幅17メートルの杉の木が100本以上倒され、消えてしまった。禿山が赤土をむき出している。そこを17メートル道路にするのである。山の入り口に立っていた樹齢200年ほどの銀杏の木が切り倒され、そのあおりでそばに立っていた社が崩壊し、その弁償は業者がするかどうかもめているらしい。秋祭りのときに子供達が歓声をあげていた相撲場も消えた。
あの杉の木の地面の中で、今年の夏に鳴こうとおもっていたセミたちは殺されたんだな、といつも散歩している男は言い、あの神社の下のお地蔵さんの前垂れはうちの母がいつも作ってやっていたと付け加え、町に苦情を訴えに行っても協議会が了解しているとこたえるだけだといった。
これはまだ序の口で、これから岡垣町の象徴とも言われる金比羅山が破壊されていき、車の走らない広い道路が出来ていくと思うと胸が痛んでくる。
わたしたちは産まれると母親の乳を飲みます。母親は子供の顔を見ながら授乳をしますが、それに飽きるとテレビの画面を見て笑いかけ、子供に乳を与えるようになります。まだ意識の育たない乳児でもそのことに気づき母親の存在よりテレビのほうに関心をもち、その世界を知り、親しもうとするようになります。テレビの洗礼を受けるのです。そこは苦労をしなくてもそしてこの世の真実を知ろうとしなくても、美味しい料理があり、素敵なパパとママそして美男美女が笑いかけるのです。いつも(ハッピイ!ハッピイ、!幸せいっぱい)の世界なのです。こうして学校教育を受ける前からテレビに向かって十字を切るようになり、その世界の信者になっていくのです。そのほうが迷いがなく、価値観も預託できて安心気楽なのです。こうしてテレビにコピーされた人間が大量生産され、体制の一細胞となって、キレイキレイ社会をつくり、自然破壊をしていることにきづかず、無農薬農業を標榜しながら田のあぜ道に除草剤をかける人間ができるのです。
歳をとり、死ぬ間際になり、病院に入っても隣の患者と人生や死について語り合うわけでもなく、イヤホーンを耳にあて、顔の傍にあるテレビを見ながら、世を去っていくのです。
現代をどのように捉えるか?ということになればいろんな捉えかたがあるでしょうが、私は3年前に(デジタルファシズム)という言葉を思い浮かべました。自分の考え事、人の話、新聞・テレビ・ネットの情報の中に数字が主導権を握り、為政者・マスコミが国民をマインド・コントロールし、私たちはそれの信者になってしまっている。数字のマジック、詭弁、欺瞞には空恐ろしさを感じ、実例をあげればきりがなくそんな手品に自分の人生が支配されてきたことがわかれば憎悪さえ沸いてくる。
(高齢者の犯罪が増えました)と新聞が報じていたが、その増加率は高齢者の増加率とどのように関連してるかの数字は出さない。高齢者の人口が増えれば犯罪の数字が増えるのは当然ではないか?
警察官の犯罪が増えたように報道してもいたが、それまでは彼らが前科者情報やガサイレ情報を流しているのは日常的であり、情報公開が義務づけられたにすぎない。テレビ番組の視聴率も首をかしげたくなる。その時間帯にテレビを切っている者の数字は入ってはいないから正確な数値ではない。
こんな報道の仕方では白を黒ということだって出来るのである。事実と真実はちがうのである。当局が都合の良いことばかり言いたければ都合の良い数字・事実を出せば良いのである。都合の悪い数字・事実は隠しておけばよい。
マジックによるこんな操作が東北大震災を引き起こしたのである。新しい時代は合理主義の思想を見直し、再検討しなければならないし、合理主義は偏向し迷信にもちかいものであることに気づかなければならない。時代や思想を大きく歪めてしまったことも。
支える者、支えられる者、あるいは被害者、加害者、あるいは支配者、被支配者、あるいは教祖、信者などにおいて私たちは対立概念を教えられてきた。ところが、支える者、支えられる者においてもわかるように支える者は支えられてもいるのである。(人)の形を例に出すとすると、支えられる側が崩れ落ちてしまえば支える方も支える対象を失って孤立し、崩れてしまうのである。物理学的現象である。
ある初老男は認知症の母親の世話をしていて、食事を作り話相手になって面倒をみている。母親はほとんど家の中にいるが、時には家の玄関と庭先を行ったり来たりして運動もしている。息子の帰りが遅いとふらふらと近くまで彷徨してしまう。現在、彼は母親を支えているように見えながら、もし母親が亡くなった場合支える対象を見失って自分を失うであろう。
ボランティア活動においては助ける側は助ける行為において相手より優位な自分の立場を実感し、安心するのである。だから無償の活動をするのである。これは慈悲とかヒューマニズムとか言うことより力学的現象なのである。
長年にわたって喧嘩ばかりしている夫婦がいる。亭主はツマが不倫をして出て行くか不慮の死にあえば良いと思っているのだが、ツマはいつまでも元気でささいなことで亭主を攻撃する。ある日、自転車をこぎながら買い物に向かっていた彼女が飲酒運転の車にはねられて死んでしまった。亭主はおどろきながらもチャンスがきたとおもい、願っていた再婚にかかろうとするが、喧嘩相手をうしなって意気消沈してしまう。
こんな意外な顛末になるのである。まさに逆説であるが、マスコミ報道や世間の見方をかえてみれば意外な真実がひそんでいる。