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50年前に東京で遊学していた頃、第一次羽田闘争、新宿騒乱事件などが起こり、反体制の状況にまきこまれました。70年代、80年代闘争として流れはつづき、政治、風俗、文化においてまさに多様な状況が興隆し、さまざまな小説、評論、ルポが生み出された中でわたしが手にした斎藤茂男著(我が亡き後に洪水は来たれ)が印象的でした。わたしが経験したような巨大企業の底辺労働者達を取材した作品であり、想像もできないような生産現場の実態とその驚きを書いていました。このタイトルはフランスのルイ15世時代に愛妾のボンドオール夫人が浪費や奢侈をとがめられ、言い返した言葉です。
前回のブログでも書いたように、自動車組み立て工場において腕時計に目を向ける時間がないほどの労働、仕事仲間と工具の投げあいをするような生活、こんな世界で新車の車体がきれいな塗装をされて流麗な体を貴婦人のように流していき、わたしはそれにかしずく賃金奴隷でしかなかった時代です。今も同じ状況でしょう。
男の人って集まりがあっても人と話もしないし、何を考えてるんでしょうねえ?女なら知らない人でもすぐにうちとけるのに。
こんな話をある集会で老婦人がしました。
わたしは同感でしたがすぐに答えられませんでした。
一週間後の今になってわかりました。男達は組織の中で徹底的に部品にされ、それを変える事すらできず、死を待っているのだと。今もなお、職場の中にいる気分なのです。だから岡垣町の金の使い方がおかしいとか開発の立ち退き世帯の中に前町長の愛人がいて1億円の立ち退き料をもらうことになっているとか(税金からでる)後から後からでる黒い噂にも反応しないのです。韓国で修学旅行生を乗せた客船が沈没し、父兄が子供の安否に激高し政府や大統領に掴みかからんとしてるニュースがでましたが日本ではありえないでしょう、国民性のちがいがありますが。
団塊世代は何を考えているのでしょう?目先の生活にしか関心がないのですか?年金や孫に恵まれ、たまに旅行でもしてることに満足するしかないのですか?あなたたちの務めは若い人に人生や時代の経験を教えることなんですよ。
まさか、(我が亡き後に洪水は来たれ)なんて考えてはいないでしょうね?
すべての領域、組織においてデジタル化、細分化、微分化が急速に進み、基本命題を忘れ、全体を見る目や俯瞰視を失っている。その結果、ガバナンス(統制機能)が失われ、社会全体が統合失調症に陥っている。考えられないような事件や事故が多発しマスコミは材料に事欠かないが、次はなにが起こるか人人は半ばあきらめ、あるいは不安神経症、ウツ病になっている。町を歩いている人人の顔を見ていればわかる。千兆円の赤字がありながらそのことには目をつぶり、経済成長の信仰に励む総理大臣、スタップ細胞の発見?で化学者たちがはっきりした原因を言えず、何度もマスコミに出る、福島原発も明確な因果関係を立証せずに再稼動する、ことなどすべての業界が虚偽と欺瞞に陥っている。
ある大学の哲学教授が話していた。みんなが幸福で健康であるようにと。彼は授業では古い哲学の講義ばかりして今の世界を哲学的視点で捉えようとはしないし、する能力もない。彼が持っているのは資本主義哲学であり、最大多数の最大幸福の世界である。
幸福者がいる分だけ不幸者も存在するなんて、彼が考えても言えはしない。そんなことからもう一度この世界を再構築しなければならない。
世の中を生きていると不可解な社会の動きや人間の言動に出会いますが、動機や原因を調べればほとんど理解できます。それが歳をとるということでしょうが、次の事実だけは全く理解できないし、人類への不信感と地球の未来に恐怖を覚えてしまいます。
平気で除草剤をまいて雑草を殺す人人です。野菜づくりを楽しみ、精を出している人が除草剤はまいても大気中に消えて害はないと信じ込んでいるのです。大気中に拡散した毒は雨になって地面にしみこみ、地下水を汚染し、汚染水を人間が飲むことになるのではないですか?それに植物を殺せると言うことは動物も人間も殺せると言うことではないですか。害がないと主張する人は自分で除草剤を飲んで証明してください!
