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今の時代においてこんな言葉を出すことは(不謹慎)であり、タブーでしょうが、そろそろこの言葉が出ても良いのではないでしょうか?人間に(生きる権利)があるというのなら、(死ぬ権利)があっても良いではないですか。死ぬ状況にはいろんな状況がありますが、人生の勤めを終えての老衰死、不治の病、燃え尽きた状態、(死)に希望と幸福を見出している状態、そんな状態で本人が死を望んでいる状況あれば安楽死に導いてあげてもよいのではないか。
当然、そんなことをすれば殺人や自殺幇助の罪に問われるであろうが、昔の切腹の儀式においては介添え人がいて、痛みを和らげるために腹を突いた瞬間首をはねていましたね。あれは仕事でもあるが、ちがう見方をすれば慈善行為なのです。
近代以前の歴史はなんでもかんでも野蛮だといって否定してはいけません。見直すもの学ぶべきものはたくさんあります。
今こそ、(死)をとおして(自然の中の人間)をもう一度見つめなおすべきです。
反原発をはじめとしてエネルギーが危機的状況になっていますね。世界的にもエネルギーが足りなくなるということです。そんな中でわたしはこんなアイデアを考えました。自転車をこぐと電気が発生し、ライトが点きますね。どれくらいの電力がつくれるのかわかりませんが、それを活用してみてはどうかということです。
各家庭に一台人力発電機を備え付けて、時間のある者や運動の必要な者がペダルをこいで発電するのです。それがわずかな量でも電力がまかなえれば良いではありませんか。その裾野は暇な人々、失業中の者、刑務所に入っている人、施設に入っている人などひろくあります。
理想的には自分が使う電力をこの方式でまかなえればエネルギー危機はなくなるはずです。
CIAなどの諜報機関には殺人許可証があるのか?と疑問に思ってネットで調べてみた。もし犯罪行為があればその国の警察機関に摘発されるであろうが、その警察機関が諜報機関とつうじていれば殺人行為でも闇にほうむられることがある、と載っていた。
欧米の人権国家が人権侵害国家を非難しながら自国の殺人行為を黙認している。諜報機関が殺したり傷害を与えたりした被害者達は闇に葬られたり、事故死にされてしまっている。そんなことが許されるのだろうか?と疑問に思う。特にあの(ダイアナ妃の死亡事件)は今でも謎めいている。
人権民主主義の正義をふりまわしながら世界を支配していくこの流れ、誰も異議をとなえないこの流れはファシズムにちかい。Y資本が軍需産業を経営しながら世界帝国を築き政治や戦争を支配していることに誰も気づかないのであろうか?
社会では口論をする者も罵声を浴びせるものも暴力を起こす者も唾を吐くものもいなくなった。隠れてタバコを吸っているものが発見されるやいなや(敷地内で吸った)ということでまるで犯罪者扱いである。だが、キレイキレイ人間、キレイキレイ社会、キレイキレイ国家になればなるほど化粧の下に恐るべき闇を隠していくのである。
あれから、農作業をしながらリハビリにつとめていました。ところが息切れが激しく、寝返りをうっても息が切れるのです。妻が見かねて病院に電話を入れ、再入院しました。
肺炎を起こしていました。心臓と肺に水がたまり、38度の熱がありました。抗生物質と栄養剤の点滴をうけ、ベットに寝る生活がつづきました。倦怠感と虚脱感に一日一日が過ぎていきました。考える気力もありませんでした。4日間は絶食でしたが、もともと食欲不振と吐き気で食欲はありませんでした。
五日目におかゆの食事が出ました。私はおそるおそるお茶碗のふたをとり、おかずのふたをとり、箸でおかゆを掬って口に入れてみました。ご飯の味がしました。なんともいえない味でした。ゆっくりゆっくりスローモーションのようにシャケの焼いたのを箸で小さく切って口に入れました。時間を忘れて、食べていきました。胃は食べ物をうけいて活動を始めていました。内臓から力がわいてくるのがわかりました。
涙が出、胸が感動に震えました。
命の意味がわかったのです。
食べ終えた時、両手を合わせていました。
渋谷駅メトロ・ホームで殺人未遂事件が起こり、犯人はつかまった。被害者はサバイバルナイフで刺されたが一命は取り留めた。(肩がぶっつかった)のが刺した原因だと犯人はいうが、因縁がぶっつかったのだとわたしは考える。無数の人々が行き来する場所だから、一日に数人の人達と体がふれあうことは日常的である。
そこでなぜ刺した男と刺された男でなければならなかったのか?(因縁をつける)という言葉があるようにお互いに因縁を持っていてそれが遠くから反応しあっていたのだ。加害者はなにをやってもうまくいかないというストレス、被害者には人生上における無力感が負圧を生じていた。そこで鋭い隙間風がナイフの刃先となって流れ込んだ。
よく見られる物理化学的反応ではなかったのか?
