ブログ - 202105のエントリ
7月4日にワクチンの接種を受けることになったが、喜びと同時に妙な気持ちである。コロナが死に連れて行ってくれる可能性が減ったからであるし、74歳の自分がどんな死を迎えるのか?その心配が消えなかったからである。コロナにかかって死ねば、それは自然死であり、誰にも迷惑はかけないが、妻子のいない孤老が家の中で死んでいたら発見までには時間がかかり、白骨化しているかもしれない。警察や行政の関係者にはそれが仕事だとは言え、迷惑なことである。
こんな事を考えるのは、自分だけではないであろう。
コロナの変種株が現われて、感染力を強め、ワクチンも効果を薄めると新聞に載っていたが、こうなると、人類はコロナから解放されることはなく、いつまでも、そして、いついつまでもまるで恋人・伴侶のような存在になってしまいそうである。ニュースにコロナの出ない日はなく、全世界の人間がコロナのことを考えない日はない。食材を買いに出かけて帰宅し、さて食べようか、と考えてうっかり手洗いを忘れ、そこで、お釣りの紙幣からコロナがこっそり挨拶をしていることだって十分にあり得ることである。
コロナのそんな存在感は神にも近い、いやそれ以上に高い位置にあがってしまった。宗教の世界も哲学の世界の人々もワクチンに期待し、神や真理の追及をそっちのけにして忘れてしまったのである。これまでの権威は偽物に過ぎなかったのである。そのことを人類は知らねばならず、コロナというもっと強い権威が現れたことを知らねばならない。
キリスト教では、サタンはみ使い(神の使者)の一人、ということになっている。神の仲間であり、存在を否定してはあらず、対立物としての価値を与えている。禁断の木の実、のエピソードにも見られるように、人をかどわかして、試練を与えたのである。神が禁じているけど、この実はおいしいから食べてみなさい、といって誘惑したのである。美味しかったが、それまで死を知らなかった人間は(死)という永遠の罰を与えられたのである。
人類への反省を促す、(罰)の執行人、としてのコロナはこれからどう出るか?、見ものである。そして、人類の変わりようもどうなるか?まるでサスペンス小説を読むように期待がわく。
有名人の不倫を出せば、テレビも週刊誌ももうけ、読者も喜び、コロナで傷んだ経済も活性化する。被害者はターゲットになった当人・その関係者だけである。わたしのまわりには愛妻家・愛夫家が多いが、亭主が夜勤で出かけたすきに男を引っ張り込んだり、昼間に仕事で出ている隙に入れたり、不倫の噂はけっこう盛んであるし、こんな自分もかつてはその一員であった。大事には至らなかったが事件を起こしたり会社を首になった可能性は大いにあった。近頃は息子もおとなしくなったので心配の必要もなくなった。
サルなどの野生動物の世界は一夫一婦制もあれば、乱交もあるし、両者の混合形態もあり、さまざまである。一夫一婦制にとらわれてはいないし、不倫で喧嘩をしたり、トラブルを起こしたりはしない。彼らは食べ物の蓄えをほとんどしないので独占的所有の観念がないのであるが、人間は資本主義の発達とともに独占欲の塊になってしまった。嫉妬心もそこから生れたのである。
性的少数者の社会的認定、どうじに性の多様性の効果が盛んに言われる現在において、いつまでも一夫一婦制にとらわれているのはおかしいし、そのうち、この分野にもメスが入れられるに違いない。
一夫多妻(夫)制に変われぼどうなるか?不倫の認定が消え、嫉妬心も減少し、開放的な性を楽しむようになり、コロナで減少した人口も取り戻せるであろう。経済効果もでる。
ただ、婚姻制度がなくならない以上、婚姻届け、財産の分配などにおいて、複雑になることは確かである。ひんぱんに配偶者が変わるはずである。そこは、マイナンバー制度を利用して、ネットで婚姻届けをすることが考えられる。、それに加えて単純事件はネットで解決するなど改善はいくらでもできる。
コロナ事変であぶりだされたのは国の体制、行政などの機動性がいかにとろいかであった。これを機会に改革・革命を起こさなければ、コロナのような強敵が出ればあっというまに潰されてしまうにちがいない。
何週間か前、部屋の中からいつもの音が消えているのに気づいた。それは、柱時計の秒針の音であった。家の周りには建物がないので、物音は電車の走る音と柱時計の秒針しかない。電池がなくなったと思って交換すると秒針が動き、鼓動を始めた。そのリズムと私の心臓の鼓動の周期はほぼ同じなのである。
今朝、目覚めたが、いつものように,もっと眠りたい、いつまでも眠りたいと思っていると、柱時計に気持ちが向いた。自分がいつまでも眠るようになっても、あの柱時計は電池が切れるまで、動悸を打つのである。それは電池の使用量で寿命がわかることであるが、わたしの心臓はなぜ動き、どこで止まるのかわかりはしない。が、時間が消えることはない。
もしかすると、時間こそ神なのではないか?
