ブログ - 202006のエントリ

非接触システムー創作ノート。

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日記
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nakamura 2020-6-29 18:35

  文体ーカミュの(異邦人)、丸山健司の(夏の陽の流れ()、を思わせるような明るい文体で書き、即物的で感情移入を排す。

 ストーリーー夫婦の過去は一切書かず、現状のみを書く。周囲の者達はオットに、(奥さんとうまくやって下さい)と言うが、それに同意しながらも、非接触システムはかわらない。ツマは最期に、この生活が一番良いのよ、と言って、自室の内鍵を閉める。オットもツマと廊下ですれ違う時、手をのばせば触れる位置なのに出さない。非接触システムを壊したくなかった。

 書き出しー電車の轟音。空爆するようにオットの家に近づいて来る。戦後最大の国家的な危機ーコロナ。最大多数の最大幸福を訴えた体制が非接触システムによって崩壊する。時代の大きな逆転が訪れる。まわりの者達が、仲良くしてください、とうったえるのに平然と非接触システムの中で暮らすフウフ。

 八月末締め切りの文学界新人賞に応募する。

 

非接触システム。

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日記
執筆 : 
nakamura 2020-6-27 8:09

  こんな老夫婦がいる。二人とも買い物以外は、ほぼ引きこもり生活で、二十年間ほど、非接触システムの中で生きている。会話はしないし、まちがって家の中で出くわしても、相手の顔を見ることはなく、そらし、去る。買い物に出る時、ツマは彼女の部屋の外鍵をかけ、戻ると内鍵をかける。夫は無施錠であるのでツマは侵入し、手紙や日記を盗み読みする。通帳はツマが握り、夫は食材の領収書を食堂間のテーブルの上に置いておく。数分後に、現金に替えられている。食事は時間帯を変えて、たがいに自炊をし、夫は食堂間で、ツマは彼女の部屋で食べる。

 入浴をするとき、ツマはオットに見られないように裏庭から回ってこっそり入り、電灯は点けない。終わると、裏庭を通って自室にもどる。そんな生活に耐えられず、オットが苛立って怒鳴り付けると、DVだと言って、警察を呼ぶ。

 少し前まで、彼は協議離婚を考えていたが、年老いて面倒になってしまった。夫はツマが男を作って出ていくことを願っていたが、その気配は遠ざかるばかりである。すでに何十年間も相手の顔を見ていない。

 こんな状態で二十年間も同居しているなんて信じられないが、現実の一場面なのである。コロナ禍において、社会に非接触システムが出来てしまったが、この夫婦はそれを予感したように、また、時代を象徴するかのように実行していたのである。二十年前までは二人とも、濃厚接触が大好きで、そのあげくの苦しみで、濃厚接触からも離れたのである。

 このモデルは小説にとって好材料であるが、途中までは書けてもそこから先は進まない。小説を書くことは料理を作ることに似ているが、この場合はドキュメントにはなっても小説にはなりにくい。材料負け、してしまうのである。材料のアクが強すぎて、それを消すには味付け・香料が必要になってくる。香料を出せるかどうか?それが才能なのであるが、わたしにはない。

 

阿部定(あべさだ)事件。

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日記
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nakamura 2020-6-24 8:15

  近頃はもの忘れがひどくなり、言葉が的確に浮かんでこない。懸賞小説にも落選ばかりであるが、人間や自分への取り組みの姿勢は変わらない。そんなにむずかしく考えんでもいいんやない?とよく言われるがわたしの姿勢は変わらない。

 今、(木漏れ日の女)という題で書いていて、モデルはそばにいるし、体験も十分にあるので順調にすすみ、ラストの場面を残すのみとなっている。ストーリーの展開の中で、テーマを膨らますためにもどうするか?と考え込み、ある歴史的事件が思い浮かんだ。阿部定(あべさだ)事件である。あべさだ、という女が昭和11年5月18日に起こし、大事件になって、日本中を驚かせ、興奮させた。

 性交中に、女が男のペニスを切り取り、大事にして平然と持ち歩き、逮捕され、刑に服したのである。それは現代社会においても取り上げられ、映画や小説にもなっっている。窒息プレイという危険な性の技があって、首を絞めあい、脳が酸欠に近い状態になって、交接を繰り返し、長い時間、絶頂状態になるのである。(これは危険なので、読者は真似をしないでください)。

