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高校で国語の先生をしていた人と話をしていた時、わたしの執筆中の小説に触れ、「(片割れ)という題名は差別用語ですよ」と指摘されました。わたしはびっくりしながら自分がうすうす感じていたことと合致し、唖然としました。(片割れ)は小説の中で妻をさしているのですが、差別用語について考えてみました。一つの法則を持ってることに気づきました。それは上から下へのベクトルであり、決して下から上へ向かうことの出来ない性質があります。それがあるかないかで差別用語かそうでないかの区別ができることに気づきました。
では(片割れ)はどうなのか?例えば相手の足が不自由なことをさす差別用語がありますが、それを障害者に言った場合、障害者には返す言葉がないのです。持ち合わせないのです。人前で差別用語が被差別者に放たれた場合、相手を精神的に殺したのにひとしい結果が出ます。(片割れ)は集団対個人、カップルの相手の場合に使われます。この言葉は決して良いニュアンスはもっておらず侮った意味があります。先方に対しても先方が属する組織に対してもです。それは言った当人には関係のない組織なので言われた者には言い返す言葉がありません。やはり上から下へのベクトルしかないのです。その意味でやはり、(片割れ)は差別用語であり、撤去することにしました。
言葉自体に罪はありません。それを使う者と社会に罪があるのです。特に政治的効果を狙って作られた言葉には根深く取り返しのつかない差別用語があります。封建時代は士農工商の身分制度がありましたが、じつは農民が最下位の身分であり、為政者にとっては年貢を取り立てる大切な階級だったのです。厳しい天候に左右され自分も米が食えない時もある農民に、お前達よりよりも劣った者がいるんだぞ、と言って優越感を与えるためにその階級を故意につくったのです。それが社会にしみこみ、DNAの部分でもふつうの日本人とまったく同じ人が差別されてきたわけですから政治のやることは怖いことだらけです。
このタイトルに思いついて、私自信がおどろき恐くなっています。こんな真実をこんなタイトルで公表してよいものかと迷いましたが、真実を隠すわけにはいきません。
先日、自然農法をやっている人と対談し、そこで学んだ部分がたぶんにあります。
岡垣町の松原は玄海国定公園に指定され、見事な枝ぶりの松が群生していて美しい景観でした。ところがマツクイムシの被害にあい、枯れて今では全滅寸前です。町役場は古い松を全部切り倒して新しい苗を植えようとしていますが、人災で全滅しかけているとは絶対に言いません。町役場にも全滅の原因があるなんて町会議員も言いません。
マツクイムシはカミキリムシの一種ですが、幼虫はマツの幹に穴をあけてそこで成長していくのです。鳥がそれを見つけて食べ、マツクイムシの異常繁殖を抑えていたのですが、田畑にかける農薬が増え鳥の数が激減したのです。マツクイムシは異常繁殖して松ノ木を食い尽くしていったのです。そこでマツクイムシを殺すために大量の殺虫剤をかけたのすがマツクイムシには効果がなく、鳥やその他の生物が死んでいったのです。逆効果だったのですがもう間に合いません。食物連鎖が破壊されたのです。農薬をまくことは天敵を殺して食物連鎖を断って害虫を増やし、それを殺すためにさらに農薬をまく、という恐ろしい循環が出来上がるのです。人間が死ぬまで人間は農薬をまき続けるという未来が待っています。
次は遺伝子組みかえ野菜についてです。遺伝子組みかえ野菜の種は農薬を使わなくて野菜作りが出きるという理由でアメリカから特許を買って(?)生産し販売してるのですが、自然農法をやってる彼が言うにはその種で成長した野菜に虫がついて食べると虫が死んでしまうというのです。虫が死ぬから農薬をかけなくてすむでしょうが、その野菜を食べる人間には害がないのでしょうか?種物をみるとF1と書いてあって遺伝子組み換えの野菜種が増えています。
それに何度も書いていますが除草剤をまくことが普通になっています。大量生産・大量消費の思想が農業に及び、多数派による独裁である民主主義が全世界を席巻している今、この流れが食い止められない限りわたしたちはマツクイムシに絶滅させられた松の木のように全滅させられるしかありません。毎日毎日、毒入り野菜、次には魚・肉を食べるしかなくなるのです。
