ブログ - 20210405のエントリ
古代ヨーロッパにおいては、宗教、科学、政治、哲学は一つの考えで、普遍性を持っていたが、王権分離説が世に出る頃から、それらは分離し、独自の道に分かれていった。そこから世の中は普遍性をうしない、混乱が起こったが、今では、デジタルつまり科学が圧倒的な優位性を持ち、世の中を支配している。
いま、コロナが人類を襲い、混乱させはじめて、科学・医学、政治はさかんに口を出すが、宗教、哲学は黙りこくったままである。所在を失ったままである。聖書も二千年前に書かれた内容を継続しつづけるだけで、書き加えられたり、改変されたりはしていない。コロナにたいし、意味づけをしない。哲学も新しい思想を生んではいない。
ここで自分は、コロナをキリスト教的にとらえ、聖書の中に加えてみたい。神はコロナと言う御使いを人類の中に送り込まれた。(創世記)の中の、(禁断の木の実)の話にあるように、コロナを蛇として、送られたのである。快楽と利便性、人間中心の考えに溺れた人類に対し、さてどうするか?と、人類を試されたのである。
コロナを精霊・神の御使いとして、一生命として認めるか?あるいはデジタル科学によって消滅させてしまうか?に、判断をゆだねているのである。どんな世界にも対立物は存在していて、対立することで力を強め、自己変革をしていくが、人間中心主義は変わらなかった。
そこで、人類は自己変革を求められているのである。
科学はスマフォやコンピューターなど魔法の機械をたくさん産んできたが、アナログからみれば俯瞰性に弱く全体を見る視点が弱い。逆に宗教や哲学はそれに強い。そろそろ、両者がひとつになって、この世を統一し、コロナ禍に決着を見出すべきではないか?