ブログ - 20190722のエントリ
昨日の日曜日は、いつものように教会に行った。聖書は壮大な物語として面白く、現在にも通じる訓話も入っていて、興味がつきない。いつかは、この世の真理にたどり着ける期待感もわかしてくれる。
神父の講演は、ルカ福音書15・11?24にもとづいていた。
2000年ほど昔、中近東のある所の話である。成人した次男は父に、財産をくれ、と言った。父は応じて渡した。すると次男はそれを金に換え、遠い所に行ったまま帰って来なかった。彼は女を買い、酒に塗れて、財産のすべてを失った。飢饉が起こり、食べる物もなくなった。彼は豚の飼育係として働き始めたが、食べる物がなくて飢え、彼に豚の餌(イナゴ豆のサヤ)さえ恵んでくれる者はいなかった。
彼は帰郷し、父に赦しを乞うた。父は彼を叱るどころか、生きて無事に戻ってくれたことを悦び、酒宴の場を設けたのであった。ところが、長男はそれを許さなかった。自分はきちんと働いて、家の財産を守っているのに放蕩息子の弟を許し、祝いまでするとは何事か!と父を罵った。
父は、良いではないか?次男が生きて無事に戻って来てくれたではないか、と諭したのである。
これは聖書の中では有名な話であるが、わたしは知らなかった。同時に、放蕩息子とは自分のことではないか?と疑い、苦笑したのであった。そして、父親の気持ち(神父は神の気持ちに通じていると言った)がよくわかった。わたしには二人の息子がいるが家を出たまま、音信不通である。財産を求めて、いずれ、接触してくるであろうが、その時、自分はどんな態度を示すか?自問自答することもあるのだ。
一か月前にある会の親睦会に行き、落語を聞いた。(間)の感覚のわからない素人芸人で、長ったらしくしゃべり、故意に笑わせようとして、面白くなかった。神父の講演はおっとりとした口調で話を回し、聞く者の心の中にしみた。(聖書落語)というのはどうだろうか?と考えた。聖書の協会が許さないであろうが、新分野、である。