野菜はもともとは雑草だったものですから、野菜と雑草の本質的なちがいはないのです。野菜は人間の役に立ち花は可愛いが、雑草は邪魔になるという浅はかな考えは、古い言葉で言えば雑草の(継子イジメ)をしていると同じです。雑草も可愛い花を咲かせるし、それより酸素を人間に与えてくれ、汚染物質も葉に付着して人間を護ってくれてるじゃないですか。動物を殺せば動物虐待になるのに植物を殺すことは虐待にはならないにでしょうか?
おかしいことを平気でする人間が多数派になり、地球を破壊していくのにマスコミも取り上げない。JAは除草剤には害がないといって売り、金儲けしか考えない。岡垣町も(住みよい街、住み続けたい街)と言いながら、除草剤を撒き続けている。動物愛護の協会があっても野草愛護の組織はない。野良猫や野良犬どうよう野草たちもなにも悪いことはしていないのに屠殺処分をうけるわけである。ペット依存症の人間が多いのに本来の命の尊さを失い、自己中の自己に気づかない。
昨日、(宇宙が始まる前には何があったのか?)ローレンス・クラウス著の本を買い、読み始めました。かなり難解ですが、日頃わたしが考えていたことが書いてあるのでページに自分の意見を書き込みながら読み進めています。まだ24ページまで読んだ段階ですが、閃くものがありました。
作者は何もないところから宇宙が誕生した、といっていますが、ヒッグス粒子は存在しないといわれながら発見されました。感知できない粒子が存在しているとしても人間がまだ感知できず感知する装置もつくれないのではないでしょうか?
私達は太陽系の宇宙の中でで生活してるわけですが、それ以外にも宇宙は8個あると書いています。他の宇宙から何かの物質が太陽系宇宙に飛んできたことも考えられます。最初の物質は塊だったのか一粒の物質だったのか興味がありますが、一粒の物質だとすれば、このことが人体(小宇宙)に敷衍することができます。女体の場合、ひとつの卵子に無数の精子がぶつかり一番強いものが受精されます。それから胎児が出来ていくわけですが、受精する前は他の生命はなかったのです。なかったというより結婚する男性の睾丸の中に片割れとして存在していたわけです。
数週間前のNHKスペシャルで次のことを話していました。ノーベル賞受賞者である7人の学者が集まり、超常現象の研究をしました。ある学者は(生まれ変わり)の調査をしました。3,4歳の子供が、自分が産まれる前の家庭や両親の話をするのです。結果として、44例が事実であったと報告しています。他の宇宙にいたということです。両親がめぐり合い(偶然か?必然か?)の興味がありますが、女体と男体の宇宙どうしが結ばれたわけで、親兄弟などの惑星がまわりに出来るわけです。
系統発生として人類をはるか昔までさかのぼれば、はじめは何もなかったでしょう。あるいは素粒子のような極小のものが存在していたこもしれません。なんらかの理由で物質が生まれ、、異次元の宇宙から精子が集まりいっせいにそれを目掛けてぶつかりました。そこで受精して単細胞からおおきくなりました。太陽になり、現在の宇宙になったのです。
(母なる太陽)という言葉はこれを意味してるのではないでしょうか?