4月26日にわたしのバイクが通りがかりのものに盗まれた。激しい金の取立てをしたこともあったのでその恨みを感じた。
5月26日にはスナイパー(血栓)に心臓の血管をふさがれ、死にかけた。血栓は美味しいものを長年食べつづけた快楽の集積であるが攻撃因子に変わった。
因縁がぶっつかたのだが、中には良い因縁もあるから悲観するばかりではない。
今は一年の中で一番好い季節ですね。寒くもなく暑くもなく雨も少なく、酷暑にむけてつかの間の恵みの太陽です。生い茂った雑草の中に座り込み、手で露草を抜いたり硬い雑草はカマで切り落としています。自宅が200坪、母の残した家が700坪もあるので、毎日その作業をやったとしてもやりきれません。
十歩も歩けば呼吸困難、1時間も作業をすれば体が動かなくなる状態なので、遠出は出来ず身近な仕事をしてリハビリをしているのです。いつまたスナイパー(血栓)に襲われるか知れませんし、心停止、心不全の可能性もあります。あさって検査にいくつもりですが、いつも死を覚悟しています。
(病み上がり、ヤブガラシを引き抜けず)
なんて言葉が思い浮かびました。
(解放の日々、草むしりをしてすごす)なんて言葉が思い浮かびました。会社には休業届けをだし、生命保険もかなりおりてきます。仕事のノルマから解放され、未来の責務も計画もない今、こんな体験は初めてなのですが、今日が最期の命だとおもって過ごしています。
もうすぐドクダミに花が咲きます。以前は邪魔者で腹だたしかったのですが、洗って日陰干しをして売れば金になることを経験しましたので、今年は大量収穫の年になりそうです。売れなければ秋まで保存して高値にすることも出来ます。
ドクダミ君、早く白い花を咲かしておくれ!今年は二度収穫してあげるから!
その日、15時から2時間にわたって、冠動脈のカテーテル治療をおこなった。主治医をはじめスタッフは8人ほどであった。3度目の治療なので手術台に載ったわたしは落ち着いていた。4ミリの冠動脈の90パーセントを塞いだ血栓をバルーンで広げ、ステントを入れて90パーセントほど開くのである。
痛みもなく終わり、わたしは一安心したわけだが、気にかかっていたことがあった。通常人の1.5倍も大きいその血管、それに張り付いた血栓がはずれ、血管を回り始めたらどんなことになるだろう?主治医はプロだから備えと対策は十分にとっているはずだ、心配することはない。
わたしは病棟の部屋にもどり、夕食を食べ始めた。
心臓が痛み、吐き気が出、わたしは異変に気付いた。心臓が鼓動にあわせて突き刺され、耐えられない。痛い!痛い!痛い!と叫びつづけた。看護婦がふたり駆けつけ、わたしをベッドごとナース室に運び、すぐに心電図をとり、心筋梗塞といった。わたしはその間、痛い!と叫び続け、しだいに声も力が失われた。主治医に電話を入れた二人の看護婦は彼が来るほうを向いて、談笑していた。
天井が走り、壁が走り、わたしのベットはすごい勢いでもとの手術室に戻された。
そらからのかれらの手際は素晴らしかった。ソケイ部の両方の血管にステントを押し込み(箸のような太さであった)、ペニスの穴にホースを押し込み、左手首からステントを入れた。発病後2時間ちかくたち、血圧は20?30に低下していた。あと1時間遅かったら死んでいた。
現在、その日から3週間たって退院してるが、後遺症が出て少し動くと息切れがし、心臓が痛む。酸欠になった心臓は繊維質化してポンピング機能をかなり失ったのである。