 阿部定は熱中して、長い時間首を絞め過ぎたのであろうか?それとも、絶頂状態で死なせたい、と考えたのであろうか?それはわからないが、好きな男の大事なものをいつまでももっていたかった、と供述しているのである。それは一般の人にもわからないことではないが、そう簡単には実行できることではないし、実行はしない。阿部定は絶頂状態の中で常識的な判断を失っていたに違いない。

 ある女がいる。

 花が好きで、特にバラが好きで、大切に育てるのである。ところが、きれいに咲いた時、ハサミで切り落とし、地面に放置するのである。この心理がまったくわからなかった。そこで、阿部定事件を小説の中で取り上げたのである。

 

人の世の残りし夢の界隈や。

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日記
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nakamura 2020-6-20 6:46

  さきほど観た夢には、初めての男が登場したことに、気づいた。NHKの集金人をしていた頃の、仲間であった。暴力団の準構成員で、契約・集金の仕事にばつぐんの成績を上げたが、ずる賢さと横暴な性格のせいで仲間からも上司からも嫌われていた。わたしのたちあげた労働組合に入り、ありがとう、といって私に感謝した、思い出がある。心臓病を病み、ついには見放されるようにして仕事を辞めたが、強い個性が印象に残っていた。わたしにもずる賢さと横暴な部分があるので、彼と共振したのかもしれない。

 彼と肩を並べて、スナックで酒を飲んでいる夢で、じっさい、二人だけで飲んだことがあった。NHKの集金の仕事は営業職の中でももっとも嫌われ、難しいものである。ノルマをかけられて、解約(委託契約で働いている)する、と脅されながらの日々であるので、ストレスがつづき、わたしが狭心症にかかったのはそのせいかもしれない。彼は構成員時代のことを話した。突撃隊長をしていた頃の、殺されそうになって大便をもらす男の話をし、わたしは大学で空手をやっていた頃の、一撃必殺の体験談をしたが、それ以上深い仲にはならなかった。

 夢の世界は、面白い。ほとんど毎日、夢を見るので、人生のだいぶの時間を夢で過ごしていることになる。若い頃は、ほとんど女とセックスをしている光景であったが、近頃、老いたせいで、女はすっかり姿を消した。そのかわり、思い出ぶかい景色や男、もう一度あってみたいう男などが登場する。

 H君は大学時代の親友で、彼の住むアパートでよく泊まり込んだ仲である。頭も良く、要領も良く、面倒見も良く、卒業後は美人の女と結婚し、地方の会社に就職し、四、五年前には、、社長になったと書いた年賀状が来た。彼なら社長になれると、喜んだが、彼の妻が私をさして、彼に言った言葉が心に残っている。彼が、わたしがNHKの集金人をしてると言うと、やっぱりね、つぶやいたのであった。わたしは今では、人生いろいろある、と思うのでバカにされたとは受け取らないが、心の底では、あんたの先見の明は素晴らしかったね、と言いたいのである。

 界隈、という言葉を辞書で調べると、一帯、とでているがそれだけではないニュアンスがある。隈には裏の意味があるので(新宿界隈)という言葉にはゴールデン街やション便横丁を含む場合が多い。界隈、という言葉を初めて調べてみて、日本語のなんでも受け入れる語彙の深さに感動した。

月に八万円の年金をもらおう。

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日記
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nakamura 2020-6-19 7:26

  昨日は、福岡市の千早にJRで行った。障がい者割引の切符を自動販売機で買おうとして、操作に手惑っていると、駅員から、どうしました?と声をかけられ、大丈夫です、とこたえて買うことが出来た。電車に乗るのは二か月ぶりなのでこんなところにも日頃の自宅生活が出てくる。

 全日本年金者組合岡垣支部の執行委員をしているので、二、三か月に一度は千早に行っている。年金受給者ばかりの団体であるが、政治闘争や援助活動もやっていて、みな、元気が良く、わたしのような攻撃的で変わり者も快く受け入れてくれる。昨日は、コロナ禍においての会員拡大の討議があり、わたしは内部の構造改革の話をした。受給者にも共済年金受給者から国民年金受給者まで、格差が四五倍ほども大きく、生活困窮者は高額者が援助して、相互扶助の仕組みを作るべきだと言った。どんな組織でも相互扶助があり、組合に入りませんか?と誘わなくても、相手から入りたい、という組織にすべきだといった。