ストーカーとは不思議な言葉だがすっかり定着してしまった。それは時代が産んだ言葉だが市民権を得たということは、言葉が時代を支配もしているということだ。40年前にはそんな言葉はなく、男が女にまといつき追いかけることは情熱的だといわれたものである。今は男が受難の時代を生きていることの証明でもある。
男と女が恋愛状態の時には、女にまといつくとか追いかけるなんていう言葉はなくそれらは(愛)の行為なので普通の行為である。ところが女が男を嫌い始めるとそれらはストーカーというマイナスの情熱・犯罪その表現に変わってしまう。同じことをしているのに逆転するというのは男には理解できない。ここでは男を中心に書いているが女がストーカーの場合も同じであることを断っておく。
わたしの目つきは近頃ではエロイと言われ、少し前はスケベったらしいであった。恋愛状態だったある女はスケベッタらしいではなく、色っぽいと言った。原因はわたしに親しみを持つか持たないかのちがいにすぎない。たったそれだけの理由でストーカーであれば犯罪者、恋人関係であれば情熱的だと反転するのは理解できないというよりこの世の真実を嗅ぎ取ってしまう。
女にこの人を好きになった理由はなんですか?と訊くとほとんどの女は優しいからというがこれは完全に逆転した言い方である。好きな男が優しくしてくれたから嬉しいのであって、嫌いな男が優しくしてくれるのは極端になっていけばストーカーになってしまう。
こんな微妙な心理を一律的にストーカーと決め付けてしまうのストーカーにとって気の毒である。男と女の好きとか嫌いとかいうのもきちんとした基準があるわけでもない。結論は男と女が持ってる元素の反応次第なのであるかrせいぜい元素の構造式を調べることが有効であろう。
屋敷の中の雑草が生い茂り、敷地内が歩きにくくなった。刈っても一ヵ月後には元通りに生え、700坪もあるので、刈るのと生えるのとの競争になる。夏草は一日に1センチは伸びる。
知り合いから山羊を借りて食べさせようと考えた。サトランドの佐藤さんの家まで歩いて行った。1キロはある。事前に電話をしていたので彼は畑に立って、ラッキョウの植え付け具合を見ていた。彼は家のそばの湿地帯の除草をしてショウブやブドウやユリなどいろんな植物を植え、カブトムシやアイガモや山羊を飼って自然公園造りをしている。イノシシが田畑を荒らすのでワナを仕掛けて捕らえ、槍で射して殺し人に分けたり自分で食べたりしている。
佐藤さんは笑いながら、山羊はオス・メスで2頭いるけど2頭持っていったほうが良いよ、と言ったが連れて帰るのも大変だからオス一頭にした。山羊の扱いは初めてであったが難しくはないと考えて、紐を引っ張りながら歩いていった。通りの家の中から、「ワー!山羊だ!初めて見る」と叫びながら寄ってきたり、「戦時中はヤギの乳を飲んで育てられなした」と声をかける散歩中の老人にも出会った。
家に帰って草の中にオス山羊を放ちました。最初はぼんやりしてたが、伸びた雑草を食べ始たので適応力が強いと読んでいました。ところがメス山羊のいる方向を向いて泣き(鳴き)はじめ、草を食べながらも泣くのです。柿の葉っぱを食べたりビワの葉っぱを食べたり元気は良いのですが、泣くのです。そのうち慣れて泣き止むと考えていましたが、夕方まで悲しげに泣き続けるのです。どうしようか?明日まで置いておけば慣れるだろうか?とまよいながら日の暮れるのを見て、返すことにしました。
連れて帰る道筋でも泣き続けましたが、佐藤さんの家に近づくと泣く回数は減りました。ケイタイに佐藤さんから電話が入り、「どうしてる?メス山羊が泣いてオス山羊が心配になった」というので事情を話しました。
佐藤さんの家のそばの小屋に着きました。佐藤さんが小屋の運動場に入れるとメス山羊が寄ってきました。オス山羊はメスのお尻の口をつけて舐めました。
「ほうら!どっちも泣き止んだ!」
佐藤さんは言い、わたしも笑いさっぱりしました。
その夜独りで考えました。あんな佐藤さんでもイノシシの子を槍で殺すのかな?俺なら、どうするだろうか?
