ブログ - 20220103のエントリ
今日と明日はアルバイトがないので気分が楽しい。仕事は姿を消すことによって開放感を与えてくれるのである。
さてなにをしようか?と考えて、しばらく遠ざかっていた山歩きをすることにした。山は目の前にある金比羅山で、その麓を往復して二時間はかかる。誰とも出会わない暗い山道はイノシシの唸りが時々聞こえるくらいの寂しさで、考え事や心を休めるのには良いところである。ところが、十時半に出て、十二時に近づいているのに空腹感が出ない。一年間も酒を毎日のんだせいで胃炎と胃のもたれが起こって食欲を減退させているのである。減退くらいであれば良いが、食欲がなくなったらどうなるか?考えると怖くなった。
午後一時半ころ、家について、食欲が少し湧いていてたべることにしたが残り物しかなかった。一週間前の雑煮でストーブの上に載せたままで、冷蔵庫には入れていなかった。寒いので腐ってはいないと思い、火を通して食べ始めたがどうも味がおかしい。苦いのである。おかしいと思いながら鍋の半分を食べ、残りは捨てた。はて、腹痛や下痢が起こるかと考えたが、ちがうことに考えが飛んだ。
胃に入れて、これはおかしいから排泄させるのは誰の指示なのか?と考えたのであった。自分の判断ではなく、体が判断するが、どのようにして判断するのだろうか?と考えると、わかりはしないし、これは心臓や肺などが自分の意志では動いていないのと同様、摩訶不思議な現象だ。
産めよ、ふやせよ、元気で生きろ、と創世記で述べている神の指示ではないか?と考えると納得できた。そうすると、この体そのものが自分ではなく、神のものではないか?と考えが進み、おれはおれだと思っていたが、神の子なのだから神の分身でもある・・、と考えた。
神の種から出たのであるから、人類はみな兄弟でもある。
さらに、いつも神がそばにいてくれて助けてくれる、とは熱心な信者から時々耳にするが、それは今、自分がたどったようなことをいっているのではないか?と結論づけた。
今まで自分は一人で生きていると気張っていたが、神と一緒に生きていると考えると気持ちがすごく楽になったのである。
朝、布団から起きると、両手を組み、今日も一日、生きさせてください、と祈るようになった。正月の1日、2日と教会に通い、礼拝をした。
ところが、聖書を乱読している時、おかしな聖句に気づいてしまった。
キリスト教にとって(原罪)はキーワードであり、絶対に変えることも譲歩することも出来ないものなのである。それは次のように書いてある。神は人間に楽園を与え、果実をとって元気に生きるようにしてくれたが、(善悪の木については、あなたはそれから食べてはならない。それから食べる日にあなたは必ず死ぬからである)ー創世記二章17、と神は言った。だが、アダムとイブはそれを食べてしまった。神の言いつけを守らなかったので、それから人は死ぬ運命を持ち、出産の苦しみを与えられたのであった。
聖母マリアは処女受胎であり、神の霊を取り入れたので人間の原罪ははいっていないし、キリストがゴルゴ度の丘を歩まされて自ら磔刑に身を任せたのも人間の原罪をあがなうためであった。
原罪はキリスト教の大柱なのである。
ところが、ヨハネの黙示録2章17にはこんな聖句が出ており、それはもちろん神の言葉なのである。
(耳のある者は、御霊が諸協会に言うことを聞くが良い。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実をたべることをゆるそう)
これが特別な例外であるとは言えない。キーワードに特例などあってはならないからである。聖書は当時の言い伝えや風習などを含み、多くの使徒が神の言葉を聞いて書いたものだというのであれば、全知全能に神にミスなどはあってはならないのである。
この件は教会の神父に問い、調べてもらうことにしているが、聖書が偉大な教典であることは間違いないし、そこからもっといろんな発見ができそうである。