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NHKと同じく存在に疑問を向くのは公務員であり、公共団体である。特にわたしに身近な地方自治体ー岡垣町役場の存在を考える。ここは封建時代の領主の世界で高い年貢(税金)を取り立て、職員、町長、議員その同族たちが団結して利益・利権を漁っている。一部の議員には良心的な人がいますが、住民のために頑張ると利権屋の中で孤立する状況です。この世界には競争原理や責任がないので開発という美名?のもとに自然破壊がまかりとおっています。
なぜ、公務員という制度があり公共団体でなければならないのだろうか?民間とどこがちがうのだろうか?わたしに言わせるなら、役場の仕事など法人に委託させ競争入札をさせるべきではないか?低い予算で良い仕事をする会社に任せたほうが良いのである。専門性を要する仕事は研修で教え込めばよい。地方公務員試験に合格しなければ出来ない仕事ではないし、逆にペーパーテストに合格し世間のことも世間の仕事もしたことのない者に町作りや運営を任せること自体がまちがっている。人に満足を与える仕事をしていないからストレスがたまり、公務員は不祥事を起こしやすいのだ。職員も依託された会社の社員になり、業績が良ければ出世し高給をもらえるようになったほうがやりがいがあるはずである。町役場や市役所などに用事があって行った時、顔を出す職員には独特な雰囲気と表情があり、それは民間の社員とはあきらかに違う。安倍総理はオリンピックや憲法九条改悪に精を出すより公務員・公共団体がほんとうに必要かそこから手をつけるべきではないか?
NHKの委託集金人の仕事を離れて一年半になりますが、時々思い出したり夢に見たりします。調査や偵察の面があるので一般の労働者とは異なる心理状態があります。仕事である地域に入り、バイクで回っていたとします。目の前のアパートの二階のベランダに若い女が姿を出し、洗濯物を干していることがあります。未契約者だとすぐに判断し、バイクをアパートの前まで走らせます。気づかなければいいが、と願いながらバイクを止め、階段を上ります。部屋の前に立ってチャイムを押し、返事を待ちます。いつまでも返事も物音もないのでもう一度、押し、ドアをノックします。返事も物音も返ってこず、中は沈黙状態です。
諦めて階段を下り、ベランダの下まで行って部屋を見上げます。窓は閉まり、カーテンもぴったり閉ざされています。
彼女はアポなしではドアを開けないタイプか、わたしの正体を見破った者かどちらかですが、無理押しはできず、次の対象物に向かうだけです。
ある営業部長は現場の仕事にすごく熱心な人でした。(部長、台風が近づいてますね。こんな時はバイクで箸ってはいけませんよね)と言うと、(そんな考え方をするのはあなただけですよ)と言い返され、唖然としました。
ところが彼はある日、次のように言いました。
(この仕事はまるで空気をおしているようなものですね。ドアを叩いても返事もない)
わたしは彼が現場を理解したことを知り、満足でした。
仕事である地域に入ります。ワンルームマンションが三棟あり、一棟につきおよそ百人の入居なので全部で三百人、未契約者はその半分だと検討をつけます。百五十軒の部屋のドアのインターホンを押していけば悪くても一件の新規契約・住所変更・BS契約はとれるだろうと想像します。時期にもよりますが、四月五月の移動シーズンを除いた場合ですが、インタアーホンへの返事はほとんどOです。二時間三時間インターホンを押していっても、(空気を押すような仕事)がつづくことは珍しくありません。会長発言による視聴者の苦情や支払い契約拒否が現場でおこっていることは想像できます。移動が始まる直前の状況です。年度末の業績確保の圧力がNHKから現場担当者に来ています。
わたしは今その戦場から離れています。
23年前、NHK福岡に採用され、集金・契約の仕事をはじめましたが、テレビとは異なる印象をうけて驚きの一言でした。目を疑いました。近くの競艇場に古株の職員が仕事中に通ってるという話を耳にしたり、集金人をうまく使って業績をあげんかい、と人に聞こえる声で営業部長が話していたり、引越し人夫(引越しの作業員)という言葉を彼が発したり、私達は名刺を持たないのですか?と訊くと、おれたちだって名刺を持ってお客を訪問しない、という言葉が職員からかえってきたり、私達の事務費(給料)の明細書がボックスの中にむき出しで入れられていたりしていました。まだいくらでもありますが、わたしは内実を告発するのが目的ではなく、NHKに立ち直って欲しいから書いているのでスキャンダルを必要以上に暴露する気持ちはありません。あなたはNHKのお世話になりながらよく批判するね、といわれたこともありますが、民間企業であれば自助努力でやってるわけですからお世話になったという気持ちになりますが、税金みたいな形でとりあげているわけですから払ってくれた視聴者に感謝しかれらに本当のことを伝えるのが使命だと考えています。
