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ヤカン一つの部屋
ヤカンは机のそば、石油ストーブの上に置かれている
男といつも二人きりだが
特別に寒い日以外は忘れられている
ときどき取っ手を腹に倒しては声を上げる
おい、おまえも退職してひまだな
こんな一生を死ぬまで送る気じゃないだろうなあ
男はパソコンでニュースや株価や書き込みを見るだけで気づかない
散歩をし垣根を作り畑を耕し便所の汲み取りをし
独り飯を食い風呂に入り薬を飲み
もう一日が終わりだ
座椅子に体を伸ばして夕刊を読みテレビの声を聴いている
誰かがうなっている
聞き取れぬほどの声で
心地よさそうな呟きがいつまでもつづく
ヤカンの下で油の芯が燃えている
イジィイジィジィ・・
浪花節みたいな独り言がはじまった
金属じみた唸り声がなにかしゃべっている
イジィジィイジィジジー
はてどうしたんだ?
はてなんだっけ
はて誰だっけ?
誰でもない何でもない
ジージージージー
どうかした?かおかしな声だな?でも声でもない
どうするんだ?
どうしたらいいんだこの地球は
おまえたちにわからない声で地球の果てにまで愚図ってるんだ
もう諦めたよ、ここまでくれば終わりだな
ヤカンはうなりを止め
口から湯気を漂わせ
あげくにはフタを持ち上げてタンバリンを叩きはじめた
おれたちの演奏は人間が生まれる前からあったし、
滅亡してもつづくのさ
そろそろおれたちだけの世界がやってくるぞ
ヤカンだけがぽつんと生き残った地球を想像してみろよ
おれたちは滅亡することはないのさ
無生物だなんてバカにしていたが命はあるし考えることだって出来るんだ
心臓のバイパス手術を受けて一年半がたちますが、体調は手術前より良いような気もします。体重も63キロのままで、じゅうぶんに食べているのに太らないのは驚きです。考えてみると糖質制限を守っていて体にとってそれが普通になってしまっているのでしょう。朝は食パン一枚にブラックコーヒー、昼と夜はご飯は茶碗に半分、後は野菜、肉、魚をじゅうぶんに食べています。自炊ですので毎日メニューを考え食材の買いに出ます。近頃、台所の砂糖、塩がまったく減らないのです。調理にまったく使っていないのです。煮付けをつくる場合でも野菜や肉、魚をまず暖めた鍋に入れて焦げない程度に水分をとります。それで野菜や肉・魚に含まれてる甘味や旨みが出てくるのでしょう、あとは醤油か味噌と混ぜ合わせて煮込むだけですごく美味しい料理が出来ます。自宅の菜園でとれた野菜が多いし、トウガラシはほとんどの料理に入れます。
次は日に一回以上の山歩き・森林浴です。良い空気をすいながら思索をめぐらし血行を良くする事は幸福感を与えてくれます。毎月、通院していますが血液検査からでる各種の数値はすべて正常です。薬は毎日11錠ほど飲んでいます。
もっと早く食生活を変えておけば良かったとも思いますが、外に出ての外食生活ではこの結果は生まれなかったでしょう。ともかく健康であることは幸福感を与えてくれます。
都知事選で桝添が当選したことを知り、残念な気になった。これで日本人は最も大事な羅針盤を失い、漂流していくであろう。40年前、車の排気ガスが大問題になりその害を国民は案じ、結果的に政府が世界一きびしい排気ガス法案をつくった。各自動車メーカーはしのぎを削って努力し、今では車の排気ガスが問題になることはなくなった。当時、そんな厳しい法案をつくったら自動車メーカーはつぶれるしかないと危ぶまれたのに日本の技術力は素晴らしかった。
今度の細川氏の(原発0の公約)が勝てなかったのは東京を世界一の都にしてみせるだのオリンピックのお祭り気分を盛り上げるだの災害防止など景気の良い話に惑わされたにちがいない。自民党・安倍政権の登場と同じ構図である。正論が負け、目先のニンジンが勝った。
都が原発0に取り組めば、各企業はしのぎをけずって自然エネルギーの発明・普及に向かって競争努力したはずなのにその大事な機会を都民は捨ててしまった。原発0に国民が積極的でないということになれば今後それを公約に掲げることはなくなるであろうし、原発問題も下火になってしまう。世界に与える影響も強いし、人類全体の問題にフタをしてしまった。(猿の惑星)という映画の中で宇宙を旅していた宇宙船が落ちて着いた砂浜に自由の女神像が埋もれていたというシーンはショックだったが原発問題はそれが映画ではなく現実だという恐さを含んでいる。