わたしは毎日、近くの山道を一時間くらい散歩していますが、そこでO君という58歳の男と知り合いました。かれは退職して高齢のお母さんの食事を作ったり買い出しに行ったり、近所の高齢者のお手伝いをしたりしています。日に3,4度も山道を歩き、美しい夕陽に感動して見入ったり、出会うと誰にも挨拶し話しかけもします。自然大好き、という点でわたしと共感して親友になり、わたしはぼ毎日彼の家の前を通りかかって、彼と長話しをしたりし二人で竹の子を掘ったり兄弟みたいなつながりです。
すごく純真なせいでしょう、金比羅山の傍の道路整備事業の工事に対しては怒りをむき出し、作業員や町の建設課の職員を怒鳴りつけたりします。ユンボが地面を叩いたり擦ったりする騒音に耐え切れないと言っていつも耳に栓をしています。私以上に感受性が強いのです。
利便性より不便性を求める、という考えで彼の家はテレビもストーブもなく新聞もとっていません。もちろんPCもないし、ケイタイは持っていますがガラケーで、メールもしません。トイレは汲み取りで彼が汲み取って畑に埋めています。
ネットで知った知識を彼に話しました。千日回峰行や自然破壊の話、若い頃の経験談にすごく興味を示しました。スマホのタブレットを彼に貸してネットやわたしのHPを見せると喜びましたが、わたしにすぐに返し、この世界に自分が入ることはないと言いました。
わたしは不思議に思いました。お金にそれほど不自由してるわけでも操作能力が欠けているわけでもない。図書館で本を借りたり本を買ったりもしているのに、なぜかな?と考えていました。近頃になってわかりました。彼もうまく表現できなかったのですが、わたしは現場活動とネットと両方の方向があるので、わかったのです。ネットの情報は恐いくらい豊富なのですがそれは現場を見ずにして信じ込むという危険性があり、自分の体をとおしての経験ではありません。それは便利な反面盲信してしまう恐れもあります。
O君はそれを感知して、ネットから離れているのです。山道のそばに湿地帯があったらその中に入ってセリを取り、和え物を作ることを考えたり、ワナにかかったイノシシが片足をぶちきって逃げる姿をみたり、木漏れ日の下で心の音楽に酔ったり、そんな自然の世界にすっかり満足しているのです。
わたしはこんな人は必要だと考えます。すべての人間がネットをみてその情報を信じ、満足する世界はある意味で恐い社会です。もし間違った情報、北朝鮮が日本に向けて核ミサイルを発射したなどということが間違って配信されても信じてしまうでしょうし、体制側が全地球人類をマインドコントロールするのも簡単に出来ます。
O君のような人はそんな意味で(希少人)なのです。
新社会人の写真をテレビや新聞で見ると、良かったね、と言ってやりたい反面、当時の自分を振り返って複雑な気持ちになります。わたしは昭和47年に法政大学第一法学部政治学科を卒業していると思います。思います、と書くのは入学式はおろか卒業式にも出席しなかったからです。特別な事情があったわけではなく、ともかくその場に出たくなかったからです。そのせいか卒業証書ももらいませんでしたし、卒業したのかも確認しなかったのでわかりません。
若い頃から、すごく好き嫌いが激しくいい加減なところがありました。これで66才まで自立して生き、妻子を養ってきたことが自分でも不思議に思えます。つい最近まで大学時代に教科書も持っていなかったので生協の本売り場に買いにいく夢を良く見ました。あの頃は学生運動に少し関わったり、マージャンに狂ったり、いろんな肉体労働をしたり、空手をしたり、たまに女を買ったり、友達のアパートに何週間も泊り込んだりなどしてました。四年生に近づくと不安になりました。就職先を考えるとそんな自分が働く職場なんてあるのか?などと考えて積極的に探す気持ちにもなれませんでした。
臨時の肉体労働をしながら食いつなぎました。35歳を過ぎて都会生活に耐えられなくなって、実家に帰ったのです。
そんなわたしですから、大卒22歳で就職する若い人のためになる経験談でもしたいのです。