職員たちは与えられた仕事をやっているだけで組織のスローガンが何なのかあまり考えません。この前、岡垣町役場に行って職員に役場の今の目標は何なのか?と訊いたところ答え切らなかったのと同じです。民間企業の社員であればすぐに答えられます。それはあって良いことですがセクショナリズムの弊害が出ていました。自分のチームさえ良ければそれで良い、自分さえ業績がよければそれで良い。放送部がどんな番組を出そうと営業の目標達成ができれば其れで良い、という考えです。(紅白歌合戦)の制作担当者が数億円を金を使い込んだ時、営業のセンター長はみんなの前で次のように言いました。あれは放送部のやったことで営業部がやったことではありません、と。
NHKの場合、同じ営業部でもチームがちがえば別会社と同じ、という話を職員から耳にしたことがあります。4チームまでありましたが、目標の達成率でチームどうしあるいは全国の局所どうし、集金・契約スタッフどうし毎週結果を出して競争をさせていました。業績がわるいと委託集金人の給料はさがりますが職員は関係ありません。自分たちの給料は経費削減されているよ、といいますが定期昇給はきちんとあり下がってはいないのです。公言していることにはすべて裏がありそのまま信用することは出来ませんでした。
ある部長はいろんなことをわたしが追及すると、役割分担という言葉を用いましたがその言葉の持つ弊害には気づいていませんでした。委託集金・契約人が新聞にでるようなトラブルを起こし、NHKがコメントを求められる時、あの人は職員ではないのでNHKと直接関係はありませんが、という前置きからはいるのです。新聞販売店の従業員がトラブルを起こした時、新聞社はこんな前置き・責任逃れ的な前置きはしません。
NHKは数百年までの徳川・幕藩体制のままです。身分制度、セクショナリズム、無責任体制、権威主義、非効率など悪い見本がたくさん残っています。(幕藩体制・官僚主義)といったほうがいいでしょう。これを改革するのは内部の者では出来ません。カルロス・ゴーンさんみたいな外国人が的確でしょう。
まず、組織の中心点・基本に戻ることです。公平中立な番組、決して視聴者のご機嫌をとるのではなく人類・自然からの視野にたった啓発的な番組、普遍性に基づいた番組をつくり、政府の介入を毅然と拒否すべきです
団体交渉(労働組合での)や営業のチーム会議においてあまりに喋り、また興奮するので職員や集金スタッフから一目置かれていました。NHKのご意見番と言われるのは良いほうで、陰でキチガイともささやかれていました。わたしが話した内容は団体交渉での議事録にのっていて、上層部が採用したのも少しはあります。
何を話したか思い出せるものを書いてみます。慰安旅行、集金スタッフの送別会、忘年会、新年会の廃止など経費削減はしていますが、電気代、電話代、パンフレット、書類の削減はしていませんし、削減の目標もありません。パンフレットや書類は年に一度は更新されますが、古くなって廃棄される量はそうとうなものでそのデータもつくっておらず、発覚しないように局に持参させるようにしています。本当の経費削減に取り組んでください。
今回のような大問題が発生した場合には集金人にチラシを持たせて、苦情のある視聴者は営業副部長に電話を入れるようにしています。NHKのほうから電話を入れて対応すべきではないでしょうか?受信料の領収書はハガキで郵送していますが、二枚目の用紙は住所変更届け、衛星放送契約書になっています。情報や金をとることに熱心なのはわかりますが、そこに視聴者の意見や番組への感想を書いてもらうべきです。職員や視聴者からのNHKへの批判・意見・クレームは感謝をもってとりあげ、改善・改革に反映すべきです。職員やスタッフに改善提案をさせて良いものは評価すべきです。民間のメーカーはそれを義務付けて賞金まで出しており、それによって働く者の参加意識を高めています。会長や経営委員は総理大臣が任命するのではなく、内部や外部から立候補してもらい職員がネットで投票してはどうでしょうか。このままではいつまでも為政者の私物になってしまいます。