 賛成者が多かったが、その中で、組合は裁判闘争で、(最低保障年金制度)をもうけるように訴えており、月額8万円だという。その金額であれば飯が食える、と考えた。年金積立金が数百兆円残っており、株式投資で失敗ばかりしているが、国民年金五万円から八万円にすれば心も楽になるというものである。

 ほとんどの人はこのことを知らないが、団結して訴えれば、このコロナ禍において実現できないことはない。

ミニトマト紅差す頬の浮き心。

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日記
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nakamura 2020-6-15 8:32

  毎朝、目覚めると、ウツである。年取るごとにひどくなり、起き上がる気がしない。他の老人たちはどうであろうか?と考えると、孫が来ると、うるさくていやになるという老男が多い。

 ただ、私の場合は、しかたなくであるが、庭の畑に出て、十種類ほどの野菜の顔や育ち具合をみ、がんばれよ、水が欲しいか?などつぶやき、しだいに命の力が湧くのである。さて、どうやって育てようか?など、考えていると、つい、スコップに手が伸びて、天地返しをはじめたりする。野菜家族から元気をもらっている。

 チップ農法で、ほとんどの野菜が生育不良になっているが、一本のブロッコリーと三本のミニトマトは元気よく育っている。中でもミニトマトのアイコちゃんは一房に十個の実がついて、頬を赤らめ、乙女の浮き心をみせるようになった。人間の女より、女らしいそぶりである。

 今は皮がまだ硬いが、もう少し待って、血の垂れるような赤味になった時、処女はどんな香りを味あわせてくれるか楽しみである。

 

ドングリの下に栗は芽を出さない。

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nakamura 2020-6-14 9:32

  前のブログに書いてるように山の土を持って来て、野菜を植え替えたが、成長の度合いに変化はみられない。相変わらず、小さく、成長不良である。成長期に成長しなければそのままで終わるのだろうが、ある発見をした。例えば、ドングリの場合である。葉を落としてそれが腐葉土になって木を成長させ、木のそばに実が芽を出せば栄養を与えるが、その養分はドングリ以外には効かないのかもしれない。自分と自分の子孫は育ててるがそれ以外は自分のエリアに入っても利を与えず、いや、育たないようにするのかもしれない。自分の家族、家系を守っているのである。だから、ちがう種は遠くに飛んでいくしかないのである。そして、山の土はそこの木にしか効かないのではないか?

 これは、種の保存、の法則でもある。

 我が家の庭のミニトマトが赤味をおび、顔に紅をさしてきた。これだけがチップ農法の成功例になりそうでうれしいが、また考えがわいた。そのトマトは人に食べられるであろうが、種は胃や腸で分解・吸収されず、排便されて、土にまじり、その養分で生きていくのである。この仕組みは不思議であり、よくできていると思う。水洗トイレで流されてしまえば、種は生きることが出来ない。こんなところでも、人は気づかぬうちに自然を破壊しているのである。

生命と物質。

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日記
執筆 : 
nakamura 2020-6-5 6:41

  昨日は,近くの山に車ででかけ、赤土を取って持ち帰り、庭の畑に盛った。チップ農法で失敗し、発育不良になったトマト、ナス、ピーマンなどを植え変えた。汗をかいたが、一つの挑戦になる期待感がわいた。

 チップ農法の先輩であるIさんの畑をまねれば、成功すると考えていたのが失敗であった。自分の畑にチップを入れても、カビがでて発酵するが、腐り、元の土にもどってしまった。彼の畑はもともと山の土であるから違うと考えついたのである。山の土は枯葉が毎年落ちて、堆肥になり、発酵して、土壌菌が枯葉から糖分をもらい、代わりにチッソ、リン酸、カリを長年提供した土にちがいなかった。その原理を畑に応用し、成功すれば、!さんの畑のように枯葉の代わりにチップを載せておくだけで、野菜は一般肥料をまったくやらなくてもいつまでも生育するはずである。

 一般の土は、なぜ、山の土のようにチッソ、リン酸、カリを出さないのであろうか?

