ブログ - 20190718のエントリ
三年前、絵画教室に一か月間ほど、通ったことがあった。結局は、石鹸のデッサンさえ描けなくて、やめてしまったが、意外なことを発見した。写真で撮った海岸、額縁に入れたそれを観ながら、キャンバスに描いていた人がいて、講師の男性は黙って観ていたのである。
海岸に行けば風は強いし、寒いであろうことはわかるが、室内でそんなやり方をすることに、すごい疑問を感じ、時代そのものがデジタル技術に犯されていると思った。現場に行けば、予想外の光景や出来事を発見し、それが材料になることを、教室の講師は教えないのであろうか?そのことが本人にわからないのか、そして、芸術とは何か?を知らないのであろうか?
写真を観ながら絵を描くのであれば、写真そのものをを加工した方が正確だし、精巧な方法もパソコンには入っている。技術と芸は明らかに異なるのである。テレビ・ドラマをわたしは見ないが、脚本、映像、演技などがあまりにも技術的に処理されていて、リアリティが薄く、迫って来るものがないからである。
それは、今の世の中もデジタル加工され、メディアもそれに倣って事実を加工しているので、現実はますます遠ざかり、意外な出来事が起こって初めて顔を出す、という怖い世の中になってしまっている。
今の時代は百年先には、デジタル時代、と呼ばれるのではないか?あるいは崩壊して、違う時代が訪れているかもしれないが、矛盾の害は奇形を産み続け、発狂に至ることはまちがいない。同じ一万円でも一か月の米のためのそれなのか?娯楽に使うためのものか?によって価値は大きく異なるがデジタル的価値基準では一万円なのであり、違いを求めるとすれば、(使用目的)という異なる領域をつくらなければならない。中には、その金でメシが食えなくても娯楽のために使う方が良いという人だっているだろう。デジタルは見わけがつかず、目先の数値に振り回され、社会や世界そのものがとんでもない方向に進んでいることに気づく者は少ない。年金の問題やGNP,GDPなど政府の掲げる数値がことごとく彼らの都合の良いものばかりで、実態を反映してはいないのである。金権主義を民主主義と言い換えたり、国家公務員試験と言う難しい試験に合格しながら、公僕という言葉を知らない公務員がたくさんいたり、目に余る社会は方向を失わず、着実に崖っぷちに向かって進んでいる。
幼児の頃からゲームやスマフォで育てられた者達は何の疑いもなく、デジタル信者として生きていくしかないのである。数日前の総理大臣の街頭演説の時、ヤジを飛ばした者二人が、警察官にごぼう抜きされたように、事実を言えば権力が牙をむく。わたしが六年前、海老津駅南開発反対運動で町議会でヤジを飛ばし、議員が警察を呼んだのと同じである。
発達障害やひきこもり、認知症など精神の弊害は増えるばかりである。