NHKの受信料をいただきに参りました、と声をかけたところ、それはNHkさんも従業員達に金がいるやろうからね、という言葉が返ってきたことがありました。今にして思えばその言葉の意味したことがじゅうぶんにわかります。
それは(NHKは誰のためにあるのか?)という疑問になり、結論を言えば、(NHKはそこから利益を受ける者のためにある)のです。利益を受ける者とは政権与党、NHK役員、職員、大手の組織、NHK関係者など多方面に及びますが、そこに視聴者がふくまれるかどうかは微妙なところです。受信料は視聴者との信頼関係の上に成り立っています、と営業パンフレットに堂々と書きたてていた頃は視聴者のためにある、と言えたでしょうが、公平中立をうたいながら番組で大手宗教団体や暴力組織の内膜を取り上げたことはありません。競馬中継はするが競艇の中継はしない、ということでその業界の関係者達の受信料不払いにあったことがあった経験からでしょうが、都合の悪い組織は番組作成から外しているのは公平中立でもなんでもありませrん。
近頃はマスコミに姿を出さないNHK職員の不祥事のこと、それを委託集金人として考えることがありました。次第に理由がわかってきましした。それは縁故採用が多いことと民間企業みたいに消費者の納得の上で金をもらっていない、半ば税金みたいな形でもらっていることが原因です。NHKに採用された、ということは一般の人にとっては素晴らしいことですが、親戚に部長がいるからとか議員の紹介で採用されたとなると入局後の姿勢や意気込みがちがってきます。コールセンターや営業職員にかかってくる電話は受信料に対する苦情が多く精神的に参ってる者もおり、それは民間企業よりひどい状況です。人に満足されない仕事となれば、またそのストレスが何十年も貯まればすごい圧力になり、不祥事の誘発になります。わたしも集金の現場で働いていてその引き金はじゅうぶんにわかります。
籾井会長、経営委員たちがマスコミの批判の的になる、ということは訪問集金・契約をもらう現場担当者や職員、管理職などは酷い環境の中に放り込まれています。大鉈を振るうしかありません。まず、会長や経営委員の任命を総理大臣がして、為政者が放送局を私物化できるという法律から変えなければなりません。
自分でつくったこのタイトルが気にいり、このペースで書いていきたいと思いました。名もない人、の言葉はけっして世間に出ることはありませんがそこには意外な真実がひそんでおり、私自身も名も無い人、なのです。
(NHK受信料なんて寄付金みたいなものじゃない。寄付する金なんてありません)
宗像市の戸建て団地を受信料の集金・契約業務で回っていた時のことです。契約も求めたわたしに対する中年の主婦からの返事でした。
呆気にとられて即答が出来ませんでした。この仕事をする者は受信料が放送法に定められ、契約・支払いの義務があると信じて雨の日も風の日も雪の日もバイクに乗って回っています。NHK側は受信料についての番組を流すことはほとんどなく、わたしたちにマル投げの状態です。わたしたちの仕事は前線での孤独な闘いといっても過言ではありません。意外な拒否の言葉に出会うと迷い、混乱し、気持ちを立て直すまで時間がかかるがそんな心境に負けてはいられません。
今、その主婦の言葉を振り返るとまさに受信料について的を得ていたと考えます。当時、受信料に強制力はあるのか?という質問が視聴者からあり、強制力はあります、とわたしは答えていました。すると、統括係長から強制力はないのです、という電話がかかってきたことがあります。その後支払いを民事裁判で訴え、勝訴したので今では強制力があるという判断です。
勝訴の前後から、NHKの番組に観たいものが少なくなっています。強制力があるから番組に価値があるかどうかは二の次で観ても観なくてもいい番組をつくっていけばいいし、そのことで民放のようにスポンサーが減って責任をとらされることもないし、受信料収入が激減することもないのです。先日はテレビがあってもなくても受信料をとれるように放送法を改定すべきだという話もありました。職員は誤報だと否定していましたが、そうなるとNHKは総務省の放送局に編入され、従業員の数も10分の1くらいにして受信料も月に500円くらいにすべきです。現在、月に2千円ほどというのは高すぎる。BSで3波、地上波テレビで2波、ラジオで3波を持っていてダラダラ番組を流してるなんてチャンネルの無駄使いです。