 と考えた。同じ土ではないか?と考えたが、成分が異なるのである。山の土は化学的にギブ・アンド・テイクの仕組みが出来て、役割を知っているのだ。それは、養分を出してやれば、成長し、枯葉となって自分たちに返り、自分達に糖分を与えてくれることを知っているからである。まさに、義理人情の考え方である。それは思考であり、意志でもある。他方、人間は野菜は全部食べるか捨ててしまうから、お返しは一般肥料でしかない。人間は消費、破壊するばかりでほんのわずかしか自然に貢献しようとはしない。身勝手なエゴイストである。務めをすっかり忘れている。そこでコロナが現れて、粛清をしようとした、と考えるのは無理なことであろうか?

 今、畑に盛った山の土から、元気な野菜が育てば自分の考えは正しかったことになるし、老いた百姓は山の土で育てれば元気な野菜ができることを知っている。また、物質は生命に似て、育てる方向性と破壊のそれを持ち合わせており、思考力がある。それは超人的なものの意志に動かされているのではないか?その中で、人間の欲望や意志などはすごく弱いものにしか過ぎないのである。

コロナ革命。

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執筆 : 
nakamura 2020-6-1 17:34

  今日の昼過ぎ、カラオケ店に三か月ぶりに行った。ビデオ・カメラとお茶を持ってドアを開けると、消毒液があり、感染対策の掲示板が立っていた。受付に行くと、注意書きがしてあり、六十歳以上が一時間三百円と書かれていて、まあ仕方ないや、と思ったが、受付男子社員が口の中でモグモグしゃべりは始めたので、よく聞くと、コロナのせいで一部屋の間隔をおいて使うため、一時間五百円だという。それで少し考え、帰ると言って、スーパーに行き、ビールとチーズ、まんじゅうを買って、家で食べた。

 ビールを飲みながら、考え込んだのであった。

 もう、大量生産、大量消費、密集、低価格の時代は終わった、ということであった。コロナは自ら移動も生きることも出来ないので、それらは人間に便乗、寄生して生きてきた。つまり、コロナは人間の生命、活動の負の面であったのであるが、今や、コロナはその勢いや仕組みを制しようとし、制御しなければ人類は生存できない恐怖を与えたのである。つまり、コロナは人間の生活に革命を与えた、といっても過言ではない。

 失業者が増え、生活困窮者が増えるので、新車が必需品ではなく、贅沢品になり、大学進学も少数者になり、特権的なものになり、貧富の格差はもっと広がり、産業は低迷し、自然環境は破壊から救われるであろう。時代は一世紀前に戻るかもしれないが、人間に生き方や幸福の度合いはゼロサム的なものから変わりはしないはずである。

一人カラオケに行く。

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日記
執筆 : 
nakamura 2020-6-1 7:45

  緊急事態宣言の一部が解除されたとはいえ、ほとんどすべての催しや出会いは消えたままである。毎週やっていた障害者カラオケ練習もなくなり、年金者組合の総会も交流会も開けず、カラオケ教室はやめたし、出会いの機会がなくなると、人との出会いはまったくなくなり、人としゃべることもなくなった。自分には野菜作りや除草、産直店での交流などほんのわずかな接触に絞られてしまった。

 この時代を何と名づければ良いのか?どのようにとらえ、立ち直れば良いのか?どんな生き方をすれば良いのか?誰もが思い悩むことになってしまった。レアだとか、変わり者だとか言ってうぬぼれていた自分のメッキさえ、剥がれたおもいになるが、冷静に振り返ればコロナ前のころであっても、私たちはタコのように自分の脚を食べながら生きていたのであり、コロナ禍によってはっきりさせられたにすぎず、資本主義の基本は何も変わっておらず、ただ、事態が、自分の生き死にまで、迫ってきたにすぎないのである。

 あるスナックママはボッタクリ商売から信用を失い、借金地獄になっている。最近彼女の情報が入らないのでどうしてるかしらないが、一年前までは借金を繰り返して、自己破産をしてチャラにし、三年たつと、また借金をする暮らしをしてると聞いた。金貸しが取り立てにくると怒鳴りつけたり、あんたは金貸し業の許可を取っていないから返す必要はない、などと言って対抗したようであった。

 わたしは彼女を非難したいわけではない。転げ落ちながらもしがみつく生き方に逆に尊敬さえしているのである。わたしも、ボッタクラれたけど、あんな生き方も出来ると感心するのである。

 町の図書館は開くようになり、カラオケ店も始めたようであるから、一時間半で二百五十円のカラオケ店に行き、忘れかけた歌をもう一度、一人で、歌ってみよう。この時代とも、死ぬまで付き合うしかない。

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