理研の笹井副センター長が自殺した。毎日新聞はこのことを取り上げ、NHKスペシャルの報道番組の中で笹井氏個人を追い込んだと書いている。その番組はスタップ細胞の論文が捏造である、と報道していたのだ。
毎日新聞の主張は当たっているが毎日新聞ですらスタップ細胞論文事件においてそんな報道の仕方をしている。NHK,毎日新聞、その他マスコミ、日本国民も含めて個人の追及はするが組織、システムにまでは踏み込まない。いつまでも変わらず同じ事の繰り返しばかりしてるのはそこに原因がある。独立法人である理研のシステムの中で、政府からの天下りは何人いるのか?政府との関係は?民間組織でなくなぜ独立法人にしているのか?民間会社との関係は?など読者は疑問におもうが歩道しないし、投稿欄においても大きな問題になりそうなことはボツにしている。先日、岡垣町が除草剤を町に散布し、町の水道は地下水を使っているので汚染されるのではと書いて投稿したが返事も来ずボツにしている。
個人が起こす事故や事件はまわりの環境やシステムがほとんど原因である。それを分析して問題提起、改革、改善をしない限りなにも変わりはしないし、日本人自身が変わることを望んではいない。未来の暮らしより今の生活のほうが大事なのである。
この世では対立するものどうしが共生しているが、その形は反転すると対称形になっていることがわかる。これまで書いてきたブログを集約するとその原理が適用できる。
民主主義体制VS独裁主義ー民主主義は多数派による独裁であり、どちらの人民もその体制を崇拝している点では同じであり、そのシステムもピラミッド型で対称形になっている。
警察体制VS反社会勢力ー相手の攻撃に耐え闘わなければならないので武器、実戦方法、兵隊、情報、システムにおいてほぼ似た形になっている。
地形上においてー世界で一番深い海はマリアナ海で9814mの深さであり、一番高い山はエベレスト山で8848mである。
暑さと寒さー世界最高気温はアメリカのデスバレーで56.7度であり、最低気温は南極の89.7度である。
男と女の性器ー両者は対立してるわけではないが異性と呼ばれるように性器においては対立している。対立してるように見えながら鍵と鍵穴のように反転すれば対称形でありぴったり収まる。
愛と憎しみー対立してるように見えるが愛がなければ憎しみはないし、とちらも入れ替わることができ強度も比例する。
放火犯と消防隊ー放火犯はどうすれば効果的に火が燃えるかを考え実行し、消防隊はいかにすれば消し止められるかを考え実行するが、燃える・消えるというのは消えないようにすることが燃える条件であり燃えないようにすることが消える条件であり、本質はどちらもおなじである。
ドロボウと警察ードロボウはいかにして侵入しいかにして盗むかを考え、警察もドロボウの心理になってそれを突き止め逮穂するから心理を反転すれば同じである。
このように世の中は対立してるはずのものが共生しており、一方が消えれば他方も消えることになる。こんな見方をすれば世の中の構造がわかってくる。
(人を殺してみたかった)
この書き出しには次の時代と作品を予感させる暗示が感じられ、静かながら打ち消せない衝動が含まれている。時代が言葉を産み、言葉が次の時代を予言することがある。数年前にもこの言葉を用いた殺人犯が何人かいたが、今回の高1の少女の言葉はわたしの胸に刻印を打ち、聖書にある、汝 ひとを殺すなかれ、とあいまってわたしに迫り、答えてくれと追及してくる。どうしたらいいのでしょうか?わたしは人を殺したくて殺したくてたまらないのですよ!どうしたらいいのでしょうか?教えてください!
きみは物質的にも階級的にも恵まれすぎた生活をしてきたが、母の死、父の再婚に連続してであい、生きる意味を即座に失ったのではないか?(生)の確認衝動がわき、猫を殺して解剖し、(死ぬこと・生きてること)、の対立状況の中で(生)の確認をし、仕上げとして友達を衝動的に殺したのではないか?