あるいは強制力をなくして、その主婦が言ったように寄付金にすべきです。数多くの人たちに会って仕事をした経験から、わたしは日本人の9割は誠実な人だと信じています。かれらにNHKの番組をみて払わないという人はいませんし、観てる人は払います。現在でも郡部での契約率は90パーセントはありますから、番組づくりの自信があるのならNHKは強制力という剣を捨てて活動すべきです。
これも名もない人の言葉で、今でも心の中に残っています。
NHKの集金契約業務で、宗像市のある戸建て団地を回っている時でした。契約をお願いするわたしになかなか同意してくれないので、受信料は放送法で払うように決まっています、と言ったのです。その応えが、そんな法律なんて金を出せばつくれるじゃないか!という反論でした。わたしは驚き返事が出来ませんでした。法律とは国家体制の維持、経済生活の維持、社会生活の安定、犯罪の防止など必要性があって定められていると考えていましたがこの意外な言葉に圧倒されるばかりでした。NHKが金を出してつくらせた、とも受け取れる言葉に尻尾を巻いてしまいました。雇用関係がある立場であれば会社に帰ってから上司や同僚にたずねることも出来ますが、仕事が終わればそのまま帰宅する毎日です。どう考えてもわからず、毎日毎日が禅問答のような仕事に追われ忘れてしまい、その言葉には二度と出会いませんでした。
今振り返れば、その中年男性が意味した言葉にはある種の真実がひそんでいることに気づくのです。彼とは一度しか会っていませしどの家に住んでいたかも記憶にありませんが、今度会うことがあったら膝を交えたいものです。そうなのです、金を出せば法律は作れるのです。もちろん、国会での議決が必要ですが、議員や政治家に多額の献金をし、選挙の応援をしてやればかれらは要望に応じ活動します。法律も金で動く場合があります。
この世の仕組みとは教科書に載っていることでもなく、識者や権威者が言い、マスコミが話すことでもありません。それは闇の中に隠されたまま、わたしたちをしっかりと咥えているのです。社会の底辺で働き、NHKの集金をしているというだけで蔑視されたわたしにはその闇の姿が普通の人人よりはっきり見える自信があります。
わたしがNHK集金人の仕事を23年間もつづけられた理由の一つには名もない人の言葉や考えに触れることが出来たという環境があります。それは学校の授業やマスコミからは仕入れることの出来ない貴重なもので、時々思い出しては感心します。自分の貧しい想像力でも思いつかないものでした。
(受信料を払うと何か良いことがあるのですか?)
ある主婦の質問でした。
当然わたしは受信契約をするように言ったのでした。
その返事がその言葉でした。
わたしは説得する言葉が思い浮かびませんでした。放送法の条文を持ち出すことは簡単でしたが、 その言葉はそんな次元のものではありませんでした。
(何か良いことがあるう?)
と反芻しながら、何もいいことはありはしないじゃないか、という結論におちいり、(お邪魔しました)という言葉を残して去った記憶があります。今でもそんな質問をもし受けたら答えられないでしょう。
そんな仕事の中に置かれて、ある日の全体会議でこんな質問を局長にしてしまいました。当時は委託集金人は月の1日に出局し、営業部や放送部の管理職を前にして座り協会内部や業務の話を聞いていました。わたしがそんな質問をしたがためにその後、質問の場は無くなりました。
(受信料制度のある国とない国とではどんな違いが出ますか?)
わたしは手を挙げて、尋ねました。
局長は答えることが出来ませんでした。多分あまりに突拍子もない質問なので答えきらなかったのでしょうがわたしにとっては重要なことだったし、大事な内容だから局長レベルであればやすやすと答えられると考えていたのです。
局長が答えないので議題は次に移ってしまいました。
全体会議が終わった後、わたしは担当の統括係長に呼ばれました。個室だったので秘密裏の話だったのです。
(あなたは誰かの紹介でこの仕事についたのですか?)