受信料の法的督促はやめるべきです。良質の番組をつくり、それを観る人が払う体制でじゅうぶんだし、これまではそのやりかただったのです。日本人の90パーセントは良心的な人で、観てるのに払わないという人はほんの一握りです。番組のPRばかりでなく受信料の案内・PRもすべきです。職員の報酬が高すぎると指摘しましたが、カットはしています、という答えでした。定期昇給はしているので実はカットにはなっていないのです。
縁故採用はやめろ、職員の給料も業績に応じたものにしろ、スタッフばかりを痛めつけるな、などなどいろんな意見を出しましたが今回の事態です。大きな変革に取り組まない限りいつまでも続きそうです。日産自動車を倒産間際から救ったカルロス・ゴーンさんの本を読んでいます。改革のやりかたで素晴らしいことがたくさん書いてありますが、もっとも印象に残っているのは次の言葉です。この改革のヒーローはわたしではありません。日産自動車の一人一人の社員、および関係者です、と書いています。
この言葉は今でも心に焼き付いている。委託集金人として働いていた20年前、統括係長に言われたのだ。あまりに議論好き好戦的なわたしは集金・契約取次ぎ業務でいつも上位の成績だったが、客とのトラブルも群を抜いていた。(お前が営業の仕事をやってるだと?もっとも不向きな仕事によくついたもんだ)大学時代の親友にも言われ、おまえは権威をかさに着る男でもある、と付け加えられ、見抜かれてしまったわたしは照れ笑いをしていた。
この仕事ほど自分の姿を映し出してくれたものはない。その口の利き方は客に対するものですか?その顔つきはなんですか?お金をもらおうとする者の態度ですか?高圧的ですね。いきなり人の家に来て金を出せ、なんてどういうことですか?警察を呼びますよ、と言われて実際、警察が来たこともあった。
NHk営業部にはわたしに対する苦情の電話がひっきりなしでかかり、担当職員は根をあげていた。そこで、あなたは仕事で個人を出したのですね、と係長に言われたのだ。恥ずかしながら、そこでやっと、仕事で個人を出してはいけないことがわかり、10年、20年とたつうちに放送法32条(当時の支払い義務の条文)を捨てていった。それは剣を捨てたに等しかったが気分が楽になった。客の言い分をじゅうぶんに聞いてやり、公共放送について相手と考え、話し合った。
その心境にたどりつくまで20年ほどかかった。わたしはよほど世間とづれた男であったと痛切に思うが、仕事では個人を出してはいけない、という常識に疑問を抱く。日常生活の中でスーパーに買い物に行ったり、銀行や町役場に行ったり、電車に乗ったりするが、出会った人がマニュアル通りの対応ではなく個人を出してくれた時ほど親しみがわくことはない。出したほうも自分の個性を認めてくれて嬉しいし、満足するのだ。ストレスも少なくなる。
多様性の時代である。多様な個性や意見を出し合ってこそ良い社会、強い組織が出来上がるのだ。優秀な企業はこのことを知って組織作りに取り組み、不祥事はおこりにくい。つまらない組織ほど権威にへつらい、排他性が強く、パーツ(部品)的な者が多い。
籾井会長の発言(従軍慰安婦や飾り窓の件)から発したNHKの問題は解決がつかない。この時間に開かれている国会中継でも議員が会長に質問をしている。わたしは委託集金人であったことからもこのNHKの行く末に興味をもっていた。集金の仕事をはじめた頃から、受信料が長いものに撒かれろ式の国民性に寄りかかっていることを感じ、受信料制度が存在し続けるかぎり日本および日本人は変わらないと考えていた。
NHKはこれまでたくさんの問題を起こしてきたが、その度にうまく潜りぬけ、崩壊をまぬがれてきた。利権関係のある有力者をうまく抱え込み、為政者にそっくりな組織をつくっているからであるし、為政者とツルんであるからである。それに、熱しやすく冷めやすい日本人が受信料の支払い者であるからである。
日本人が農耕民族であることがその民族性の原因になっている。それに島国、一民族一宗教(少数派もいますが)ということが拍車をかけている。アメリカ映画、特に西部劇などを観るとよくわかるが、アメリカ映画は復讐劇が多く、粘着力が強いのである。日本映画にはいかにそれが少ないかがはっきり現れている。まさに民族性のちがいである。人類はどの世界でも狩猟生活から出発し農耕生活に移っていくわけだが生活環境のちがいに多くの影響を与えていることがわかる。逃げる動物を追い捕らえて食べる生活、実っている木の実や果物を食べたり種をまいて育てる生活は考え方や性格に強い影響をあたえざるをえない。