わたしが幼い頃はヘビやカエルの尻尾や脚を掴んで地面に叩きつける遊びをしたことがある。ヘビは路上に血をだして死にカエルは全身を痙攣させて死んでいった。正月が来ると飼っている鶏をムシロに包んで首を絞めて殺し、さばいて雑煮の中に入れた。わたしはそこで、可哀想だ、という感情に襲われた。二度と殺傷をすることはなかった。今は豚肉・鶏肉はラップに包まれきれいな姿で店で売られている。血を流しながらもがいたり体を痙攣させて苦しんだりする光景は隠されていて人前に出ることはない。
自然をすっかり失った生活は人の顔を能面に仕上げ、生活から現実感を失わせた。資本主義は終末を迎えながらが延命し、グローバリニズムも延命治療にやっきになっている。(出物腫れ物ところかまわず)で次から次に想像も出来ない事件が起きる。流行り言葉すたれ言葉、で時代を判断することが出来るが、人を殺してみたかった、という言葉が流行り言葉にならないように文明の反省を自分もしたい。
昨日、午後7時のニュースをNHKテレビでみた。アメリカがイラクの少数派民族を救うために都市の空爆をし、(人道的救援)おこなった、とアナウンサーは言った。わたしは違和感をおぼえ、食事をしながら集団自衛権の論議中でありながら戦時の予感をした。国に内乱が起こっている時、石油の利権を奪われまいとするために他国にかってに入って侵略し、空爆して多数派を殺しながら(人道的支援)という言葉を捏造して正当化し、公共放送を標榜するNHKが捏造言葉をそのまま使うという事実。ストーカー行為をしながら加害者が(愛の行為)といえばNHKはそのままその言葉を流すのであろうか?これでは太平洋戦争中に中国を侵略した日本軍を(欧米からアジアを解放)したという虚偽の構図と同じではないか?イラクに日本人が残留していたとすれば、日本人を救うために日本軍がイラク多数派を武力攻撃した、という正論が成り立ち、侵略したければ自国の国民をいれておけばよいということになる。
NHKは戦時中にデマ報道を飛ばし国家に協力して多くの犠牲を国民に払わせたことを反省して郵政省から分離・独立したのではなかったか?今では手の平を返したように大本営発表の機関に変わり果てた。しかも公共放送などと標榜してるから始末が悪い。
67年間も生きてきました。物質的には豊かになり、それは自然破壊とひきかえだが、本来は淘汰されてるはずのわたしは生きながらえカラオケを楽しむ人生を送っています。浮世離れした生活からこの世の実体がますます見えてきました。
熱中症が増えていますから暑い日は水分補給をしエアコンにかかりましょう、長崎で女子高校生の殺人事件が起こりました、原爆の日です黙祷して死者に祈りましょう、大雨で土砂災害が起こりました、などなど連日マスコミは報道し視聴者や購読者をひきつけ宣伝費をもらっている。政府や地方自治体、医療機関は熱中症患者を助け、教育体制をかんがみ、原爆が再発しないように訴え、土砂災害の復旧工事にかかり仕事をする。
毎度のやりかたであり、システムを変える気はさらさらない。事件や被害、異常事態はかれらのメシの種なのだ。熱中症が起こったり、殺人事件が起こったり、原爆の日が来たり、土砂災害が起こらなければかれらはメシの食い上げになるのである。熱中症はエアコンにいつもかかり体温調節機能を失うことが原因なのに、できるだけ自然の空気に触れエアコンの使用は少なくしましょう、学校教育においては点取り教育ではなく生徒の持つ個性を発見してあげましょう、原爆の原因は何だったのか?広島・長崎の民間人を大量に殺して戦争終結を早めたというアメリカの言い訳は信じて良いのか?また、乱開発・自然破壊による土砂災害の原因を追及しよう、などと言う議論はないし報道やシステムの改革をしようとすることはない。少し改革の気配が見えても見せかけだけである。
このようにして世の中は流れ、国民は表情や感情を失い、電車にのっても話し声もなくスマホに目を伏せている。都会のオフィスビルは窓の開閉が出来ず自然の風を窓から取り込むことも出来ない。
反社会勢力がいないと警察の仕事がなくなるいように、ヤラセの構造はすべての分野に及んでいる。
40年前に新人類という言葉が流行したが、今では(異人類)という言葉が国民にもふさわしい。
世の中は謎と疑問に満ちている。わたしがこの世を消す(?)まですべて解き明かすことは出来そうにないが、一般常識を捨て物理化学的理論を使えば解決の道筋くらいはつきそうである。
対立すれば離反すると常識的には考えていたが、それは子供の理論でありどっこいそうではない。逆に愛憎の面からみると対立が強い共存・共生作用を起こしていることがわかる。アメリカとソ連、アメリカと中国、日本と北朝鮮、日本と韓国、日本と中国、イスラエルとパレスチナなど世界を見渡せばいくらでもあり、それらは長い対立・戦争の歴史を持ちながら国交断絶をするわけでもなく経済面においても共生をつづけている。警察と反社会勢力、共産党と公明党・創価学会、創価学会と日蓮宗、など探せばいくらでもある。動物・植物の世界においても天敵と呼ばれる種は同じように対立と共生を重なりあわせているし。天敵がいなければその種は増えすぎて絶滅しなければならないシステムになっている。人間が一番良い例だし、恐竜も天敵がおらず増えすぎて絶滅したとも言われる。天敵は闘争心をわかしてくれるし、増えすぎないように調整もしてくれているのだ。どちらにも利益になる部分があるので関係は消えないのだ。
夫婦関係、男女関係、友人関係においても同様のことがわかる。仲が悪いから絶縁するのではなく、仲が悪いのは多様性の一つと考え、相手を活用することである。