(いいえ、新聞の求人広告で知りました)
(あー、そうですか)
それだけで話しは終わったのです。
いつまでもこの出来事がわたしの脳裏には残っています。彼が本音を出さなかったので疑問と不審が尾を引きました。わたしそしてその質問の背後を探ろうとしたにちがいありませんしそんな質問はするな、ということしか理解できませんでした。現場でほとんどの集金人達が悩まされるこの疑問にNHK自体が答えられない、という不信感に絶えず困窮させられました。
公共放送は視聴率や採算に左右されることのない良質の番組をつくることが出来るのです。視聴者に事実と真実を伝え、そのことが日本と世界のためになるのです。だから受信料制度を日本はもうけているのです。
10年ほど前までNHKは営業のパンフレットに以上の文面をもうけていました。昨今経営委員の発言をめぐってマスコミの批判にさらされていますが、すべては役職者の見識にかかっています。番組のPRや料理番組、スポーツなど無難な領域の制作づくりしか評価しない役職者ばかりであれば先は見えていますが、そんな状況を見据えて本当に必要な番組づくりをすれば観る者は観ています。ともかく良質の番組をつくるべきです。
昨年の12月24日をもって、わたしはNHK福岡放送局営業部の委託集金人を解約しました。解約届けの用紙は白紙のままでしたが、統括係長のいうとおり一身上の都合という理由を入れ、わたしにも異存はありませんでした。
仕事をはじめて23年間になりましたが、老齢と心労・不摂生が加わって狭心症、心筋梗塞、バイパス手術と体に異変を与えました。手術後は体調は良く散歩、野菜作りと体をうごかせたのですが左目の半分の失明、時々のめまい、右目のショボショボ感などが治らず、冬場での長時間のバイク運転は無理だと判断しました。体が凍えてしまうような状況は心臓にも良い筈がありません。今でもこの判断は正解だったと思います。
NHKという摩訶不思議な組織、時には素晴らしい番組をつくる放送局の一集金人として働いたことはわたしの人生に経済的メリットを与えてくれたと同時に稀有な体験をさせてくれました。あらゆる人間を訪れ受信料をいただく(番組を観ても観ていなくても)という仕事は国民との関わりにおいてわたしという男をリトマス紙のように炙り出してくれました。あらゆるトラブル・活動の中で自分の姿がはっきり見えました。
今後はNHKのこと、そこで働いた自分のことを書いていきます。
さて今回のテーマですが、マスコミの紙面づくりのローテーションのひとつです。天皇制、教育、経済指標、北朝鮮問題、中国問題とメニューはたくさんあるのです。何ヶ月おきにテーマを代え、読者を飽きさせないためのものですが、NHKの籾井会長の発言が端を発しました。戦争中は従軍慰安婦の問題などはどこにでもあった、ドイツやオランダには飾り窓があるじゃないか、という内容ですが、NHK経営委員を安部総理が任命したという時点から今回の事態は起こってっていたのです。総理が自分の意にそう者を任命できるというこの制度じたいが大いに問題をかかえているわけですが、同時この件に対して抗議をしない日本放送協会労働組合に対しても不審を感じます。経営委員と同じ考えだとみなされても仕方ないでしょう。
次に起こったのは、百田経営委員が都議選の選挙運動の中で、南京虐殺はなかった、と言ったことです。個人的な活動の中で言ったたことなので経営委員の立場ではない、と答え、それはそうだと思いましたが、今日の朝刊には長谷川経営委員が、新聞社で自殺した右翼を礼賛した、と第一面に報道されています。マスコミは素材を連鎖的して報道しますが、各経営委員の本心を連続させたこの流れは、内部者の告白でありNHKがみずから国営放送であことを検証したにすぎません。同時に政治の方向性に強いベクトルを与えました。
それにNHKの番組の偏向、いい加減さが如実に現れてきています。特番においても政治的・社会的重要番組をとりあげない。一週間前はめずらしく(東大全共闘)をとりあげていましたが、公平中立が使命だからという理由で問題提起になりそうな番組はつくらないが、安部総理の顔写真だけはほとんど毎日テレビに出し、事前運動の片棒をかついでいる。ニュース番組においても昼のニュースに使った場面をそっくりそのまま夜のニュースで流したり、BSのチャンネルを三波も持ちながらBS2をかってに中断したり、BS1と両方で流したり民間会社ではしないことを平気でするようになった。視聴者への説明もない。
なぜ、このように変質していっているのでしょうか?