これまでの自分を捨てる覚悟が必要です。原則的に自分をで出してはいけません。組織のパーツになること決意してください。仕事をおぼえたら研究心、探究心でまわりを観察してみましょう。なぜそんなふうにしなければならないのか?なぜそんなふうになってしまうのか?などには必ず必然性があります。あなたの経験はどんなことでも将来において有益なことばかりです。コミュニケーション力と同時に何事にも興味をもって表現力をみにつけましょう。ネットばかりをみるのではなく、むずかしい本や小説を読み、物事を深く考えることも大事です。
自分がこの会社の社長になったらどうするか?などとも空想してみましょう。
大学を出て、日産自動車座間工場で自動車の組み立て労働をしました。その時の驚きは今でも忘れません。ベルトコンベアで流れてくる自動車のトランクの中に上半身を突っ込み、テールランプを組み付ける仕事でした。運動神経の鈍いわたしはインパクトでうまくボルトを打ち付けることが出来ませんでした。次の工程の作業者は仕事が出来ず、わたしを怒鳴りつけました。わたしの指導をしていた工員はわたしにボルトを投げつけました。今は何時か?と腕時計を見る時間さえありませんでした。
労働、というより刑務所に入れられて苦役をさせられているみたいでした。おまけに三交替で24時間を三つに分け、昼、夜、深夜と一週間ごとに勤務しました。コンバヤ労働は肉体労働の中でも一番過酷なものです。自分の仕事が社会にどんな結果をもたらしているのかまったくわからない、ただの賃金奴隷だったのです。いや、正直なことを言いましょう。自分がテールランプを組み付けた車が街中を走ってるのを見るたびに逆に不信感が起こったのです。あの車のテールランプはきちんと役割を果たしているのだろうか?流れ作業の中でもしかしたら組み付け不良でランプがつかないのではないかと。
この経験でわたしはF・カフカの小説が理解できるようになりました。底辺から世の中を見、思考が深まり、世の中の動きのほとんどが理解できるようになりました。恐いものも人間もはほとんどありません。
私にとっては、どんな状況でもどんな経験でもどんな人間でもすべてに価値があります。すべてが探求の対象だからです。
(言語が人類を狂わせたから、こんな世の中になった)と言った友人がいた。
(それはそうだな)とわたしは考え、言葉を手品のように操る者達が世間で踊り、にぎわい、名をあげ、金をもうけ、権威さえ身につけている実体を思い返した。あげくには原発安全神話をでっち上げ、人類滅亡の危機さえ産みみ出しながら自己および組織の検証もせず、懺悔もせずにのうのうと生きながらえている。スタッフ細胞のヤラセ事件は早めに偽造が発覚したから良かったものの間違って治療薬でも出来たら、また大変なことになった。この種の事件は次から次へとマスコミをにぎわせ、消えていき、また出てくる。(出物腫れ物ところかまわず)ということである。
(コンピューターはデジタル言語を使ってあれだけのことを表現している。日常の言葉をデジタル化して使えば虚偽や詭弁、ごまかし、オベッカもなくなり数式、化学式のように正確になり世の中の狂いもなくなる)
彼は言った。
この男は頭が良いな!とわたしは驚き、自分がデジタル言語の意味さえじゅうぶんに理解していないことを知った。彼が英語や微積分の方程式が入った紙をみせてくれたがよくわからなかった。
あれから10年後、彼の言葉が間違っていたことがわかった。
方程式や化学式に間違いはない、そのことは確かである。
だがそれも言語と同じ記号であり、ツールであり、何の目的で使うかによって虚偽にも詭弁にも偽装にもなる。言語を手品のように使える連中はそのことを知っていて自由自在に使っている。例えば老人の窃盗事件が増えていて、年毎の数字をグラフに現わす。それは事実であり、説得力があり、ひどい増え方だな、こんなに悪い爺さんたちがいるのだなと見た者は思う。ところが他方では老人人口はその増加に比例して増えているのであり、この事実を平行して出さないから(悪い老人)が多い、というテーマの意図は成功することになる。警察官や公務員、NHK職員の不祥事・犯罪の発生もそうである。以前も同じくらい発生していたのだが組織が隠蔽していたにすぎない。情報公開法との絡みもあって公表せざるを得なくなったのである。警察官が前科者の情報を(警備会社を作った)友人に出し、見返りに身内を雇ってもらっていた例などわたしは知っている。