アメリカの貿易センタービルを崩壊させ、数千人を殺したビン・ラディンはアメリカ軍に殺された。これで当分アメリカの敵はいなくなり、復讐精神を発揮することはなくなったのだろうか。北朝鮮がいるが中国が控えているので迂闊な行動はできないし、アジアへの直接的な介入はしないだろうか。いや、次の敵を探しているのだ。絶えず外敵と闘うことで国体が保たれているのだから。
NHKの問題が欧米でのことであればNHKはすでにつぶれている可能性が高い。日本ではどうなるであろうか?マスコミはこの問題もそうだがシリーズをつくって深追いはしない。目をひく事件や出来事が起こればそちらの方にベクトルを変え、騒ぎ始めるにちがいない。国民もそれにひきづられ、NHKの問題を忘れるにちがいない。
NHKの問題は日本民族の問題なのである。
2日前、初老の男達が朝から町内の山に集まった。6人だったが昼前から女が加わり、7人になった。7メートルと5メートルのヒノキを20本ほどチェーンソウで切り倒し、山のそばに停めているトラックまで運んだ。7メートルのヒノキは7人で肩にかついだ。「こっちは肩に来んよ。おれ、ぶらさがっとるみたい!」背の低い男が言った。「おれは肩にかかりすぎて痛い!」背の高い男が言った。「今度は肩に届いたよ!」など話しながら山の坂道を夕方まで往復した。もちろん、無報酬だが運動会をしてるみたいな楽しさがあった。息を喘がせ、額から汗をながした。
こんな経験は何十年ぶりかである。日頃は独りの生活活動や労働が多いから、他人といっしょにやることがすごく新鮮に感じられてた。
主宰者は佐藤さんという65歳の男性だが、門司から妻の実家のある岡垣町に越してきた。門司では車の板金業をやっていたので、自宅のそばに小さな作業場をつくって仕事のかたわら(里山づくり)に精をだしている。自宅の裏に千坪以上の草原があり、湿地帯があった。彼はそこに道をつくり、アイガモの小屋を作って飼い、木のチップをもりあげてカブトムシの家をつくり、2頭のヤギを飼い、ブドウやビワ、柿の木を植え、カマドを4つつくった。薪でピザを焼いたり、蒸し焼きをしたり、竹の子をゆがいたりするために。孟宗竹の幹を組んで屋根をつくり、その下でイノシシの肉を焼いてみんなで食べ(彼はワナでイノシシをとり自分でさばく)、コーヒやお茶を飲み、談笑する。もちろん金はもらわず、ヒッチハイカアーなどが通りかかると、(寄っていかんですか!)と声をかけて誘い、食事を出したり風呂に入れたり布団に寝かせたりする。長期で外出する時も家に鍵はかけないし、家の中には金や財物はない。
今時、奇特な人だが、4、50年前の日本にはこんな人はたくさんいた。
佐藤さんの手伝いをしていると彼の夢がよくわかる。年をとってから、幼少時代の生活を思い出し、そこに戻りたいのである。子供達やみんなを集めて昔の共同体生活を経験したいのである。
残念ながら昨年の末に焚き火の不始末からその小屋が全焼してしまった。しばらく彼は元気がなく、板金作業で黒い油のついた顔をうつむけていたが、立て直そうと思い、支柱のヒノキを切り出しのである。あと一週間後、3月の暖かい陽気がやってくる頃には新しい小屋の下でみんなで話しに花をさかせているでしょう。
15年ほど前、NHKは海老沢会長の発言問題で揺れ、マスコミも騒ぎ、営業現場も視聴者との対応に難儀した。今度は籾井会長の発言、従軍慰安婦の件、で揺れている。ケネディ駐日大使はその発言を理由にNHKの取材を拒否している。
23年間、委託集金人として働いたわたしは15年前のことを思い出す。その時の営業部長は、NHKは外部の圧力で潰れることはありません、と言い、わたしはその言葉の意味を反芻してみる。放送法で受信料の支払い義務があるから、と彼は言いたかったにちがいない。では内部の力で潰れることはあるのだな、とわたしは考える。わたしの目でみると失礼な言い方だが、NHKの職員はパーツ(部品)に等しい者が多すぎるし、対立意見や反対意見を評価する体制がないどころかそんなことを言う者は左遷の憂き目にあうだけである。つまり、この組織は自浄や変革能力が欠落しているのである。まっすぐ真剣!というNHKの10年前のキャッチコピーは、まっすぐ真剣ではない、ということを現しているにすぎない。だから今回の籾井発言に対して職員や日本放送協会労働組合は抗議も反論もしないのである。改革や変革は口先だけのことであったし、今回の発言による危機感も薄いのである。これは内部の力による崩壊の兆しかもしれない。受信料拒否者が数十万人、数百万人の規模になった時一人一人を裁判にかけられると思っているのだろうか?