昨日は四日ぶりに世間に出て、働いた。スーパーの買い物籠の整理を、月に8日しているが、六カ月がたちだいぶ慣れた。見知らぬお客さんから、いつも買い物籠の整理をしていただいて助かっています。ありがとうございます、と声を掛けられて、最初は知り合いかな?と思ったが、初めて顔を見る人であった。先方は私の働く姿を時どき見ている人であろうが、すごく感動した。こちらこそありがとうございます。この仕事で生活を支えてもらっています、と答えたが、労をねぎらってくれるお客さんが多いし、自分も人と交わっている気になり、心が和む。日頃は、話す相手もなく、農作業に追われているが。
今朝、眼覚めて、台所から庭に目を向けると、ビワが少し黄色くなっていた。昨日、そのスーパーでビワをパックで売っていたので値段を見ると、なんと、一個が百円であった。その値段で買う人はよほど、金持ちであろう。うちの庭には枇杷の木が十本もあるが、袋掛けなどの世話をしたことがなく、時間がなくてできないのである。ほとんどがカラスに食われ、きれいな姿で残ったのは産直店に出している。
お客さんたちに、わが家のビワを食べてもらえば嬉しいと思う。
ワクチン接種の事態で日本は混乱し、それにオリンピックを開する催か否かで混乱に追い打ちをかけられている。ワクチンの申し込みでコールセンターの電話を100回かけても通じず、パニックを起こした国民もいる。アメリカやイギリスでワクチン接種が始まり成功したわけであるから、次は我が国だ!どのようにするか?と、政治家や官僚はシュミレーションし、試案したのだろうか?その形跡はない。民間企業であればその前から先手を打ってしたはずであるが、税金で生きている連中は組織がつぶれて飯が食えなくなる事態など想像しはしなかった。
こんな政治家や官僚は、金食い虫と呼ばれるだけで、要らないのである。
民間企業は金儲けばかりをしてるわけではなく、消費者がどのようにすれば満足するか?を考えと同時に送迎などの福祉にも手を入れ、国民に貢献することを実行している。この会社がなければ地域がもたない、ということになれば、行政は要らなくなるし、民間企業と合併してもいいのである。
独裁国家の中国を称賛するわけではないが、あの国は政治と会社が一体化しているので行動が素早く、臨機応変であり、後手後手に回ったりしてはいない。中華思想を復権させ、世界制覇にむかって着実に手を打っている。中国や北朝鮮が日本を攻めてきたらどうなるのであるか?シュミレーションはしているのか?戦争反対の活動家やマスコミがどのように動き、背後で黒幕はどのように考えているかなど、じゅうぶんに対策を考えているのだろうか?
このブログには二十年前から、(日本株式会社)という組織論を書いていて、近頃は行政や政府も民間登用を始めているが、根本のところは変えていない。そろそろ、根本から変えねばならない時代である。
昨日は私の誕生日であったことをすっかり忘れていた。誕生日を祝ったことも祝われたこともなかったので、無縁であった。ただ、メガネ屋さんだけは、誕生日おめでとう!、割引料金で提供します、と葉書を送ってくれていた。
我が家の、七百坪の敷地は草花が春を祝い、花盛りである。雑草たちもタマネギやホウレンソウ、絹さやえんどうなどを押しのけんばかりに生い茂り、老いた私の体力など相手にしなくなっている。草刈り機で刈り、野菜の出来ている処は手でむしり取る。生育した玉ねぎは抜いて、軒下につるし、ニンニクは掘り進めているが、まさに手に負えない。ジャガイモは連作して失敗したが、ほうれん草も玉ねぎも出来過ぎて売れず、産直店にも出せない状態である。竹の子も時々堀に行くが、旬は去って、竹に変わりつつある。
小さいままのジャガイモはポテトサラダにし、若い大根は塩漬けにし、玉ねぎは肉じゃがにしたりして食べる。食卓も花盛りになって、最高の味を毎日、頂かせてくれる。手を合わせて感謝する。酒を飲むと、また気分も盛り上がり、食後はソファに寝転がって、ユウ・チュウブでキムジョンヤの顔を見ながら歌を聴く。(雪国)がすばらしく、何度聞いても、涙が出る。彼女と強烈な恋をしている。これだけ情感いっぱいで歌う歌手は世界にはいない、と思える。
他方、世の中はまだコロナに占領されている。昨日から福岡県も緊急事態宣言が施行され、公営の施設はほとんど閉鎖状態で、カラオケも入浴も出来なくなっている。生活苦や悩みを抱えている人々は外にも出れず家の中に閉じ込められた生活をしている。そんな中で、ホームレスみたいだ、と言われたこともあるがわたしは幸福である。
余った野菜は(子ども食堂)に持って行ってあげよう、知り合いにあげよう、と考え、田舎は都市部を助けてあげよう、と思う。今回のワクチン接種において日本の鈍重な動きが問題にされているのは、国民は忠実にコロナ対策に従っているのに為政者が構造や仕組みにとらわれすぎて、その枠を超えて自由に動ききらないことである。