数式、方程式、化学式が言語より正確なことはわかる。だからこの世の真理をはっきりさせ、数式に現わしてすべての事例をそれに照らし合わせて判断すれば良い。人間は自然と共生しなければいきていけない、自然を模倣するしかない、という真理である。
宗教みたいじゃないか?と思われるでしょうが宗教と審理は一つになるべきなのです。
30、40年前にテレビや雑誌をにぎわしたUFO(未確認飛行物体)ですが、最近はマスコミからすっかり姿を消しました。10年間ほどまったく見ませが、どうしたのでしょうか?嘘だったのでしょうか?すでにUFOという言葉さえも知らない人が生まれ出てる時代ですが、アメイリカのNASAが秘密にしているとかアメリカ軍部のスパイ衛星だとか宇宙人にさらわれたとか物議をかもしたあげくパッと消えてしまいました。まさにUFOが消えるようにですが、報道管制を敷かれているという説もあります。
三日前、NHKスペシャルで超能力の番組をやっていました。いずれもノーベル賞受賞の物理化学者が登場し、いろんな実験をしていました。こんな実験がありました。四人の大人を仕切られた部屋に入れます。それぞれの部屋にはモニターテレビが置かれ、かれらには脳波の測定装置がつけられています。最初、テレビの画像はすべてなにも映ってないのですが、一番端に座っている人の画像に格子状の模様を送信し次に消したりして刺激を与えます。その人は驚きます。すると隣の人の脳波が波立ち、次は隣の人と伝わっていったのです。脳波の波形は四人とも同じで少しの時間のずれがありました。
人間をはじめとして動物の体温は強い恐怖やストレスをうけると三度くらい下がり、まさにゾッとします。ネズミを使ったその実験の報告もありました。同時に白い球状のものを幻覚として見るというのです。
以上、二つの事実で言いたいのは、白く光るもの(UFO)を多くの人が見たという報告は集団幻想であり、これに似た話や経験はいくらでもあるということです。
番組の中で(人間の意識は量子を左右する)という言葉が出てきました。量子というのは物質の最小単位で人の目には見えません。スリット現象という不思議な現象があります。二つの穴に向かって一つの粒子を飛ばしてみます。ここからが不思議なのです。人間が見てる時には粒子は一つの穴しか通りませんが、見ていないと二つの穴を同時に通るのです。粒子は(二つの穴に同時に通るなんてありえない)という人間の常識観念のエネルギーを受け、一つの穴しか通らなかったのです。
人間の常識概念で世の中を見てることや人間中心主義の考えがいかに危ういかということです。そのことに問題意識をもっていないとけっきょく騙されることになります。
結論から言えば、(封建主義体制と民主主義体制)の構図はどちらも支配と被支配の関係であり、その構図は同じでなのです。今の体制は主権在民を主張していますが、実際は主権在官であり、封建的民主主義というべきです。封建主義体制はムチ(武力・暴力)とアメ(利益供与ー大名たちは石をもらい年貢の取立て権をもらう、代官所の役人・使用人は給料をもらう、宗教関係者は利権をもらうなど)を手段としていましたが、民主主義体制はアメ(人権・福祉・社会保障・補助金支給、自由な金儲けなど)とムチ(刑法を犯すと逮捕され刑務所行きや死刑が待っている)で国民を支配し、多数の票をとって政権を維持し、搾取しているということなのです。その体制は維持するために自然破壊と地球崩壊を担保にし、全人類をまきこんでいるるという点では現代文明とも癒着していてもっとも恐い政治システムになっています。
わたしは岡垣町議会を傍聴し、開発反対運動に関わってみてはっきりわかりました。ある男が、(人をムチで叩いて働かせるより金をやったほうが楽で効果的である)といった言葉が真実味を帯びてきた。さらに次の出来事がありました。開発反対運動に加わっていたある人がある区(町内で50もある)の区長になり、そのことで彼に頼んだ人がいました。議会の傍聴に参加してこの町の政治を知ってください、と町民に声をかけてくださいと、言ったのです。それに対して彼はこうこたえたのです。、それは声をかけて良いのかどうかを前の区長に尋ねてからにします、と。町役場に気をつかったのです。傍聴の誘いは町報にも載っているのにです。区長の年収は70万円ほどで彼は区長になりたい人がいなのでなったわけだが、その金が貴重な生活費になる人であれば、封建主義体制の年貢の一部を支給してもらうことで有難いことになります。役人の指示に従いますが彼は生活に余裕のある人なのです。