それは受信料を法的に取り立てる自信があるからです。支払い拒否者や滞納者を法的督促にかけ、裁判にかけていったからです。現場の委託集金人を法人委託に代え、経費を削り資金的な余裕があるからです。これからも法人委託を進めていくでしょう。どんな番組をつくっても受信料が入る、ということはNHKにとっては都合のいいことですが、自ら自分の首を絞めていっていることに経営委員たちは気づかないでしょう。職員たちも40歳にして平均年収が1000万円をくれる組織に批判なんてしません
テレビがパソコンと入れ替わる日はちかいのです、映画がテレビと入れ替わったように。そんな時でもNHKの番組だけは絶対に必要だといわれる基本姿勢を持っていなければ、国営放送に戻るか消滅してしまうかでしょう。
受信料制度が変われば日本は変わる、変わらなければ(長いものに巻かれる)国民性はいつまでもかわらない。集金業務を始めたころからわたしは考えていました。
凹
この絵は何に見えますか?わたしはこれがデコに見えるかボコに見えるか問うています。
ボコに見えるという人、デコに見えるという人がいるでしょう。ボコに見える人は下から見、デコに見える人は上から見ているのです。見る位置と角度によって物事や状態は正反対のも見えるのことに気づきませんか?快感・苦痛、素晴らしさ・つまらなさ、幸福・不幸、善・悪、楽しさ・苦しさ、生と死など人間世界のあらゆる対立観念をこの絵に入れてみれば真逆な世界は見る角度が異なるだけで、実は同じものにすぎなかったことがわかります。
わたしたちはいつもその時に立っている位置、そこから見える形に振り回されています。金持ちになったから良かった、貧乏になったから不幸、健康になったから良かった、病気になったから不幸、良い異性に出会ったから幸せ、いやな異性に出会ったから不幸、などと気分の落ち着くことは少ない日々です。
上の絵は異次元世界に反転してみればぴったり重なり、同じものであったことになります。
鍵と鍵穴の関係にも似ています。
社会の出来事や人間模様も単純化してしまえばエネルギーの作用と変化にすぎないでしょう。
楽は苦の種、苦は楽の種、とわたしの母親はよく言いましたがその言葉が思い出されます。楽が多ければ多いほどその裏には苦が潜んでおり、苦が多ければ多いほどその裏には楽が潜んでいます。いつまでも苦しい状態がつづくわけでもなく、いつまでも楽しい状態がつづくわけでもありません。
冬の寒い時、暖かい風呂に入ればすごく幸せな気分になります。ところがいつまでも入ってはおれません。外に出て冷気に当たり、また体が寒くなって暖かいものを求めたくなります。
これが人間の一生です。単純といえば単純なもので、けっして難しいものではありません。
こんなことに近頃、気づきました。
凸
新聞の広告で、こんな写真をよく見ませんか?開発途上国の幼児の顔がモノクロ写真で現れていて、恵まれない子供達に愛の募金をお願いします、というタイトルで、食料やインフラ、筆記具や本を与えて幸福な社会生活をさしあげましょう、と書いてあるのです。書いた本人はもちろん高度資本主義社会に住む人ですが、広告をよく見ると、その幼児の輝く目は近頃の日本ではうしなわれたものだとわかるのです。開発途上国に資本主義が導入され利便性や快適さでうるおったとしても、それと反比例して輝く目が消えていくことを想像させられます。広告の文章を書いた人は仕事上そんな言葉が浮かんだのでしょうが、それにしてもその広告の文章を見るたびにわたしは逆に文明生活の精神的な貧しさ、文明人の思いあがりを自分もふくめて感じとってしまいます。
昨年の10月に岡垣町町議会の傍聴に行きました。その場でこんなことが議員から提案されました。小中学校の教室にエアコンを設置してくれということです。それには一億円以上の費用がかかるということで否決されましたが、団塊の世代である議員が述べたことにおどろきました。その世代の者が小中学生の頃は寒い時は体を動かして暖めろ、と教えられたはずで、今でも子供はそうすべきだとわたしは思います。
すっかり世の中が変わってしまいました。昼下がりに住宅街をあるいてもほとんど人と出合ったり、見かけたりすることはありません。寒いので屋内でストーブにあたったり、コタツに入っているのです。わたしが幼い頃は大人は庭で畑仕事をしたり、子供は路上で縄跳びや石蹴りこま回しをしていたのです。そこでは歓声が上がり笑いがありました。イシヤキイモやラーメン屋台が呼び声をうねらせていました。
今あるのは(気配の消えた路上)しかなく、野良犬も野良猫も浮浪者も消えてしまいました。