そんなことは労力からも費用からも出来はしない。受信料の支払いどころか取材のも応じてくれない事態になると大変なことになる。受信料収入が99パーセントで運営されている組織なのである。今でもNHKには見る番組が少ないのに取材拒否が増えれば番組の質が落ち、さらに支払い拒否者が増え、インターネットに食われていく、という悪循環が想像される。
NHKには適切な方向に導くナビゲーターがいない、それ育てる思想がないとなると、内部崩壊するしかない。硬質な番組をつくっていた時代にしか価値がなかったあと言わざるをえない。
心臓のバイパス手術のために入院したのは一年半前です。3週間の入院でしたがあの体験は衝撃的で、わたしの人生に強い痕跡を残しました。痕跡の数はいくつもありますが、今思い起こすのは次のことです。病院とは(死)や病気を許される世界だと言うことです。遠賀病院で心筋梗塞を起こし、ナースステイションにベットごと運ばれた時、二人の看護婦は廊下に向かって立ち、医者の到着を待っていました。二人は会話をしながら笑っていました。わたしは心臓を切り裂かれるような痛みで呻きながら、彼女らが談笑しているのが」わかりました。ここでわたしは彼女らを責める気はまったくありません。彼女らにとって、患者の痛みや死は日常的なことで、マニュアルどおりの対応をしていれば良いのです。ちがう角度からみると病院とは痛み、苦しみ、死、病気が許された世界なのです。患者が安心できるのは自分の痛みや病気を救ってくれることもありますが、病院とは(死)の入り口でそれを認め受け入れてくれるということにあります。
退院後の一般世界はそうではありません。苦しんではいけない、悩んではいけない、死んではいけない世界なのです。なぜでしょうか?(死)を受け入れ美化までした戦前の日本は資本主義の侵略により180度反転しました。(死)を受け入れ美化までする思想は資本主義のじゃまにしかなりません。長生きして病院の世話になり税金を納める人間がたくさんいなければならないのです。
近頃、日本人が挨拶に使う言葉は次の文句が多いです。健康で長生きしましょう、という言葉です。健康で長生き、というのは何かをするための土台でしかないはずですし、戦前の日本人がこの言葉を耳にすれば、生き恥をさらすのか?という反論がかえってきたでしょう。(恥)という言葉さえなくなった時代です。
何をするための(健康で長生き)なのか?それをはっきり見据えなければ意味はありませんし、国自体がまず(国体がなんなのか)をはっきりさせるべきです。
(近視眼的思考)という言葉が40年前に流行したが、その状況は今の社会に定着して当たり前になったせいか役目を終えて消えてしまった。言葉にはそんな傾向がある。軽薄短小、虚飾、スケベ、商業主義、アメリカ帝国主義、いやらしい、肝っ玉母さん、援助交際など言葉は一時的に花を咲かせるが実体に吸収されるとまったく姿を消してしまう。
今の時代を(近視眼的思考)などとマスコミもとりあげはしない。近くのものは見えても遠くのものが見えないという時代の状況になってしまっているからである。東北大震災後、放射能汚染物質が決して消滅せず地球の奥深くまた全体に食い込んでいるという現実は近視眼的思考とリンクして人間を注意多動型にした。神経症的に動き回っていないと落ち着かないのである。皺のよった顔に尻の皮膚を移植したは良いがそれが崩れてケロイド状になった歌手、美味しくて手軽な弁当や惣菜ばかりを食べたがためにアトピーになった娘、オリンピックの成功を訴える都知事候補者を一面に毎日取り上げたかと思うと翌日には日本の借金が増え経済破綻するかもしれないと書く新聞やテレビ、除草剤は大気中に消えるから安全ですよと言って撒き続ける岡垣町は(自然を守りましょう)といって赤海カメの産卵と自然保護活動をいつもPRしている。年収一千万近くをもらって議会に顔を出している教育長は子供達にこの矛盾をつかれたらどうこたえるのだろうか?彼は矛盾に気付いてもほうかむりをしていればいいのであり、近視眼的思考で子供達を育てていけばいいのである。無数の兵隊達を戦場に送り込んだ当時の政治、教育者、マスコミ、軍人、父兄たちが真摯な反省も原因追及なく、一億総無責任体制が現在もつづいているように目先のニンジンに振り回されて生きていけば良いのか。
マスコミに言いたい。敗戦や東北大震災など歴史を変えるような惨事は期限をもうけずにシリーズで追うべきではないか!いろんな事件や出来事が多発することはまちがいないが振り回されない信念を持って欲しい。