一ヶ月前の3月26日にバイクの盗難に会い、バイクは戻ってきた。それから一ヵ月後に命の盗難にあい、戻ってきた。欲しい人がいればいつでもさしあげます。
このブログへの返信が外人もふくめ40人ほどあり、うれしくおもっています。書き続けます。
この問いに対して今は簡単に答えられるようになりました。本来的な自己を教育、社会概念によって訓育され、鋳型にはめられた人間ということです。化学反応じみた生成の結果であると定義づければさらに簡単です。若い頃から、(人間は素質と環境によってつくられる)と考えていたことが正解だったのです。化学反応として方程式で現せるでしょう。
だからどうなのだ?と質問されたとしても、どうでもありません、としか答えられません。もっと力いっぱい生きてきたとしてもたいした変わりようはなかったのです。これ以上にもこれ以下にもなりえなかったし、それでじゅうぶんです。
他方、自分が捨てざるを得なかったものをもう一度手に取り、拾い集めたいと考えています。
ダックス・フンドは飼い主の数十秒先を現実として観た、と書きました。オイちゃんが集金に来るという人間にとっては数十秒先の未来なのですが、そこに私は不思議を感じるのです。
人間は普通の生活の中で未来を見ることは出来ません。けれども、死ぬ間際に未来を見ることがあるといいますね。私の母は亡くなる3ヶ月前に(戒名がないとあの世に行っても友達づきあいが出来ないから戒名をつけてね)といって私に20万円を渡し、旅立ちました。旅立つ3週間前には(ほうれん草を持っていきなさい)と言ってベットから起き上がりました。膝と腰の痛みで寝込んでいたのですが、軽々と畑に歩いて行って、ほうれん草を引き抜き、私に手渡したのです。
彼女は自分の死期を知っていました。
つまり、未来はすでに下絵としてあったのです。現実に現像されて現実になるのを待っているだけなのです。人生も潜在観念(下絵)としてそなわっており、踏襲されて現実化するるだけのことなのです。このことは宗教的な表現(因縁、カルマ、宿業など)で言われますが、科学的に解析しても整合性がとれます。
ここで宗教と科学が一体化してくれれば、もっとわかりやすくすっきりした世界になると考えるのですが、両者とも業界の既得権にとらわれているのが残念です。
でも未来がわかってしまうことが良い事なのか悪いことなのかはわかりません。(タイム・マシン)の作品にあるように未来は変えられないとしたら、わからないほうがいいかもしれません。
福岡伸一さんの(生物と無生物の間)という本を数年前に読み、感動しました。生物とは自己繁殖能力のあるものであり、無生物とはそれのないものである。ウイルスはその中間に属し、宿主に寄生してでしか生きていけない、と書いてありました。
私は仕事がら毎日、バイクで走っています。風が吹いてきます。風の吹き方は春夏秋冬、あるいは一日中でも絶えず変わります。直線的に吹いているかと思う、と蛇行したり旋毛になったり回転したりうねったり、あるいは歌をうたうようにのんびり吹いたり、暴風になったり、竜巻、台風になったり人間の感情のようにたえず変化します。大気は蒸気になったり、氷になったりして変化します。
福岡伸一氏は、風や大気は自己繁殖能力がないから無生物であると定義づけるでしょう。
私には生き物に思えてしかたありません。生物はもともと水溜りのなかからウイルスが現れたように、無生物の中から現れたのです。無生物は生物の古里なのです。
動物愛好家が岩や石の愛好家になるのはこのことだと思います。