介護施設を開こうとしている人がいました。利用者から一万五千円の金をもらうと国から補助金が出て15万円になるということです。その人は言いました。町役場の福祉課が介護施設の出先機関になっていて認可業務がからんでいるので、町の職員には強いことが言えないと。
まさに、封建主義体制と民主主義体制は同じ構図なのです。
学生の頃、丸山真男の(現代政治の思想と行動)を読みましたが、今でもその内容と思想を思い出します。戦後まもなく出版されたこの本が戦後ならびに70年後の今の時代を予言していたことに驚きを禁じえません。
知人たちと老人介護施設の開設の話があり、参加した。元気の良い老人たちが6人集まり、話に花を咲かせた。
雑談になり、インド旅行をしてきたと言う70過ぎた夫人が話を始めました。
「観光バスに乗って町中を見ていると、インドの人はみんなこっちを向いて手を振ってくれてね」
その言葉に座卓を囲んだ者たちは興味を示した。
「みんな笑い、顔が生き生きとしてるのよ」
「この町を散歩していても笑ってる人なんて見かけることないわよね」
「そうねえ」
「汚れた服装の人ばかりで、道路は信号もないのよ。車やバイクがあふれ、バイクには5,6人がのっているのよ。歩行者が道を渡るときは車を避けながらすごいスピードで走らなければならないのよ」
「まあ、恐い」
「ガンジス川にも行ったわ」
「どうだった?」
「あそこは聖なる川でインド人が体を洗うことは知ってるよね」
「知ってるわ」
「でもそこには死体も流れてくるのよ」
「えー?」
「河口で死体を焼いて灰を川に流してるんだけど、埋葬料を半額しか出せなければ半分だけ焼いて後は川に流すからよ」
「半分の死体を?」
「そうよ」
「わー、信じられない」「その水を飲んだり、顔を洗ったりするのよね」
「そうよ。ゆるく長い階段のところに行ったら、両端にみんな座っているのよ」
まわりの者たちは耳をそばだてた。
「わたしたちが階段を上っていくとみんな手を伸ばして金をくれ、って言うのよ。幼い女が赤ん坊を抱いて手を伸ばしてきたから良く見ると、彼女の子供だったのよ」
「どういうこと?」
「早熟だから子供の時にセックスをするからよ」
「ふーん」
「そしたらね。抱かれた赤ん坊もわたしに向かって手を伸ばしてるお金をくれ、って言ってるのよ」
「まあ、可愛い」
「栄養不足だからお猿さんの赤ん坊みたいだった。わたしが100ルピーを出すと受け取ったんだけど懐にしまって、また手を出すのよ。それじゃ足りない、って言ってね」
「赤ん坊も手を出した?」
「それは憶えてないけど、男がそばに立っていて女の人を棒で叩き始めたのよ」
「えー、どうして」
「よくわからなかったけど」
「警察官?」
「そんな服装じゃなかった」
「物乞いをするな!っていうことじゃない」
「男が叩きつづけるから女の人も赤ん坊も泣きながら逃げて行ったわ」
「わー、悲惨!」
「わたしは呆然としていた。あの親子はどうなるのかと心配し、もう100ルピーやるべきだったと考えたけどどこに行ったかわからないし、また階段を上り始めたの」
「そしたら?」
「両手と両脚のない男の人が何人か物乞いをしていてびっくりした」
「どうして、手足がないの?戦争の被害者なの?」
「ちがうのよ。後で聞いたんだけど人の同情を引くために手足を切り落としたのよ」
沈黙が広がった。。
「日本の戦後、戦争で手足を失った軍人がアコーディオンを弾きながら街角に立っていたけど」
中の高齢者が言った。
「傷痍軍人、っていうのよね」
その言葉を知らない者もいた。
「今度つくる介護施設は夕食も老人の人たちに出そうと考えてるのよ。うちで作った有機野菜でね」
「それは良い。私達も食べに行っていいのかしら?」
「もちろん」
「どんな料理が出るか楽しみだわ」
「あなた、またインドに行ってみたい?」
「行ってみたい」